9 神殿
ノッサムは己の幼い主人が「テシェ」を名乗る者であることを、正しく理解していなかった。正式な雇用主であるリオル伯爵はベイリオール・テシェルオを名とする。テシェの守人の意である。
テシェ山はウェイ島で二番目に高い山で、リオル伯爵領を富ます鉱脈を持ち、かつ精霊が住まうとされる地だ。一方の神殿はその北のエルデ山の麓にある。
神殿の正面玄関である大門に着いたベイルは、閉ざされた門に向かって馬上から声を上げた。
「わたくしはリオル伯爵の使いとして参った、ベイリオール・テシェである。我らが神子、栄えあるウェイ島の王にお会いしたい」
「テシェのお方とは……」
ベイルの名乗りに神官たちは狼狽え、慇懃な物腰でベイルたちを迎えると、そのまま接遇の間に閉じ込めた。接遇の間は神殿の来客が通される場所で、同じ用途の部屋が幾つか並ぶ。
一行が通されたのは大きなダイニングテーブルがある貴族用の部屋で、冷える夜に向けて暖炉には細く火が焚かれていた。
「やはり会えないか」
「それはそうでしょう。皇帝陛下の使者でも追い返されておりますのに」
何でもない顔をしているベイルにノッサムが溜め息を漏らす。追い返されると思ったがそうはされず、だが歓迎でも反発でもなく、困惑が返ってきた。
これはどういうことかと訝しむも、神官も兵士も従僕すら退がってしまって問うこともできない。
幸い一行は分割されることなく、ノッサムとその部下十名、そしてベイルが救ったハラと名乗る巡礼の少女が一所に押し込められている。
「少し待ってみよう。ハラはその姿で良いのか?」
ベイルは椅子に腰掛け、麻のヴェールを被っている少女に声を掛けた。
ハラは痩せた体つきの少女だった。容貌はかわいいといえばかわいいし、平凡といえば平凡な風でもある。
本人を前にするとかわいいなと思うのだが、離れてしまえば取り立てて印象に残ることもない。衣服はアルバの様式ではなく砂漠のものだったが、巡礼者にはよくある装束だ。
賊から救出したときは泥に汚れていたその服も、その後に宿で改めており、今のハラは平民の巡礼者らしく生地はくたびれているが身綺麗な方だった。
「これが一番きれいな服です。貴族のお方からすればみすぼらしいものでしょうが」
ハラは指輪を弄りながら恥ずかしそうに項垂れた。若い騎士は少女の様子に気の毒そうに眉を下げたが、その声音にほんの少しばかりの険があるのを感じ取ったノッサムはマントを肩に払い上げ、ベイルの斜め前、ハラとの間に立った。
「だがアルディナの男の衣装はそれではあるまい。わたしも王を欺くつもりはないのだ。事情を話せ」
淡々としたベイルの様子にハラは肩を竦めた。ノッサムが静かに剣の柄を掴み、いつでも抜ける体勢を取る。それを見たハラはおかしそうに笑った。
「欺くつもりがないとは……。姫君こそ男の形でいらっしゃるのに?」
「我が国では子供のうちは同じ服を着るのだ。髪が短いのは戦さのためであって、王を欺くためではない」
「なるほど。——俺の名前はガラ。ラサのガラだ」
少し高くはあるが、はっきりとした男の声で名乗る。と同時にハラの姿の曖昧な部分がくっきりとした線を結び、印象的な朝焼け色の髪がさらりと流れた。少女めいた面立ちに気の強そうな双眸がある。
だがその美少年ぶりに目を見張ったのは男ばかりで、ベイルは眉一つ動かさず重ねて問うた。
「アルディナではないのか」
アルバ本国のある半島からさらに南西、西砂漠にあるラサは交易で栄える大国だ。アルディナ山は砂漠の水源となる雪頂く山脈だった。そこはこのウェイ島の神殿のように聖地の一つであり、たくさんの巫女が仕える巫洞がある。
「子供の頃にはな。巫洞は女のものだから男は追い出されるんだ。だから札はラサに置いてある」
札というのは戸籍のようなもので、西砂漠の三国では共通の様式で発行される。商隊による移動も多い砂漠の民の身分証であった。
ベイルは考えるようにテーブルに視線を落とした。
ガラはそれに安堵したかにように息を吐き、ヴェールを外した。ヴェールを畳み、輪になったところを伸ばすように手を差し入れて、するりと滑らせればそこには抜き身の長剣があった。
「それで俺がアルディナのものだとどうして知っている?」
透き通った空色の刀身は鉱物でできており、ガラは華奢にさえ見える腕で軽々とそれを構えた。
「魔術師か。捕えよ」
「ノッサム。よい」
騎士たちが抜刀し捕えようとするのを手で止め、ベイルは立ち上がった。
「羽石の剣だな。同じものをわたしも持っている」
ベイルは肩から革ベルトで提げた細剣を抜き、同じく透き通った銀の刀身をガラに見せた。刀装具の細工が桁違いに細やかで、ガラは口元を歪めた。
「それは同じじゃない。俺のは工房で作ったものだ。あんたのは精霊が作ったものだろう」
「何が違う?」
「いや、まあ、原材料は一緒だけどさ」
不思議そうにするベイルに気を抜かれ、ガラは剣を収めるとスカートをたくし上げた。細身のズボン、スカートであった布を肩に掛け、いかにも剣士という風に身形を整えると、髪も砂漠風にヴェールを巻いて納めた。
「うん。まあいいか。あんたがテシェを名乗り、その銀翼の剣の主人だというなら、あんたが【妖精の呪い子】なんだろう。俺が探していたうちの一人だ」
「わたしは外ではそんな呼ばれ方をしているのか?」
「あんたがというか、妖精に拐われて返された子供を指す、砂漠の言葉だな。しかも精霊の加護ある地で妖精に拐われたとなれば騒ぎにもなる。無論、これは魔術師たちの間でのことだ。一般庶民はあんたの存在さえしらないだろうさ」
「魔術師たち、か。ガラはラサにいるのであれば魔法騎士か?」
「あんたさ、さっきからすごい他人事って顔してるけど、状況わかってんの?」
「……そうだな。正直言って実感はない」
口振りは粗野だが、目はそれ以上に面白がっているガラをベイルはじっと見つめた。顔立ちは十代に見えるが、成人男子ではあるだろう。少女めいた美しい容姿や年齢はベイルにとってあまり意味を持たない。
だがガラの瞳に合わせたかのような空色の長剣。それを隠し、しまっていた術。さらには先程から張られている遮音の術——これはおそらく指輪に刻まれているものだ。
何よりも耳のピアスに込められた守護がアルディナ式ときた。
ベイルは己れの長衣の裾を覆う刺繍に目を落とし、ふっと口元をほころばせた。
「——砂漠の剣士、ガラ・ハラハルだろう。詩人が歌うのを聞いたことがある。わたしに雇われる気はないか?」