同族が一番こわい
「食料を出せ。さもなければ、巣ごともらう」
やっと手に入れた俺たちの巣を囲んだのは、俺と同じゴキブリだった。
正直に言おう。
蜘蛛より怖い。
「同族なら話が通じると思ってたのに!」
「お前も最初に会った時、僕のパンを盗んだよね」
隣でチュウタが言う。
「あれは生存のための緊急避難だ!」
「向こうも同じこと言いそう」
「過去の俺が今の俺を殴ってくる! あの時のお前、俺のパンを本当に半分持っていったよな!?」
「あれはもう時効だよ」
「異世界に時効なんてあるのか!」
資材庫の石扉は、前脚一本分だけ開いている。
外には、無数のゴキブリ。
床だけではない。
壁にも、天井にも張りついている。
数は五十……いや、暗がりの奥まで含めれば百匹近い。
黒い殻。細い触角。節のある六本脚。
人間だった頃の俺なら、これだけ並んだ瞬間に悲鳴を上げていた。床へ新聞紙を叩きつけるとか、殺虫剤を一本空にするとか、家ごと引っ越したいとか――いや最後は大袈裟かもしれない。でも今、目の前の光景を見て最初に思ったのは「気持ち悪い」ではなかった。
腹が減っている。
乾いた殻の匂い。長く水を飲めていない個体の呼吸。脚を引きずる振動。幼体を身体の下へ隠す親の歩幅。
同じゴキブリになったから分かる。
百匹の黒い塊じゃない。
百匹近い、腹を空かせた一匹ずつだ。
「うわあ……分かりたくなかった! いや分かってよかったけど、こういう能力じゃなくて金貨の匂いとか分かりたかった!」
「何を一人で揉めてるの?」
「俺の中に残った人間とゴキブリが会議してる!」
「結論は?」
「どっちも腹が減ると怖い!」
全員で一気に押し寄せれば、扉はもたない。
内側では、深根の兵士たちが槍を構えていた。
「王よ。扉を閉じ、入口へ油を撒きましょう」
「待て」
ガルダン王が止める。
「余は話を聞くと約束した」
「しかし奴らは巣を奪うと!」
「ゆえに、話を聞いた後で殴るか決める」
「殴る可能性は残ってるんだな!」
王様らしい。
俺は石扉の隙間から外へ出た。
背後でチュウタが息を呑む。
「クロ!」
「大丈夫。同族同士、まずは挨拶してくる」
「戻らなかったら?」
「先生に、俺の保存パンを食べていいと伝えてくれ」
『持っていないだろう』
「気持ちの話だ!」
扉が閉じる。
俺一匹と、百匹。
数だけ見れば絶望的だ。
だが、向こうはすぐに襲ってこない。
先頭の大きなゴキブリが、俺を見下ろしている。
身体は俺の一回り以上。
片方の触角が根元から折れている。
右の翅には、三本の古い爪痕。
後ろ脚の一本を少し引きずっている。
戦ってきた身体だ。
そして、逃げてきた身体でもある。
「お前が、ここの頭か」
「違う」
「では、王を出せ」
「中の王様はネズミだ」
大きなゴキブリの触角が止まる。
背後の群れも、ざわついた。
「ネズミの巣へ飼われたか」
「同盟を組んだ」
「同じことだ」
「全然違う! 飼われてるなら、俺はもっと腹いっぱい食べてる!」
今朝の配給は、木の実の粉をつけたパンくず一個。
ご馳走だった。
量は小さかった。
思い出しただけで腹が鳴る。
きゅるるっ。
大きなゴキブリが俺の腹を見る。
「……本当に飼われてはいないらしい」
「腹で信用を得た!」
「名はガーロ」
突然、男は名乗った。
「この群れを率いている」
「俺はクロ。黒いからクロだ」
「そのままだな」
「言われ慣れてる! お前の名も、その傷と折れた触角を見ればだいたい想像がつくけどな」
「言ってみろ」
「歴戦の――いや、やめとく。本人に確かめずに勝手なあだ名をつけると、あとで自分が刺される」
「賢明だ」
ガーロは石扉を見た。
隙間から、祝いの食べ物の匂いが漏れている。
「食料を半分出せ。水場も使わせろ。拒めば奪う」
「半分は無理だ」
「では戦いだ」
周囲で触角が持ち上がる。
黒い群れが、一斉に半歩近づいた。
カサカサカサカサッ!
音だけで背中がむずむずする。
俺もゴキブリなのに!
「戦う前に一つ聞く。最後に食べたのはいつだ?」
「関係ない」
「ある。腹いっぱいの軍隊なら、食料の匂いがしても隊列を崩さない」
ガーロの背後を見る。
大人たちは、こちらへ顔を向けたまま動かない。
だが、その脚の間にいる幼体は違う。
小さな触角が、扉の隙間へ伸びている。
一匹は落ちていた木の皮を噛んでいる。
別の一匹は、隣の背についた苔を舐めた。
腹が薄い。
脚に力がない。
「その子たち、何日食べてない?」
「見るな」
ガーロが俺の前へ出た。
「三日か? 四日?」
「黙れ」
「食料を奪うなら、なぜ幼体を戦場へ連れてきた?」
「置いておける巣がない」
答えは小さかった。
やはり、こいつらは攻めてきたのではない。
逃げてきたのだ。
逃げた先で食料の匂いを見つけた。
背中を向ければ、幼体が死ぬ。
だから奪うと言っている。
「食料を出せ」
ガーロがもう一度言う。
「お前一匹が潰れれば、中のネズミも怖がるだろう」
「やってみろ。ただし、俺は小さいぞ。潰しても腹の足しにはならない」
「試すか」
ガーロの前脚が上がる。
速い。
俺は避けなかった。
前脚は、頭のすぐ横へ落ちた。
ばんっ!
石床にひびが入る。
割れた石の震えが五本の脚を駆け上がり、腹の奥へ突き刺さった。焦げた触角が勝手に後ろへ倒れる。逃げろと身体が叫ぶ。薄い身体を床へ伏せれば、ガーロの腹下を抜け、壁の隙間まで三息で届く。
逃げられる。
それが分かるから、余計に逃げたかった。
「ああもう、何で俺はこういう時だけ格好つけるんだ! 誰も見てなかったら今ごろ壁の裏だぞ!」
「全員見ている」
「ガーロ、正確な報告ありがとう! さらに逃げにくくなった!」
「なぜ避けない」
「本気で潰すなら、話してる間にやってた」
「思い違いだ」
「それに、俺を潰したら扉は開かない」
「脅しか」
「交渉だ」
脚が震えている。
俺の脚だ。
怖いに決まっている。
石を割る前脚が頭の横にあるのだ。
でも、ここで逃げれば、内側と外側が戦う。
腹を空かせたゴキブリと、病み上がりのネズミ。
どちらが勝っても、俺の仲間が減る。
「三日だ」
「何?」
「三日間、食料を分ける」
ガーロの背後で、ざわめきが広がった。
「ただし、半分を渡して終わりじゃない。中の連中と同じ配給にする。子供と病人が先。動ける奴は少なめだ」
「我らをネズミの決まりへ従わせるつもりか」
「俺たちも同じ決まりで減らす。片方だけ我慢させない」
「三日後は?」
「三日で食料を増やす」
言ってから、自分の口を塞ぎたくなった。
何を言っている、俺。
地下の食料が簡単に増えるなら、誰も飢えていない。
でも、方法がないわけではない。
白い粉の流入が止まれば、今まで危険だった場所へ行ける。
廃棄されたキノコ。
水路の苔。
倒した魔物が残した殻。
食べられないと思っていた物を、食べられるようにできれば。
「その間、そっちも働く。水路を直す。食料を探す。危険を見つける。誰かが食べ物を抱えて逃げないよう見張る」
「我らを働かせ、わずかな餌を与える。やはり飼うつもりだ」
「違う。俺も働く。ネズミも働く。先生も――」
先生は骨だ。
「先生は食べないけど働く!」
石扉の内側から声がした。
『勝手に私の仕事を増やすな!』
「聞いてた!」
扉の向こうで、チュウタが笑う。
緊張していたゴキブリの一匹も、触角を揺らした。
その時だった。
ガーロの後ろにいた幼体が、一匹倒れた。
かさっ。
小さな音。
母親らしいゴキブリが、すぐに抱き起こす。
「ミニ!」
返事がない。
ガーロが振り向く。
俺は石扉を叩いた。
「薬師! 扉を開けろ!」
「罠かもしれないぞ!」
兵士の声。
「罠なら、俺が最初に噛まれる! 今は子供が先だ!」
石扉が開いた。
槍を持ったネズミたちが並ぶ。
外のゴキブリが身構える。
一触即発。
その間を、薬師が薬袋を背負って出てきた。
「病人はどこです!」
ガーロが前へ立つ。
「近づくな」
「では、その子をこちらへ」
「ネズミへ渡せと言うのか」
「ネズミではありません。今は薬師です!」
薬師の声は強い。
「病人の前で種族を聞くほど、私は暇ではありません!」
ガーロが黙る。
母親が、幼体を抱いて前へ出た。
薬師は匂いを確かめ、口元へ水を一滴落とす。
「飢えと水不足です。食べ物を急に与えると身体が驚きます。薄いキノコ汁を少しずつ」
「あるのか?」
「今から作ります」
資材庫の奥から、祝いに使った石鉢が運ばれてくる。
水。
干しキノコの粉。
木の実をほんの少し。
薬師が混ぜる。
ガーロはその間、幼体から一度も目を離さなかった。
「毒見が必要だ」
「俺が飲む」
「お前は信用できん」
「だったら自分で飲め!」
ガーロが石鉢の端を舐めた。
目を細める。
「薄い」
「病人用だからな」
「だが、温かい」
幼体へ、一滴ずつ飲ませる。
しばらくして、小さな触角が動いた。
「お腹、空いた」
その一言で、母親が泣いた。
ガーロは泣かなかった。
ただ、折れた触角をゆっくり下げた。
「三日間」
低い声。
「お前の配給へ従う」
資材庫の中で、兵士たちが息を吐いた。
外の群れも、構えていた脚を下ろす。
「ただし、武器は入口へ置け」
ガルダン王が前へ出た。
「深根の民も同じだ。食事中に武器を持つ者はいない」
「我らを裏切れば?」
「余が先頭で戦う」
「こっちもだ」
俺は言った。
「裏切りを見つけたら、同族でも止める。でも腹が減っただけなら、まず飯を出す」
ガーロとガルダン王が睨み合う。
大きなネズミと、大きなゴキブリ。
間にいる俺が、一番小さい。
「俺、ここに必要?」
「お前が始めた交渉だ」
「最後まで立て」
「はい!」
三日間の共同配給が決まった。
武器代わりの尖った石や針を入口へ積む。
幼体と病人から順に、資材庫へ入る。
ネズミたちは壁際へ寄り、通り道を空けた。
ゴキブリたちは警戒しながら、その間を進む。
誰かの腹が鳴る。
別の誰かの腹も鳴る。
やがて、あちこちから音が重なった。
きゅるるるるるるるっ。
「威嚇の声より怖くないな」
チュウタが言う。
「腹の合唱だ!」
「指揮者は誰?」
「決まってる、俺たち全員の空腹だ!」
最初の配給は、小さなキノコ汁だった。
量は足りない。
味も薄い。
それでも、全員へ行き渡った。
俺は配給列の横を何度も往復した。
近くで見ると、やっぱり誰も同じじゃない。
背に丸い噛み傷のある若者。左前脚だけ歩幅の短い老人。二匹の幼体を左右の翅の下へ隠す母親。乾いた苔を弟へ先に渡し、自分は鉢の縁についた汁を舐める姉。
「その皿、まだ一口残ってるぞ」
「弟に」
「お前の分だ」
「でも」
「弟はさっき二滴多かった。俺が数えた。こう見えて触角は一本半ある!」
「半分、役に立つの?」
「今それを聞くな! 本人も気にしてる!」
姉は迷ってから、自分で最後の一口を飲んだ。
その喉が動くのを見て、俺の腹まで少し温かくなった。量は足りない。全然足りない。それでも「誰かから奪った一口」ではなく、「自分の名前で受け取った一口」になった。
配給が終わると、俺は木箱の上へ在庫を並べた。
干しキノコが十二枚。
木の実が十九個。
穀物は石皿に薄く一杯。
保存パンは、もうない。
「数字にすると、急に心細いな!」
「数えなくても心細かったよ」
チュウタが木の実を転がして、十個と九個に分ける。
ゴキブリの幼体が一匹、木箱の下から前脚を伸ばした。
「こら!」
俺が声をかけると、小さな脚が止まる。
木の実を盗ろうとした幼体は、怒られると思ったのか身体を丸めた。
「盗むなら、もっと上手くやれ」
「教えちゃ駄目だろ!」
チュウタが突っ込む。
「違う違う。今は盗らなくても、次の配給が来るって話だ」
俺は木の実の欠片を、幼体用の皿へ入れた。
「名前は?」
「ピノ」
「ピノ。次から腹が減ったら、盗る前に配給係へ言え」
「言ったら、もらえる?」
「余っていれば。なければ、一緒に探す」
「怒らない?」
「腹が減ることは悪いことじゃない。黙って仲間の分まで抱えると怒る」
ピノは少し考え、木の実から前脚を離した。
「じゃあ、探す方を手伝う」
「よし。小さな隙間を調べる係だ」
いきなり一人、働き手が増えた。
それを見ていたネズミの子供も前へ出る。
「僕は匂いを探せるよ」
「私はキノコを運べる!」
「待て待て。子供は危険な場所へ行かない。まず資材庫の中で、食べられそうな物と食べられない物を分ける」
先生が平石を三枚並べた。
『食用、要調査、危険。この三つへ分けるのだ』
「先生、授業みたいになってきたな」
『授業だ。食べ物を見分けられぬ者は、地下では長生きできん』
子供たちが、古い苔や木の皮を持ち寄り始めた。
ネズミとゴキブリが同じ石板を囲み、これは食べられる、これは苦いと騒ぐ。
さっきまで槍と尖った石を向け合っていたのに、今は一枚の干しキノコを真剣に嗅いでいる。
「食べ物の力、やっぱり強いな」
『お前が毎回証明している』
ガーロは自分の分を受け取らず、幼体の列を見ていた。
「お前も食べろ」
「最後でいい」
「指揮する奴が倒れたら困る」
「命令か?」
「配給係からのお願いだ」
「お前はいつ配給係になった」
「今!」
ガーロへ石皿を押す。
彼は一口飲んだ。
「薄い」
「二回目だ!」
「三日後には、もっと濃い物を出せ」
「努力します!」
「努力では足りん」
「分かってるよ! 俺だってこの薄さで満足してない! さっきの宴でパンを一口食べて、やっと今日は寝られると思ったんだぞ! それが目を開けたら百匹増えてて、初対面の同族から食料を倍にしろ? 転生特典どころか、依頼だけ自動追加される呪いじゃないか!」
ガーロは黙って汁をもう一口飲んだ。
「それで?」
「それでもやる! 子どもが木の皮を噛むよりは、俺が三日間文句を噛んでる方がましだ!」
「文句で腹は膨れん」
「知ってる! だから食料を探すんだよ!」
ガーロが俺の目を見る。
「この食料を、三日で倍にしろ」
「……はい?」
「我らが働けば食べる者も増える。三日後、今の倍を用意できたなら、お前のやり方を認める」
「できなかったら?」
「我らは食料を求め、別の巣へ行く」
別の巣。
それが話し合いで済む保証はない。
「分かった」
俺は答えた。
「三日で倍にする」
チュウタが耳元で囁く。
「方法、あるの?」
「今から考える」
「ないんじゃないか!」
「聞こえているぞ」
ガーロの声。
「触角が片方なくても、耳はあるからな!」
三日で、食料を倍。
仲間が増えた最初の仕事は、途方もない無理難題だった。
「生きるだけで、どうして毎回締め切りがつくんだ!」




