5 跳ね馬亭にて
『ティタニアの神の書』には「あらゆる世世の狭間にありて絶えずして障りあり」とある。これはこの世界は異世界に囲まれており、その干渉を受けているという意味とされている。空間は歪みやすく、己の意思で世界の狭間を渡れるのは竜だけであると。
「……意味わかんない」
予習に行き詰まったヴィヴィは、そろりと本を閉じて唸った。こういうとき説明の上手いエンリの助けが欲しいが、彼ももう自室に帰っている。
寮では談話室以外での交流は禁止されている。このルールは異性であるヴィヴィだけに適用かと思いきや、夕食後の時間からは全寮生が対象となる。ヴィヴィにおいても日中は個室の扉を閉めなければ学友の部屋への訪問が許されている。
(思ったよりゆるいんだよね〜、校風が)
魔術師のための、貴族も通う名門の、そして優秀な平民にも開かれた、男子校。
平民にも開かれたといっても女子であるヴィヴィには謎の施設でしかなかったが、入ってみれば生徒は村の少年たちと特に変わらないし、教師の一部はヴィヴィの事を煩そうにするが、排除されることもない。
心配した学費も無料で、ノートや寮内で使うものだけ自身で準備しなくてはならないが、こだわらなければ最低限の日用品は支給を受けることもできる。このあたりは王家と貴族家からの援助で成り立っているらしく、卒業すればそういった家への登用もあるという。
卒業できればだけれど、とヴィヴィは溜め息をつき、ふと下腹に不快感を覚えて眉を寄せた。小さな、吊れるような痛み。
月の障りだ。予定より二日ほど早いが仕方がない。荷物を詰めて外泊届を寮監に出す。
学園の門を出ればちょうどこちらに向かってくる乗り合い馬車が遠くに見えた。
経験上、ヴィヴィは二日目の症状が重い。手足は冷えるし、頭痛もあれば気分も落ち込み、貧血に近い状態に陥る。寮の部屋では階段の登り下りもつらいため、特に症状の重い期間である最初の夜から二日ほどを町の宿屋で過ごしてはどうかと勧められたのだ。
だが安い宿屋は未婚の女子が一人で泊まるようにはできていない。
ヴィヴィは農村の平民階級出身であるが、祖母が商いをしており、比較的裕福であったため、学園に飛び込んだときにいくらかの援助があった。ゆえに金銭的に外泊は不可能ではなかったが、とはいえ毎月毎月、それなりの出費が必要になるということには抵抗があった。
先月初めて訪れた「跳ね馬亭」は学園から近く、夜遊びするような繁華街から遠いこともあって、客層も落ち着いた素泊まり宿だ。
食堂はないが、向かいにパン屋があり、弁当売りも通るため、買ってきて部屋で食べることもできる。
入学が許されてから最初の月の障りはストレスもあったのか、地理の授業のあと立てなくなって、医務室の担ぎ込まれた。
そして言われたのだ。病気ではないかと。
この酷い事件で幸運なことは二つあって、一つはエンリに紹介された学友にエルドという少年がおり、彼は初めてみたヴィヴィの貧血を起こした顔色に怯え、彼女に期間中は寮から出て実家に泊まることを勧めた。
寮では食事も離れた食堂に行かなくてはいかないし、暖炉の火も自分で面倒をみなくてはいけない。学園唯一の女子だからと他の男子たちの部屋からも遠い。エルドの実家は宿屋を営んでおり、おそらく姉が手助けをしてくれるはずだと紹介状を書いてくれた。
それがこの「跳ね馬亭」だ。
「こんにちは。週明けまでお願いします」
「あら、ヴィヴィ。大荷物じゃない」
「跳ね馬亭」の扉を開ければエルドの姉のメルテが迎えてくれる。ヴィヴィより三つ年上の彼女はもう宿の一員として働いており、宿帳にヴィヴィの名を書きこみ、鍵を渡した。
「予習の本なの。読めるかわからないけど、気持ちだけ。あと寒くなってきたから毛糸の靴下も」
「あれこれ入れるとすぐいっぱいになっちゃうもんね。前と同じ部屋よ。ご飯は買ってきた?」
ええ、と頷き、ヴィヴィは部屋へと向かう。その背中にメルテの明るい声が向けられた。
「そうだ。いま厩にスイがいるよ。お客さんのだから触れないけど、ちらっと見ておいでよ。騎獣が好きだって言ってたでしょ?」
「え、スイが?」
スイは人を乗せることのできる幻獣の一種で、見た目は青い馬だ。脚に縞があり、たてがみは赤く、宙を駆けることができる。だが飛べるわけではなく、ジャンプしたときの滞空距離が異様に長いのだった。
人に慣れるとはいえ、馬のように数がいるわけではなく、存在が知られていてもよく見かけるというほどではない。
「怖いなら一緒に行ってあげる。荷物を部屋に置いてきな」
途端に駆け出した背中にメルテの笑い声が追いつく。ヴィヴィが言葉通りに鞄を部屋に放り込むと、二人で厩に向かった。
食堂のない「跳ね馬亭」には代わりに大きな厩があり、馬や騎獣を連れた旅人には知られた存在だ。厩の奥のほうにある馬房にいたスイは少女たちの気配に気付いて顔を上げた。
「わあ。きれい!」
大きさは騎士たちの乗っている馬と変わらないか、あるいはそれより少し細いぐらいか。たてがみはふわふわとしており、燃える火のようでもある。瞳は金色で、しかし頬を赤くして己を見上げる少女たちを興味深そうに探るだけで、獰猛さはなかった。
「乗ってみたいなあ」
「お客さんが帰ってきたら聞いてみたら。王都での御用が終わって帰るところだって言ってたから、触るぐらいはさせてもらえるかも」
「本当。じゃあ帰ってきたら教えてくれる? 自分でお願いしてみる」
宿の人間から客に頼み事をするのはよろしくないだろうとヴィヴィはスイに小さく手を振って、部屋に戻った。
鞄から薬草を出し、調合する。まだ腹痛も微かで、手足の冷えを緩和する花を選び、ストーブに鉄瓶を掛けて煮出す。毛布に包まり、火に足を向ける。
医務室に担ぎ込まれた事件での二つ目のいいことがこれだった。薬草学の講師はヴィヴィの症状にいたく同情し、元気なときに薬草の採取を手伝うことを条件に幾つかの薬草を分けてくれた。
同時にヴィヴィが村で覚えた薬草作りについても継続してよいと研究室を貸してくれている。
ヴィヴィの借りている「跳ね馬亭」の、メルテの部屋に近い予備の部屋は、部屋自体が狭いので、ストーブも小さなものだ。自分で薪を足さなければいけないが、薪は小さく割ったものが部屋の前に置かれる。水差しも自分で取りにいくが、いよいよ具合が悪くなればメルテが部屋まで運んでくれる。
今回は少し早く時期が来てしまったが、学園の休日を考慮して四日は跳ね馬亭にいられる。酷い痛みがくる前にメルテと茶を飲めると良いなとヴィヴィは温まった足に毛糸の靴下を履いた。