表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
キャラ  作者: 橘わに
6/14

6 リオル伯爵領

 自室のある東塔に戻り、侍女の淹れた茶を飲んだベイルはしばらく窓の外を眺めていたが、肩ベルトに己の細剣を提げて外へ出た。

 刺繍の入った革の浅靴が草露に濡れる。厩にはちょうど誰もおらず、鼻を鳴らす愛馬を止める馬栓棒を外した。

 厩舎の柵に足をかけて愛馬ミスティーの背に跳び乗ると、鞍を置かずとも彼女はよく心得ており、主人の望むように静かに屋敷の敷地を抜けた。

 リオル伯爵領はさほど大きくはないが、小さくもない。海には港があり、山には鉱石があり、交通の要所となる街がある。歴代の伯爵家当主が続けて温厚であったため、領民も全体的に文雅な気質の者が多く、街並みも要所に城壁こそあれ、どこか品が良い。

 戦向きではないのだ。

 丘から城下町を見下ろし、ベイルはミスティーの鬣を引いた。首に伏せんばかりに身を低くし、駆ける。

 丘は海へと続く。海は東に面しており、振り仰いだ岩山の影が、夕暮れの赤色を切り裂き、紫雲を輝かせて夜を招く。

 ミスティーは断崖の花畑までやってくるとそこで草を喰み始めた。海はベイルの瞳と同じく深い藍色であった。

 汐風が紫の花の香りと混じり合う。ベイルは下馬することなくミスティーの背に倒れ込んだ。暖かい。

 ベイル、——ヴェルリア・ベイリオール・テシェは十二歳だ。帝国の貴族の成年は十五歳であるから、まだ社交界にも出ていないし、アルバの支配領域には同世代が集うような学校もない。貴族の師弟は家庭教師によって学び、平民は私塾で生活に必要なだけの文字と算盤勘定を習う。

 しかしベイルには天恵があった。触れたものの記憶を読み取る能力だ。これにより彼女は早いうちに文字と言語と多すぎる「他人の記憶」を獲得した。自分自身の物心が着く前に、他の人々の旅を夢見るように辿ってしまった。

 おとなしい子供であったというが、ベイル自身にも当時のことは薄いヴェールの向こうの出来事に思える。他人の人生を見てもやはり所詮は他人である。体得したものでない知識を、それなりに自分の中に落とし込むことに時間が必要だった。

 だが父親に会った日のことは鮮明に記憶している。

 病を得ていた彼は隠されており、伯爵邸の一際美しく、そして静かな部屋で療養していた。

 か細い腕に遠慮し、少し悲しげな目をされたことを覚えている。

 ぎこちない対面を重ねて、父の紡ぐ御伽話に耳を傾けているうちに、ベイルは見知らぬ人々の旅の記憶を忘れていった。

「——体が冷えるよ」

 囁くのはフィオだ。ベイルは目を開け、傍らに立つ彼と、そしてその背後、海に大きな白浪が立つのを見た。

 ぐっとフィオの胸に抱き込まれる。

「波の馬だ」

 沖合に立ち上がった波が馬の形を取り、群れとなって海面を駆けていく。

 アルバでは不吉とされる現象だ。フィオはベイルの肩を掴み、強張った顔で波の馬を見つめた。波の馬の出現は妖精が渡る(さま)だとも、人が亡くなる知らせだともいう。

 妖精は強く、美しく、不吉である。気まぐれに人間に知恵を与え、気まぐれで人間を拐う。

 宵藍に消えた馬影をまだ睨み、フィオはようやく腕を緩めてベイルに微笑みを見せた。

「帰ろう」

 ベイルの返事は待たず、ミスティーの首を撫でて帰宅を促す。緩慢に歩き出したその馬上にあるベイルの白い上着の裾を取ると、フィオは恭しく騎士の口付けをした。

「——必ず君を守る」

「【それ】はわたしではないだろう」

 ベイルは表情も変えず、フィオを見下ろした。金の髪の美しい、若木のようにしなやかな青年には十二歳の小娘に忠誠を尽くす理由がない。

「あなたです。ヴェルリア。ベイル、僕のかわいい人。僕は君を守る。必ず駆けつける」

「主命だからな」

「それは違う。僕に主人はいない」

 青い目で見据えられ、ベイルはその反論をどう受け止めたものか少し考えた。しかしベイル個人にはフィオの忠誠を受け入れるだけの理由がない。

「確かに僕は契約に縛られている。だが君が呼べば必ず駆けつける。それだけは疑わないで」

「……「理解できないものを直ちに否定してはならぬ」という教えに従おう」

「——今はそれでいいよ」

 フィオは苦笑し、ミスティーの首を掻いた。少しばかり歩調が早まる。

 夜の藍に包まれながら、ベイルは心遠く感じた。


***


御寝(およ)りになられたか?」

 東塔から退がってきたフィオに、ペリリューはパンの入った籠を寄越した。

 丘から戻ったベイルの体は冷え切っており、湯に足をつけたあと、彼女の眠りが深くなるまで添い寝をしていたが、それもいつまで許されるか。

「少し興奮しているみたい。寝つきが悪くて」

「姫、いや、若君でもそうか」

「ベイルはわかりにくいだけで優しいからね」

「それはもちろん」

 ペリリューは頷き、フィオにハムを切ってやる。十代半ばのフィオにやたら食わせようとしてくるのがおかしくて、笑った。

「ベイル様はお小さい頃はあそこまでではなかった。転べば泣かれたし、海が怖いと俺の裾を掴んでたこともあった」

 ベイルが二つとか三つの頃だ。あの頃のペリリューはベイル付きのメイドの一人といい雰囲気になっていて、デートがてらベイルを連れて浜辺に出たのだ。

 ベイルは高く飛ぶ鳥を指差し、砂を走り、笑い、そして波の向こうをみて、ペリリューの膝にしがみついた。

 それが今や十二歳にして大人のような落ち着きだ。声を荒げることも泣くこともない。

 フィオは茶を汲み、「あれからまだ十年経ったかどうか程度なのにな」と懐かしむペリリューの表情を見た。

「海……。今日、波の馬が出た」

「何だと?」

「北へ駆け抜けて行った」

「北へ。——神殿で何かあるのだろうか……」

 アルバの半島から北はこのウェイ島だ。ウェイ島の北側には「王」のいる神殿がある。

「わからない。さすがに神殿には入れないから、王宮のほうを覗いてくるよ。ベイルが起きるまでには戻ってくる」

「わかった。気をつけろよ」

「ふふ。ペリリューは僕のこと軽んじないね」

 十代のフィオと伯爵家騎士団長を務めるペリリューの間には倍ほどの年齢差がある。だが対等に話して、尊重される。領内においては異分子であるフィオとしてはありがたいことだった。

「お前は強いだろ。だがまだ子供だから、心配はする。騎士団ではないから止める権限もないし」

 それに、とペリリューは口の端を吊り上げた。

「お前が騎士団のものならベイル様の寝所に入った時点で殴り倒している」

「なるほど。……まあ、僕はベイルのためにいるから、ベイルが本当に望まないことはしないし、できない。そこは安心してくれていいよ」

「それで海賊の討伐にはついて来なかったのか?」

「見てたけどね。あ、内緒だよ。ベイルは討伐は領主の仕事だから自分と騎士団が行く、関係ない僕にはついてくるなって。でもベイルが怪我したら困るから、陰からずっと見てた」

「ではベイル様が剣を抜かれたときも?」

 あの海賊の首領が村娘を嬲った様を愉しげに語ったときだ。ベイルは顔色も変えず、ただ細剣を抜いて「聞きたいことは聞いた。もう黙れ」と告げた。

「尋問のとき? 僕がベイルを尊敬しているところはね、自分を疑うところなんだ。彼女には天恵がある。物に残された記憶を見ることができる。そして彼女は村から連れ去られた娘の遺体に触れている」

 海賊は数ヶ月前から出ていた。掠奪の被害はそれなりのものだったが、騎兵を主とする騎士団は後手に回っており、海上に逃げられれば打つ手がなかった。

 そんな中、浜に行方不明になっていた村娘の亡骸が打ち捨てられ、おっとりとした気風の領内は震撼した。

 ここまで惨たらしい殺人があったのは初めてのことだったのだ。

「つまり、——犯人を知っていた」

「あの哀れな女の子が酷く扱われた様もその場にいたように見たと思うよ。新しい、強い感情の記憶だから。百年も前の爺さんが懐かしみながら書いた本とは訳が違う」

「それほどのお力か……」

「ベイルは領民が暴行を受けて死ぬ様を「見た」。だから自分が陣頭に立つほど怒った」

 伯爵家の姫として伸ばしていた髪を切り、武装して兵を動かすほどの、強い感情だ。

「でも自分の能力を疑うから尋問して、自白を得ている。あれはあの海賊が、ベイルを幼い子供と侮って、怖がらせるために自ら犯行を語って聞かせた。尋問中に拷問はなかったと、第三者として神官を入れたのも冷静だったと思う」

「どこから見ていたんだ。本当に」

「秘密」

 フィオはにこっと笑い、青い目で真っ直ぐにペリリューを見た。

「でもペリリューは知っておいてね。僕のベイルがどれだけかわいいか。ミスティーに鞍も置かずに飛び出していったのに、叫ぶこともできない」

 人命失われる前に手を打たなかったことを責めている。だがあの事件なく、幼い姫が帯剣し馬を駆って兵を出すことが許されただろうか。

「ペリリュー。これ以上、ベイルを苦しめないで」

 どんな常識はずれのことでもベイルの命令を疑うな、と。

「——剣にかけて」

 その返事に満足し、フィオは台所を後にし、そして暗闇に消えた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ