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五月十六日。東京・代々木
「犬飼警視総監、ご無沙汰しております」と、男が言った。
「野々村先生、こちらこそお久しぶりです」と、犬飼は彼に言った。「お元気でしたか?」
「ええ、警視総監もお変わりなさそうですね」と、野々村は笑った。
「まあ、それより飲もうじゃないか!」
犬飼はそう言って、野々村のグラスにビールを注ぐ。その後、野々村が犬飼のグラスにそれを注いだ。
「乾杯」と犬飼は言って、野々村とグラスを鳴らす。二人は一気にビールを呷る。
「ぷはっ」
「うまっ」
二人は息を吐く。再び犬飼は野々村と自分のグラスにビールを注いだ。
それから、犬飼は枝豆をつまむ。野々村は家内が作った唐揚げを頬張る。
「うん、うまい!」と、野々村は嬉しそうに言った。
「そうだろ? うちの家内の料理はどれも旨いんだよ」と、犬飼は自慢げに言った。
それから、犬飼もその唐揚げを頬張る。確かにその唐揚げは旨かった。
すぐにビールを一口飲む。その唐揚げは、ビールとも良く合った。
「そう言えば、あれは残念だったな……」
犬飼は呟くように言った。
「あれって?」と、野々村が訊いた。
「小松原先生のことだよ」と、犬飼は答えた。「喋っちゃったみたいじゃないか!」
「あー、その話ですか。僕もビックリしましたよ!」と、野々村は言った。
「お前も気を付けた方がいいぞ!」と、犬飼は注意する。
「もちろん、分かっていますよ。警視総監だって、いつ言うか分からないですから、気を付けて下さいね」と、野々村も犬飼に忠告した。
「ああ、分かってる」と、犬飼は頷く。「ところで、小松原先生の葬儀には出席したのかい?」それから、犬飼は野々村にそう訊いた。
「ええ、行きましたよ。もちろん、議員全員が参加しています」
「へー、そうかい」
「はい。葬儀には、彼の奥さんやお子さんたちがいましたよ。皆、悲しそうにしておりました」
「処刑されたんだもんな……。そりゃあ、本当に辛いだろうに……」
「ええ……」
「でも、本当に処刑されるのかな?」
ふと、犬飼はそう言った。
「処刑されると思いますよ」と、野々村は答えた。「東京拘置所でしたよね?」
「ああ、そうだ」
「まさか処刑されないとでも?」
野々村は訊き返した。
「いや、そうは思わない」と、犬飼は言う。「ただ、本当に処刑されているのかなと。その……もし、処刑されるのだとしたら、恐ろしいではないか!」
「恐ろしいもなにも、僕だって怖いですよ……。だから、処刑されないためにも、我々は毎日頑張って英語を喋っている訳じゃあないか」
「もちろん、理由はそれだけじゃない!」
「ええそうですね。一番の原因は、日本人の英語力の低下が著しいから」
「そう。我々、日本人は英語を喋らなくてはならない! そのためにも、日本語を排除せねばならない!! つまり……」
「つまり?」
「つまり……」犬飼は日本語で言う。「日本語を喋った人間すべてを処刑するのだ!」
すると、目の前にいる野々村が目を丸くした。
すぐに「犬飼さん!」と、野々村が叫ぶ。
彼にそう呼ばれて、犬飼はハッとする。たった今、自分は「日本語」を喋ってしまったのだ!
「ば、馬鹿な……」
犬飼は呟くように言う。
「今、お前訊いたな?」
しばらくして、犬飼は野々村にそう訊いた。彼は黙って頷く。
「なあ、野々村。お前はいいやつだ。だから、このことは誰にも言うな……もちろん、警察にもだ」
犬飼はそう言った。
野々村は黙りこくる。
「じゃあ、どうしろと……?」
それからすぐに野々村は小さな声で訊ねた。
「俺にいい案がある……ちょっと待っててくれ」
犬飼はそう言って、その場から立ち上がった。
「キャーー!!」
二、三分して、キッチンの方で女性の叫び声が野々村には聞こえた。すぐに奥さんの声だと野々村は分かった。野々村はそこを立ち上がり、キッチンへ向かう。
キッチンへ行くと、奥さんが慌てていた。
「奥さん、どうかしました?」
野々村が彼女にそう訊くと、「しゅ、主人が……水を飲んだら、倒れたの……!!」
「水?」
野々村は考える。もしかしたら、彼は毒でも飲んだのではないか。いや、絶対にそうに違いない。
「奥さん、救急車を! 早く!」
野々村が急いでそう言うと、彼女はすぐにポケットのスマホを取り出し、救急車を呼んだ。その後、野々村は警察に連絡するか迷ったが、やはり呼ぶことにした。
十分ほどして、救急車が犬飼の自宅にやって来た。それから、五分後に警察もやって来た。
救急隊員の話によれば、彼はすでに死んでいるようだった。
死因は、毒物によるものだと言うことだった。やはりそうだったのかと野々村は思った。
翌日の朝九時に、警視庁ではいつもの如く朝礼が行われた。
榊原署長が登壇し、全員に挨拶をする。その後、彼は報告があると言った。
「実は、昨日、犬飼警視総監が亡くなられました」
彼のその発言に、全員が驚いた。真平もビックリした。
署長が話を続ける。
「警視総監は昨夜、自宅で野々村という政治家の友人と飲んでいたそうで、その時うっかり日本語を喋ってしまったことから、毒を飲んで自殺したそうです」
「毒か……」
「自殺か……」などと、口々に署員たちが呟く。
「明日の夕方、警視総監の葬儀を執り行う予定です」と、署長は言った。「では、解散!」
署長がそう言うと、署員たちは立ち上がり、自分たちの部署へ移動した。