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五月三十日。東京・霞が関
それから、二週間後。
真平の自宅に一本の電話が鳴った。真平はすぐにそれに出た。
「もしもし、永尾です」
『もしもし、真ちゃん?』と、聞き覚えのある女性の声であった。
「お母さん?」
真平がそう訊くと、『ええ、そうよ』と、彼女は答えた。
『久しぶりね、元気?』
「うん、元気。お母さんも元気そうだね」
『ええ、元気よ』
「お父さんは?」と、真平は訊いた。
『お父さんも元気よ』と、彼女は言った。
それを聞いて、真平は安心した。
『私たちは元気なの。あのね、真ちゃん……』と、お母さんは声を低くして続ける。『利佳ちゃん、分かるよね? 真ちゃんのいとこの』
「うん」
『実は、一昨日、亡くなったのよ……』と、お母さんが言った。
「え!? うそ!?」
真平は驚いた。
『ホントよ! それに、彼女の両親も死んじゃったそうなのよ』
「え、ご両親まで?」
『そうみたい』
「なんで?」
真平がそう訊くと、『喋っちゃったんだって……』と、お母さんは落胆したように言った。
「喋っちゃった」という言葉で、真平は察してしまう。つまりは、三人とも「日本語」を喋ったということであろう。
それから、お母さんが詳細を話してくれた。利佳ちゃんは、授業中にふと言ってしまい、それを聞いた生徒たちが隣のクラスの先生に話したのだと言う。ご両親は、夫婦喧嘩の末、利佳ちゃんのお母さんがうっかり言ってしまったという。
「……そうなんだ」
「そう……。お母さん、悲しくて……。真ちゃんにも知らせておいた方がいいと思ってね。だから、電話したのよ。真ちゃん、ゴメンね……。こんなこと言う為だけに電話して……。」
お母さんは泣きそうな声で言った。
真平はそれを聞いて、辛くなる。
「お母さん、ありがとう。報せてくれて」
真平がそう言うと、『ええ、真ちゃん、あなたがまだ生きててよかったわ』と、彼女は安堵したように言った。
「うん、僕も。お母さんたちが無事で良かった。二人とも気を付けてね!」
『ええ、分かったわ。真ちゃんもね』
「うん」
『それじゃあ……』
そう言って、電話が切れた。
お母さんからの悲しい報せを聞いて、真平は少しショックであった。けれど、お母さんやお父さんが生きているということを知って真平は少し安心した。
「真平くん、久しぶり!」
六年前。大学四年の秋頃。大学が終わって、真平が家に帰ると、いとこの利佳ちゃんが来ていた。
「あ、利佳ちゃん。来てたんだ!」
黒髪ショートの美人の女の子である。彼女は、真平と同じ大学四年であった。
「うん。ねえ、真平くん、聞いたよ。警察官になるんだってね」
彼女は嬉しそうに言った。
「そうだね」
真平は照れ臭そうに笑う。
「へー、カッコいいね!」
「利佳ちゃんは、学校の先生だっけ?」
真平がそう訊くと、「うん。小学校の先生ね」と、彼女はにやりと笑って言った。
「ほー、それはすごいね!」
真平も笑顔で言う。
「えへへ。来年からお互い大変になるね……」
「そうだね」
「でも、お仕事頑張ろうね!」
「おう!」
それから、真平は自分の両親たちと利佳ちゃん家族と全員で夕食を食べた。両親たちはビールを飲みながら、楽しそうにお喋りをしていた。真平や利佳ちゃんも少しだけビールを飲んだ。
夕食を食べた後、真平は利佳ちゃんと一緒に自室へ行き、二人でゲームをして楽しんだ。それに飽きると、利佳ちゃんが真平の部屋にあった漫画を漁り、その一冊を読み始めた。真平は読みかけだった小説を読んだ。
それから月日が経ち、大学を卒業した真平は無事に警察官としての道を歩むことになった。利佳ちゃんも小学校の先生として、仕事をこなしていた。
年末年始は、親戚一同で集まっていた。仕事などの都合で集まれない年もあったが、ほぼ毎年といっていいほど、利佳ちゃんたちとは頻繁に会っていた。去年も会っていたし、今年の年末年始も真平たちは集まっていた。
しかし……、随分と早い別れであるなと真平は思った。来年以降、彼らともう会えないと思うと、寂しいばかりである。
「永尾、お前に面会したいという人が来ているんだ」
一か月後のある日、署内にいた真平のところに田中巡査部長がやって来て言った。
「面会? 誰です?」
真平がそう訊くと「坪田という女性だ。なんでもお前の実家の近所の人らしい」と、田中巡査部長が言った。
部長に言われて、真平は思い出す。確かに実家の近所に坪田さんという家族が住んでいた。何の用だろうと真平は思ったが、彼女に会って話を聞いてみることにした。
「分かりました」
真平はそう返事をして、一階にある面会室へ向かう。
面会室の扉を開けて、真平はそこへ入る。
「ああ、真平くん。こんにちは」
早速、中にいた黒髪ロングの女性が英語で言った。その女性は、近所に住む坪田さんであった。彼女は茶色のニットにチェックのロングスカートを履いていた。
「坪田さん、お久しぶりです」と、真平も彼女に挨拶をする。
「元気そうで良かったわ!」
彼女は笑って言った。
「はい、坪田さんも。ところで、今日はどうしてこちらに?」
早速、真平はそう訊いた。
「ええと……」と彼女は呟いてから、口を開いた。
「実はね。あんまり大きな声で言えないんだけどね。実は……」
彼女はそう言って、口をつぐんだ。
「何ですか?」と、真平は訊く。
「あのね」彼女は再び口を開いた。「……真平くんのお父さんとお母さんが亡くなったのよ……」
彼女は目を逸らして言った。
「え!?」
真平は驚いた。両親が亡くなった……一体どうして……。
「亡くなったと言うのは、まだ早い話かもしれないわね」
「というと?」
「うん、正確には、『喋っちゃったのよ』……」
「喋った? ああ、日本語を、ですか?」
「ええ」と、彼女は頷いた。それから、彼女は話を続ける。
「真平くん、こんなこと言ってゴメンね。でも、聞いてちょうだい。一昨日のことよ」
坪田さんはそう言って、その時のことを話し始めた。
一昨日、お父さんは庭でいつものように日曜大工をしていたらしい。お父さんは大工なので、そういったことが得意だった。その日、彼は本棚を作っていたのだという。
本棚が完成して、お父さんは家に居たお母さんを呼んだ。それから少しして、お母さんが庭へ出てきて、完成した本棚を見ていたという。その本棚を見たお母さんが訝しい顔をしたらしい。「その本棚は家に入らないのではないか?」とか「もう少し明るい色が良かった」などとお母さんは言ったらしい。
「最初は、楽しそうに喋っていたわ! もちろん英語でね」
「はあ」
「でもね、奥さんが……あなたのお母さんが、お父さんに色々と言っていたのよ。それでね、段々とそれが口論にまで発展していってね。しまいには、日本語で口喧嘩をしていたのよ!」
なるほど、と真平は思う。しかし、それだけで捕まるとは思わなかった。
坪田さんは話を続ける。
「私ね、その時、近所のスーパーへ買い物に行ってて、ちょうど帰って来たところだったの。夫婦喧嘩ってよくあるものじゃない? だから、私、それを聞いていないふりをしていたのよ。そしたら、今度は普通に『日本語』が聞こえるもんだから、ビックリしちゃってね。あ、とは思ったけど、やっぱり知らんぷりをしていたの。その方がいいでしょ? そしたらね、お隣の中岡さんのご主人が出てきたわけ。それで、中岡さんが真平くん家のご両親にこういったのよ。『今、聞こえたぞ!』って」
「聞こえたって、『日本語』がってことですね?」
「そういうことになるわね」
「それで、もしかして、中岡さんが警察に連絡したということでしょうか?」
真平が確認して訊くと、「だいたいそうだと思うわ。十分後くらいにパトカーが来ていたから」と、坪田さんは言った。
「なるほど……」
「あのさ、真平くん」と、坪田さんは口を開く。「こんなこと言うのもアレだけど、中岡さんを怨まないであげてね。私は目を瞑ったけど、結局、こうしてあなたにこのことを話してしまったわけだし。悪いのは、私の気もするけど……」
彼女は静かにそう言った。
「いえ、別に中岡さんを恨む気持ちもありません」
真平は言った。「もちろん、坪田さんも悪くありません。悪いのは、悔しいですけど、日本語を喋ってしまった両親ではあるけれど、本当はこの法律や社会が悪いんじゃないかと僕は思います」
真平ははっきりと言う。
「ええ、そうかもしれないわね……」
坪田さんはぽつりと言った。
「あ、坪田さん」
「はい?」
「今日は、ご足労ありがとうございました。信じられない話ですけど、お話して下さってありがとうございます」
それから、真平は明るい声で言った。
「いいのよ」と、坪田さんは言った。「あ、そうだ。そのうち、お葬儀やるでしょ? 私、参加するわ」
「ありがとうございます」
真平はそう言って、ぺこりと頭を下げた。
「じゃあ、真平くん、身体には気を付けてね。後、言葉にも」
坪田さんが笑顔で言った。
「はい。坪田さんもお気をつけて!」
そう言って、真平は椅子から立ち上がる。
坪田さんも席を立ち、真平は面会室の扉を開ける。それから、真平は入り口まで彼女を見送った。
坪田さんは颯爽と歩いて行った。