白い粉の正体
「吸うな! 伏せろおおおっ!」
東の通気穴が、内側から破裂した。
ぴしっ、と土壁へ白い亀裂。
次の瞬間。
ぼふぁああああっ!
押し込められていた白い粉が、巨大なくしゃみのように噴き出した。
「布! 濡れ布を前へ!」
バルグ隊長の号令で、深根兵が水を含んだ布を広げる。
ざばっ!
白い霧が布へぶつかり、ぼたぼたと泥になった。
「止まった!」
「いや、下だ!」
布と床の爪先ほどの隙間から、細い白煙が這い出す。軽い粉は下へ、横へ、俺なら通りたくなる狭所へまで回り込んでいた。
「得意分野で勝負してきたな! 隙間へ入るのは俺の仕事だぞ!」
「張り合ってないで止めて!」
診療穴のチュウタから怒鳴られた。
「分かってる!」
右後脚を畳み、床へ腹を擦って布の端を走る。粉そのものは見失っても、抜ける風が左の触角だけを冷やした。
「左下! 布の端へ湿った土を載せろ! 全員で踏むな、交代できなくなる!」
「承知!」
ざっ、ざざざっ!
深根兵三匹が土を盛る。白い筋は細くなったが、中央にまだ穴がある。
「先生の指一本分!」
『私を長さの単位にするな!』
先生は怒りながら右手を外し、布の下へ差し込んだ。
『ここだ! 私の中指の左!』
「結局、先生も先生の指で説明してるじゃないか!」
『今は分かればよい!』
骨指を目印に土を押し込み、噴出がようやく止まる。
だが布の向こうでは、ずず、ずずず……と粉の圧力が続いていた。止めたのではない。今だけ押さえている。
「東、仮封鎖!」
「西も二回目! 中央は布が足りません!」
「診療穴の予備は使うな! 食料袋を縫え!」
「縫う間に漏れます!」
「現実が仕事熱心すぎる!」
俺たちが同時に怒鳴る横で、ジロだけが石板へ時刻を刻んでいた。
「東は亀裂から封鎖まで三十二呼吸。次は二十五を目指せます」
「次がある前提で言うな!」
「もう西で始まっています」
「本当に仕事熱心だな、現実!」
触角を床へ当てる。ざらざらした振動は三方向。東は一定、西は強弱を繰り返し、中央は生き物みたいに脈打っている。
「穴を塞ぐだけじゃ、別の場所が破れる」
『その通りだ』
先生が粉まみれの中指を引き抜き、青い魔力を灯した。
じゅっ。
光が白い粒へ吸われる。
『……訂正する。呼吸をしなくても、触れれば魔力を奪われる』
「先生も駄目じゃないか!」
『だから訂正した!』
指を水へ突っ込むと、粉は泥になって落ちた。だが奪われた青い光は戻らない。
口だけ覆えばいい問題ではなかった。
ゴキブリの俺は、腹の横へ並ぶ呼吸孔から空気を取り込む。口へ布を巻いて格好よく突入しても、身体じゅうで粉を歓迎することになる。
歓迎しない。帰ってくれ。お土産も出さない。
「全身を覆う装備がいる。ネズミ用、ゴキブリ用、骨用の三種類だ」
「また濡れ黒豆になるの?」
「病人は寝てろ! それと黒豆呼びを定着させるな!」
ミナ薬師に首根っこを掴まれながら、チュウタが食い下がる。
「でも、土の中の粉の流れなら寝台から調べられる」
「寝ながら働く役目なんかある?」
「今作る」
「作るの!?」
俺たちは粉の薄い中央広場へ移った。深根の民が、寝袋、食料袋、布、苔縄を次々と持ち寄る。
「これ、死んだ祖父の寝袋」
小さなネズミが古い布を押した。
「汚したら怒るか?」
「みんなが帰ってきたら、怒らないと思う」
胸の奥が詰まる。
「借りる。破れたら、もっといいのを二つ作る」
「二つ?」
「破れた分と、お礼だ」
約束が一つ増えた。絶対に帰る理由も一つ増えた。
「防粉装備一号、作るぞ!」
ネズミ用は、頭から尻尾の付け根まで袋で覆い、鼻へ濡れ苔。脚穴には草紐。
俺用は細い薬草袋。触角と六本脚だけ出し、腹横の呼吸孔を覆う。使えない右後脚も粉から守るため、穴は六つだ。
先生用は――。
「全身へ泥を塗る」
『待て』
「骨の隙間まで覆える」
『待てと言っている!』
「治療です。動かないでください」
ミナが湿った粘土を頭蓋骨、肋骨、腕、脚へ塗る。
『教師を埋めるな!』
「埋められて三十年目の先生だね」
『埋まっていた時の方が威厳があった!』
「俺は?」
「濡れ黒豆二号」
「一号を飛ばすな! いや番号の問題じゃない!」
ガルダン王がネズミ用一号へ冠ごと頭を押し込んだ。
ぶちっ。
獣牙が布を二か所突き破る。
一拍、全員が黙った。
「王様。防粉装備一号、通気穴が二つ」
「粉も通ります」
「……二号を作れ」
「冠を外せえええっ!」
王は心底悔しそうに冠を外した。王様も格好を気にする。濡れ黒豆を恥ずかしがるのは俺だけではない。少し安心した。
笑える試着の次は、性能試験だ。
白い粉の流れる場所へ、発光苔を四枚置く。裸、乾いた布、濡れ布、濡れ布の外へ薄い粘土。
裸と乾いた布の苔はすぐ暗くなる。濡れ布は長く持ち、粘土つきはほとんど変わらない。
「水が粉を捕まえ、粘土が乾燥を防ぐ」
「ただし重い。塗りすぎれば逃げられません」
ミナの指摘で、ネズミは顔と脚穴を厚く、背を薄くする。俺は呼吸孔のある腹横を厚く、背は濡れ布だけ。先生は全身。
『なぜ私だけ全部なのだ!』
「肉がないから」
『正しすぎて腹が立つ!』
試作品二号で走った。
三歩まではいい。
四歩目、粘土の重みで袋が左へずれる。
五歩目、触角穴が引かれる。
六歩目。
「待っ、前が見えな――」
ごろん、ごろんっ!
俺は二回転して、チュウタの寝台へ頭からぶつかった。
「黒豆が転がった!」
「笑うな! 脚が布の中でどれか分からない!」
「六本もあるから」
「今は五本しか使ってない!」
「もっと分からないね」
「冷静に絶望を増やすな!」
ヨンに袋を引かれて起きた。粉を防げても逃げられなければ意味がない。
「粘土を減らす。ただし、場所は間違えない」
俺は自分の腹を見た。
人間のように胸で息をする感覚は、もう役に立たない。空気は腹の節から入り、匂いは触角、床の音は脚で聞く。全部ばらばらで、最初は自分の身体なのに説明書が別の生き物用みたいで気持ち悪かった。
今だって、たまに腹が立つ。
でも、この身体を知らなければ守り方も分からない。
「腹横だけ粘土を厚く。胸と尻へ分ければ左右へずれない。脚穴は紐で締めず、湿った苔輪にする」
ヨンが六つの輪を編んだ。
「右後脚は使わないから五つで――」
「使えなくても、粉から守るんでしょ?」
「……そうだな。六つ頼む」
「はい、黒いおじさん」
「そこも直してくれ!」
試作品三号。
走る。ずれない。壁へ上る。落ちない。普段より身体一枚分厚いまま、細い隙間へ入る。
「ぐぬぬぬ……!」
腹を押し、翅を畳み、空気を抜く。
ぬるっ。
「いける!」
広場から拍手が起きた。
「濡れ黒豆三号、完成!」
「その名前で完成させるなあああっ!」
「前世なら新製品発表会に社名までつけて出してただろ!」
「今世の社名が黒豆なのが不服なんだよ!」
だが装備は完成した。怖い粉が、試せる問題へ変わった。
『次は古代の浄化記録所だ』
泥だらけの先生が三本の通気穴を見る。
『設備の状態と、粉の正体が記録されている。場所は北西……だった気がする』
「気がする!?」
『三十年前の記憶だぞ!』
「北西には未使用穴が十七あります」
ジロが地図を示す。
「全部見る時間はない。粉の古代管を追うぞ。俺が匂い、ジロが噴出時刻、チュウタが土の振動だ」
チュウタは寝台の上から前脚を床へ置く。
東から西まで十一呼吸、中央まで七。俺の触角が濃い粉の匂いを北西へ絞り、チュウタの土魔法が壁内の流れを読む。
どん。ざらざら。とく、とく、とく。
「五番穴。六番は詰まってる。五番の向こうだけ広い空洞だ」
「決まりだ!」
走りかけた俺を、チュウタが止めた。
「クロ。今、眩暈がした」
寝台の縁を、悔しそうに何度も掻いている。
「まだできる。場所も分かったし、入口まで――」
「約束どおり言ったな。偉い」
「子ども扱いするな」
「じゃあ相棒扱いだ。相棒、ここで調査終了」
「……悔しい。扉も見たい。僕がいないところで、またクロだけ落ちたら嫌だ」
綺麗に諦められない。当然だ。俺ならもっと長く愚痴る。
「俺も来てほしい。でも、お前がここで止まったから場所が分かった。役目はなくなったんじゃない。自分で終わらせたんだ」
「言い方を変えただけじゃない?」
「ちょっとは」
「ずるい」
「帰ったら中を全部話す。先生が忘れたところは大袈裟に埋める」
『私が忘れる前提で話すな!』
「絶対帰ってきて」
「今度は遅いって言わせない」
「五呼吸でも遅れたら言う」
「厳しすぎる!」
運ばれていく寝台から、床へ一度だけ、こつん。安全の合図だ。俺も前脚で一度返した。
北西五番穴は、取っ手のない石扉で塞がれていた。
『“第三区域・浄化記録所”』
「開け方は?」
『覚えていない』
「名前だけ思い出して扉前で終わるの、一番悔しい奴だぞ!」
扉下には三本の溝。中央だけ風がある。
「入口は俺一匹。でも開けるのは全員だ」
濡れ黒豆三号を湿らせ、腰縄を結んで溝へ入る。人間の指先すら通らない石の中を、俺の全身が進む。
三つの突起を見つけた。
一つを押す。かこん。
二つ目を押すと、一つ目が戻る。
三つ目は、頭と前脚でも動かない。
「小さい奴しか入れない場所に、小さい奴では押せない仕掛けを置いた設計者、出てこい!」
『三十年以上前だ。もういない』
「苦情の石板を残す!」
一つ目と二つ目へ縄を回し、三つ目には外から細い棒。俺が二つを引き、王が棒を押す。
かこん、かこん、ごりっ!
三つが沈み、青く光り――全部ばちんっと戻った。反動で俺は溝から吐き出され、王の前脚へ転がる。
「失敗!」
「見れば分かる」
「もう少し優しく受け止めろ!」
『魔力認証も必要だ。今、文字が光って読めた』
「先に読んで!」
『今読めたと言った!』
三回目。
ジロが数え、俺が縄、王が棒、先生が魔力。
「一、二――三!」
かこんっ! かこんっ! ごがんっ!
「四!」
青い魔力が棒を走り、三つの突起へ同時に広がる。
びいん――。
石の奥で留め具が、がん、がん、がん、と外れた。
ズゴゴゴゴゴゴ……!
巨大な石扉が、土と粉を左右へ押し分けて持ち上がる。
「開いた! 俺が――いや、四匹で開けた!」
『訂正が早くなったな』
「学習するゴキブリだからな!」
「調子へ乗るのも早い」
「ジロ、それは記録するな!」
記録所の壁には青い文字が水のように流れ、何十本もの細管が中央の半球へ集まっていた。
先生が読む。
『左供給管、保守開通。中央循環管、閉鎖。右廃粉管、圧力限界。再処理炉、停止から一万一千四百二十日』
「三十一年と少し」
『私が埋まった頃と近い』
「先生が壊した?」
『違う! たぶん!』
「たぶんがついた!」
右廃粉管の圧力は五日前から上がっていた。病人が出た日と同じで、俺たちが来る前だ。ただし、左の給水管を開けた時刻に圧力は急上昇している。
「水を出して、みんなで喜んだ。その裏で粉を押したんだな」
前脚が石床を、かり、かり、と掻く。
『病の始まりは君たちより前だ。だが圧力を増やしたのも事実だ』
「じゃあ責任はある」
『ある』
綺麗に否定されない方が、少し楽だった。
ガルダン王が俺の隣へ座る。
「ゆえに我らと共に直せ。責任から逃げるな。だが一匹で罰を受けることと混ぜるな」
「……分かった。みんなで直す。そのあと古代人へ説明書と保守期限について正式に苦情を言う!」
「深根の王も署名しよう」
「王様も!?」
「当然だ」
「ジロ、王様の花押、覚えられるか?」
「爪痕で十分です。個体識別は容易」
「サインすらネズミらしい合理性だな!」
次の石板が、白い粉の正体を教えた。
本来は、水中の毒性魔素を吸いつける浄化材。汚れを抱えたあと右管から再処理炉へ送り、洗って再利用する。粉そのものが悪いのではない。炉が止まり、管が割れ、壊れた使われ方をしている。
小石、魔石、生きた発光苔へ三粒ずつ近づけた。小石は変わらない。魔石はゆっくり暗くなり、生きた苔は一気に光を奪われる。
「生きた魔力を強く吸ってる」
『生命の魔力は揺れている。壊れた判定が、揺れまで毒の広がりと誤認している』
「現在の基準では、健康な小動物まで汚染判定です」
ジロの言葉へ、触角が止まった。
『今の装置から見れば、地下で生きているものは、すべて汚れだ』
汚れ。
俺はゴキブリだ。人間だった頃、家で見れば汚い、気持ち悪い、潰せと思った。それが今は俺の身体だ。
速く走れる。隙間へ入れる。誰にも届かない場所へ縄を届けられる。チュウタが相棒と呼び、先生が生徒として怒り、子どもたちが黒いおじさんと笑う。
やっと少し好きになった身体を、壊れた機械が勝手に汚れと呼ぶ。
ものすごく腹が立った。
「訂正しろ!」
俺は石板へ前脚を向ける。
「俺は黒い! 隙間へ入る! 濡れれば黒豆に見えるらしい! 悔しいけど認める! でも汚れじゃない!」
石板は答えない。
「チュウタも、ガルダン王も、先生も、病人も子どもも発光苔も! 生きてるだけで勝手に汚れへ数えるな!」
「私はここです」
ジロが言った。
「知ってる! 今、格好いいところなんだ!」
「記録しますか?」
「してくれ! 正式な苦情だ!」
ジロが爪を走らせ、王と先生も署名した。完璧には決まらない。でも怒るだけでは粉は止まらない。
「今できることは?」
粉へ水を含ませ、泥になったところを粘土で丸める。発光苔の光を半分にするまで、乾いた粉は十二呼吸、濡れ布なら四十一、粘土へ封じれば百を越えても変化はわずかだった。
「怖い霧を、運べる泥へ変えられる!」
『西に廃粉点検用の湿り穴がある。そこへ集めろ』
王が記録所の太鼓管を叩く。
ごんっ!
低い振動が十七本の細管を走り、溜まった埃が先生の泥顔へ全部噴き出した。
『……誰だ、壊れないと言った者は』
「誰も言ってない!」
管の向こうからバルグの声が返る。
「王、聞こえます!」
「全区画へ告ぐ! 白い粉は水で濡らせ! 粘土で丸め、湿り穴へ封じよ! 乾いたまま掃くな、吹くな、踏み散らすな!」
「濡らす! 丸める! 封じる!」
復唱が巣へ広がる。
防粉装備三号の回収班が水をかけ、粘土板で白い泥を挟む。霧は次々と団子へ変わった。
「白いの十個で、黒豆へ一個!」
「俺へ寄越すな!」
怖さは消えない。それでもやることが分かり、粉の広がる速度は目に見えて落ちた。
「勝てる。制御盤へ戻る時間を作れるぞ!」
びいんっ!
記録所の青い文字が消え、壁一面が赤く光った。
半球の上へ巨大な数字――六。
『圧力異常により自動処理へ移行。六時間後、現在の汚染判定で地下全域を完全浄化する』
「完全浄化って、水を綺麗にするんだよな?」
『今の装置は、生き物の魔力を汚染と呼んでいる』
先生の眼窩が赤い数字を映す。
『地下にいる、生きたものすべての魔力を吸い上げる』
六時間で、病人を運び、粉を封じ、全員を避難させ、上層へ戻り、制御盤を止める。
無理だ。
頭へ浮かんだ一言に、腹が立った。
「無理って言った奴、誰だ!」
王とジロと先生が俺を見る。
「俺の頭の中だよ! 今のは取り消す!」
「記録は?」
「取り消し線を十本! 石板が削れるまで!」
がりがりがりがりっ!
ジロが本当に太い線を引いた。
「今の削り方、俺への怒りが乗ってないか?」
「気のせいです」
「石板が悲鳴を上げてるんだけど!」
六時間。長くはない。でもゼロでもない。
「止める!」
格好よく前脚を上げた直後、濡れ黒豆三号の腹から泥が、ぼとり。
『まず装備を直せ!』
「うるさい! 六時間あるなら、愚痴を言いながら全部やるぞ!」
本来は水を救う道具。壊れた判定に使われ、生き物を汚れと呼ぶ道具。
なら止める。直す。そして二度と、誰も汚れとして数えさせない。
地下全域、完全浄化まで――あと六時間。




