4 新しい教師
朝の食堂はすでに満席だった。
「ヴィー、こっちだ」
エンリの声にヴィヴィはスープをこぼさないよう、気をつけながら駆け寄った。たった一つだけ空いたエンリの隣、彼がヴィヴィのために確保してくれた席に滑り込む。
「何なの、これ?」
いつもならさっと食事を終えて出ていくはずの生徒たちが、そこここで固まって話し込んでいる。ときおり少年らしい笑い声が弾けた。
「ああ。何か知らせがあるらしくて、食堂に残るように言われているんだ。ヴィーの部屋までは行かなかったんだな、監督生は」
エンリの言葉にヴィヴィは肩をすくめた。監督生が寝起きの女の子の部屋を訪問することに遠慮したのか、単に北棟の最果てにあるヴィヴィの部屋まで行くのが面倒だったのかはわからない。おそらく後者であろうが。
ヴィヴィは黙ってパンを口に放り込んだ。今日のスープは塩気がきつい。あらかた食べ終わった頃になって、小柄な老人が食堂に現れ、生徒たちは静まり返った。
「祭礼の長……」
ヴィヴィの呟きにエンリが人差し指を立てて注意をうながす。ヴィヴィは首をすくめて壇上に上がる祭礼の長チャルトルを見つめた。チャルトルは魔術師らしい魔術師だ。つまり思慮深そうな眼差しで、質素なローブを着ていて、余計な軽口など叩かない。
チャルトルは少年たちの注目に、一拍おいてから口を開いた。低くはないが重みのある声が食堂に通る。
「今日は皆に新しい講師を紹介する。この学園の卒業生で、またオリオンの研究所で特別生だったウォード・ラン殿だ」
チャルトルの手招きに壁際にいた赤毛の青年が応え、その横に並んだ。
ヴィヴィは喉の奥で悲鳴を飲み込み、訝しむエンリに何でもないと首を振って、俯いた。間違いなく昨夜の青年だ。
「非常に優秀な者であるから何か質問があれば、遠慮なく彼に問いなさい。何か言うかね?」
祭礼の長に青年は固辞するような手つきをしたが、二言三言、言葉を交わしたあと、口を開いた。
「では手短に。わたしが担当する科目は薬草学と地理になる。外の仕事もあるため常に学園にいるというわけにはいかないが、君たちの学びの助けになるよう努めるので、よろしく頼む」
仕上げに朗らかな笑みを添える。彼はハンサムだった。朝の光をはらんだ赤毛は冬の熾火のようで、均整のとれた長身に気品のある立ち居振る舞いがよく似合う。歳の頃は二十代中頃だろうか。魔術師という感じはしないな、とヴィヴィは顎を引いた。
美男子は見るだけにしな、と評したのは村の女たちだ。
ヴィヴィに胡散臭い男認定されたウォード・ランは知ってかしらずか、わずかに視線を上げた。と同時に学生の一部に騒めきが走った。
ヴィヴィもその方に目をやると、ちょうど中二階の回廊に黒い影が通り過ぎるのが見えた。遠目にもわかるくすんだ青白い顔の男。その黒いマントがはためき、扉の奥に消える。
大賢人だ、という囁き。それを窘める声と。さざめきの中、ヴィヴィは魂を抜かれたように彼が入っていった扉を見つめた。
大賢人はただの称号だが、彼がこの国で一番の魔術師であることを示している。彼は講義を持たず、学生に向けて語りかけることもない。
ーー彼の魔力はきれいな螺旋を描いている。
昨夜の青年の言葉が浮かぶ。確かに、彼の、大賢人の陰鬱な姿とは違って、残った気配には春霞の空のような色がある。
「……きれい」
当の赤毛の青年と祭礼の長は何か小声で話していたが、大賢人には大した注意を向けなかった。二人が壇上から降りればそれで終いだ。
緊張から解放された少年たちが食堂から飛び出していき、ヴィヴィはふうと息を吐いて立ち上がった。
「大丈夫?」
「え、ああ。大賢人さまが通ると緊張しちゃうよね」
「そうかな。怖そう、かも?」
「エンリはしないんだ。あたしだけなんだ、緊張しちゃうの。……やっぱりだめって言われるのが怖いのかも」
女には魔術を教えられない、と拒絶されるのが怖い。ヴィヴィの不安を知って、エンリは眉を下げた。
「そっか。ごめん。でも一度受け入れたことを理由なく覆すような方ではないよ」
「ありがとう。あたし、三限からだから一度部屋に戻るね」
エンリと食堂で別れ、北棟の自室に戻る途中で、ふと予習が必要な課題を思い出し、図書館に立ち寄る。『ナヴィアの創生の書』を読む、という講義だ。神学の講師が予定を口にしたとき、クラスメイトはただ頷いており、その書の存在自体を知らないのはヴィヴィ一人だけであった。
エンリは「貴族は家庭教師からある程度習うから」と、ヴィヴィに司書の使い方を教えた。彼はヴィヴィと同い年の少年であるが、彼女に答えに至る道を教え、決して答えそのものを教えるということをしなかった。
「何を食べたらエンリみたいな立派な男の子ができあがるんだか」
ヴィヴィは司書にカードを幾枚か渡され、それを持って書架を巡った。
村では同い年の男の子なんて、すでに大人と同じ仕事をしているか、あるいは年齢よりも心が幼いか、どちらにせよ魔法を学びたいというヴィヴィを揶揄うだけで、エンリのように紳士的に手を差し伸べたりはしない。
「おや、お目が高い」
おかしそうに笑われ、振り返ると赤毛の青年が立っていた。
「嘘つき。教師じゃないって言ったのに」
少女になじられたウォード・ランはぽかんとし、それからくっくと笑った。
「昨晩は違う。僕が先生をするのは今日からだ」
「ふーん。そう」
「どうやら僕はお姫さまの機嫌を損ねてしまったようだな。それで、僕の生徒は何を探しているのかな?」
「『ナヴィアの創生の書』についてです、先生」
「ノーニノの講義か。奴の講義は単調だが、読み方は全部喋るからそんなに心配しなくていい。だが予備知識は多少必要だな」
ウォードは書架から本を取り、ヴィヴィに渡した。
「まずはこの本から読むといい。ナヴィアとアセスからキャラまで、伝承の概説と歴史的な位置付けが載っている」
「……ありがとう、ございます」
「不満そうだね、お姫さま」
「違います。ちゃんと先生なんだなと思って、びっくりしただけです」
「僕は学園きっての秀才だよ。大賢人のような天才ではないけれどね」
「でもあなたも魔法使いなんですよね」
「そう。僕は割と魔力が強い方だ」
「あの、本当なんですか。赤毛は魔法使いが多いっていう話。黒髪はもっと強いって」
「それを知ってどうする?」
「別に、どうもしない、です。ただあたしの髪は金髪だから」
「メイル。こちらへ掛けなさい」
気まずそうに俯くヴィヴィを閲覧机に招き、ウォードは一冊の本を取ってきて、彼女の前に広げた。地図が描かれている。その中で右端の方に描かれた島国を指で示す。
「ここが我が国。それから大陸を西へ進んで、この辺りは砂漠だ。この砂漠の北にあるアルバも古い王国だ。それからさらに西へ行って、海を渡ったこの島が大ノエアル島。魔法使いの島だ」
「地図は、初めて見ました。アルバはウィスタリア女王さまの国ですか?」
「そう。女王が好き?」
少女のほわっと上気した頬にウォードは優しく微笑んだ。ウィスタリア女王は他国の王族だが、若かりし頃の冒険譚のいくつかはこの国でも旅芸人の人気の演目になっている。
「だって、本当にいた人なんだって。子供の頃からずっと憧れていたんです。十四歳で旅に出て、女王になるなんて」
「女王に憧れてここへ来た?」
「それは違います。……あたしは、自分に魔力があることを知っていたし、それを正しく使いたいと思っていました。でも村の魔女はあたしには教えられないって。あたしが持っているのは魔女の力じゃないと言われました。だからここに来たんです。正しい力の使い方を学ぶためです」
ヴィヴィは膝の上でぐっとスカートを握り込んだ。
「もう十四歳だからできる、と思ったのは女王のことがあったからかも」
なるほど、とウォードは頷き、もう一度地図を指で示した。
「西砂漠だ。ここにはいまラサとウィルガルという帝国があるが、この地図が作られた当時はもっと小さな国がたくさんあった。この辺りには赤毛で魔法が使える者が、他の地域より多かったようだ。あるとき、何がきっかけかははっきりとしないが、魔法使いへの迫害が始まった。男の魔法使いは大ノエアル島に逃れ、女の魔法使いはアルディナ山に上がり、女神に使える巫女として保護された。どちらにも行けなかった赤毛は殺された」
淡々と語られる言葉にヴィヴィが息を呑む。
「迫害は砂漠を越えて広がり、一時期、魔法使いは激減した。砂漠では魔力によって羽石を加工する術師と世界の真理を求める魔術師に別れ、魔術師は女は真理から遠くにあるとして別れた」
「どうして」
「どうしてだろうね。君はそれを学びにきたんだろう。我が国では王族で黒髪が出ると魔力が強い傾向がある。だが傾向があるだけだ。黒髪でなければ、あるいは赤毛でなければ、魔力がないわけでも、強い魔法が使えないわけでもない。実際、ここで最も優れた魔術師であるチャルトル師は金髪だし」
「祭礼の長が?」
「毛があった頃はね」
ウォードは肩をすくめた。
「メイル。君が問うた真意としては、金髪である自分に魔術師としての見込みがあるかどうか、ということだろう。だが口から出た言葉は髪の色で人を差別しかねない要素を孕んでいる。我々魔術師にとって言葉は魔法そのものだ。気をつけて学びなさい」
「……はい」
「何か困ったことがあればいつでも相談に乗るよ。恋愛でもね」
ウォードはウィンクをして立ち去り、ヴィヴィは唇を引き結んだ。