1 ヴィヴィアーナ
ヴィヴィは夜中に部屋を抜け出した。
ひやりとした石造りの床からの冷気に身を包まれ、ストールの襟元をかき合わせる。九月に入学し、もう十二月である。窓のガラスは冷気に曇ってしまっていて外を窺うことはできない。
極北の王国アルゼルディードにある学園は俗に云う魔術学校である。国にひとつしかないため学園自体に固有名詞はないが、所在地の名をもってディセルと呼ばれることが多い。
魔術師の最高位である「大賢人」の下、未来の魔法使い、あるいは騎士たちが日々勉学に励んでいる。そしてここひと月ほど学園で一番の話題になっているのは黒衣の幽霊のことであった。
ふらりと中庭の辺りに現れ、湖水の方へ消えていくというその幽霊は絶世の美男であるとか何とかで、学生の中には男装のまま亡くなった麗人ではないか、はたまた名画から抜け出た精霊だとか、他にも笑ってしまうような豊かな想像の数々が行き交った。そのどれもをヴィヴィは一笑に付したのだが、それでも彼女には思い当たることがないでもない。それは彼女がこの学園を初めて訪れた日のことである。
それを話す前に言っておかなければならないことは、ディセルの学園が名門の「男子校」であるという事実だ。そしてヴィヴィはその閉ざされた門をくぐった最初の女である。
やっとでディセルにたどり着いた少女を頑なに拒み、そして優しく帰るように諭す門番にヴィヴィは泣いて怒って、駄々をこね、その門前に座り込んで夕刻を迎えた。
そのときに現れたのが彼である。
ふらりと夕闇から溶け出してきたように学園の門に現れたのは息を飲むほどの美貌の男だった。漆黒の髪が白い頬にわずかにこぼれ、残りは後ろの流されている。優美に整った顔立ちは凛としていて、思慮深さを感じさせる威厳があった。長身で優雅な身のこなしはまるで貴族のようだ。アーモンドのように形の良い目は深い青で、ヴィヴィと門番とを見比べ、すうっと細められた。
「どうしたのだ?」
「この嬢ちゃんが入学したいって言うんです」
「学園に?」
男はわずかに目を見張り、座り込んだままのヴィヴィを見下ろした。
「学べるのは男子のみだと知っていて?」
「知っています!」
ヴィヴィはばね仕掛けのように勢いよく立った。
「どうして女の子はだめなんですか。魔法は男の子しか使えないんですか。魔女がふしだらだとでも? 入れてもらえるなら一生独身で通します。恋だっていらない。お願いします!」
一気に言ってヴィヴィは呆気にとられた男の顔をすがるように見つめた。青い、深い色の瞳。
「……どうしてここに入りたい?」
「知識がほしいんです。あたしには力があります。それは確信しています。ただそれがどういうものかはわからないし、女には力について学ぶ場所がありません。私塾でも読み書きと算術で終わり。そうしてお嫁に行くのを指折り数えるなんて耐えられない!」
「それは逃げではないのか?」
「現実逃避だと? そう、他人から見ればそうと言われても仕方がない。あたしにはそれを覆すだけの言葉がありません。でもあたしには学びたいという意欲があって、村の魔女はあたしに教えることを拒みました。もうここしかないんです。誰もあたしの望みを打ちのめす権利はないし、そして時間がないことも知っている!」
語気の荒さに胸が震える。紅潮したヴィヴィの顔に、男は初めて興味を持ったというように身を乗り出した。
「いったい何の時間がだね?」
自分の発した言葉に驚愕し、怯えたようにヴィヴィは首を振った。
「わからない。でも何かが変わろうとしていて、あたしは置いていかれるのが怖い」
男は彫刻のような整った、しかし感情の籠らぬ顔でヴィヴィを見据え、長い長い沈黙の後に門番に告げた。
「入れてやりなさい。マール」
その一言で門番は何も言わずに道を開けた。
その後一度も彼に出会うことはなかったし、誰に聞いてもそんな人間は、ヴィヴィの語るそれほどまでに美しい男をこの学園で見たことがないという。門番さえも彼のことは何も知らないといい、ヴィヴィはそのうちに再会することもあるだろうと諦めた。
門を通ったヴィヴィは普通の学生と同じように部屋を割り振られ、丸三ヶ月が過ぎ、今に至る。最初の頃こそ物珍しさから冷やかされたりと色々嫌な目にも遭ったが、農村育ちのヴィヴィアーナ・メイルが拳に物を言わしてくるタイプの乙女だと知れると、少年たちも彼女を珍しい異性としてではなく、友人として見始め、割と居心地のよい場所になってきている。
ただ一つの不満は男子校ゆえに月経痛について誰の理解もないことだった。校医からはそれほどまでの出血は病気ではないのかと心配され、腹痛に蹲るヴィヴィに学友はおろおろとするばかり。だんだん本当に病気のような気持ちになってきて、打開策としてひと月に二日ほど町の宿に下がることにした。
もうじきまたその日が来る。
寒い廊下で溜息をつき、そして前方に通り過ぎた影に驚き、屈み込んだ。黒いマントが床を擦るように揺れる。
噂の幽霊かと息を詰めて、ヴィヴィは音を立てないように窺った。影の主はまだこちらに気づいていない。階段の暗がりに潜み、ヴィヴィは口元を押さえた。
大賢人だ。
影の正体は幽霊でも、件の美男子でもなく、この学園の象徴、大賢人その人だった。艶のない黒い髪は若布ようで、べったりと青白い顔に添って波打つ。気難しそうな顔の中年で、それでも学園の賢者の中では若い方に入る大賢人はゆっくりと外に向かって進んでいた。
ヴィヴィは後をつける気にはなれず、来た道を戻ろうとした。夜間外出の疑いを向けられれば、存在自体が異例のヴィヴィなら退学の可能性さえもあり得る。息を詰めたまま、大賢人が扉を出て行くのを待った。
「おや、悪い子がいるね」
ヴィヴィは粟立った体と心を宥めながら、ゆっくりと振り返った。赤毛の、燃えるような髪の青年の楽しげな笑顔があった。
「この時間に出歩くのは規則違反だね」
「……はい」
ヴィヴィが掠れた声で答えると、青年は声を立てて笑った。年は二十代後半といったところか。闇にも鮮やかな赤い髪の間から明るい翠の目が覗く。
「そんな絞め殺される前の鶏みたいな顔をしなくていいよ。この場の僕は教師でも監督生でもない。ここは共犯ということでお互い目をつぶろうじゃないか」
「共犯?」
「そう。君、彼を見たね?」
「……大賢人さま」
青年は満足気に頷いた。
「そう。きれいな男だろう。僕は彼に会いに来たのだけれど、無視されてしまった」
「きれい?」
青年の思いもよならい言葉にヴィヴィは眉を顰める。彼女からすれば、大賢人はどちらかというと気味が悪い風貌だ。わかりやすいヴィヴィの表情に彼は笑みを浮かべた。
「そうか。君は女の子だからな。余計にそう感じるんだろう。でも彼の側に近づけば君にもわかるよ。どれだけ美しい力が彼にあるか。彼の魔力はきれいな螺旋を描いているんだ。調和そのもの。ただ、彼自身の趣味は悪いね」
黒い服ばかり、と吐き捨てて青年は肩を竦めた。
「あなたは、誰なの?」
「僕かい。卒業生さ。名前は明日わかる」
悪戯っぽく笑い、青年はヴィヴィの背を軽く押した。
「部屋にお帰り。夜は冷える。ほら、肩まで冷たい」
触れられたところからじんわりと温もりが広がる。
「あなたは?」
「僕も暖かい寝床に入れるといいんだけれど、無理だろうな」
僕の部屋は締め切ってあったから、とぼやき、青年は歩き出した。
「そんなに長く効くまじないじゃないよ。早く毛布に包まりなさい」
「あ、ありがとう」
背中と肩からぽかぽかとした暖かさが広がり、ヴィヴィは忠告通り、部屋へと駆け戻った。
***
男は夜空を見上げた。
大気が澄んでおり満天に星が瞬くのが見え、満足気に息を漏らす。小舟の中に寝転び、あてもなく湖を漂うのは心地よい時間だ。男が目を閉じると爪先の方にあるランタンから炎が抜けた。闇が落ち、星明かりが増す。
ほんの少しばかりまじないを含んだマントが冷気を防ぐ。頬に風の動きを感じると、舳先に小さな影が舞い降りた。
「……ウォード。悪趣味なことはやめなさい」
男は目を閉じたまま言った。小舟の舳先に留まった梟の姿がぐずりと溶け、すぐに膨れ上がった。
「あなたがつれないからですよ」
梟が人の姿に戻ったせいで小舟の喫水線が縁に近づく。ウォードが動くとぐらりと揺れた。
「沈んでしまう……」
男は目を開け、目の前に覆い被さるようにしている赤毛を見た。同時にランタンの火が戻る。小舟の中はオレンジに染まった。
「風邪を引きますよ。ジンシャーさま。寝床に戻ってはいかがですか?」
男が身を起こすと漆黒の髪がこぼれ、白い頬を縁取った。青い瞳が非難するように細められる。
「私の安息を奪うのか?」
「僕がいるでしょう。帰ってきた僕を少しぐらい労ってやろうというお気持ちはないんですか。僕はあなたに会うのを楽しみに帰ってきたのに」
「私の心地よい時間を無粋に奪う理由にはならない」
「相変わらずの美人で」
拒絶を無視してウォードは微笑んで男の頬に触れた。きつく睨まれたところで意に介す青年ではない。ジンシャーは諦めたように溜め息をつき、青年の頭を撫でた。
「褒美を要求するだけの成果があるのだろうな?」
「暖かい寝床に入れていただけますか?」
「お前の部屋の暖炉に火を入れてやれとは伝えたが?」
「それは、お優しい」
「部屋に戻っていないのか?」
「ええ、可愛らしい友人ができましてね。あなたほど僕の目を奪うものではないが」
「あまりよい顔とは言えぬ。呪いに近い」
「大賢人どのの陰気な顔がお好きなあなたですからね。そこは意見の相違というやつです。僕はこの顔が大好きだ」
「皮を剥けば皆一緒ではないか」
不機嫌そうにジンシャーは眉をよせ、ウォードは口をへの字に曲げた。
「わからない人だ」
ウォードは水精を呼び、小舟を岸に向けて走らせた。絶世と称される美貌を呪いとまでに吐き捨てる。だがその面の皮を剥いだところで同じではない。気高い精神が剥き出しになるだけだ。
それ以上に、この抑えられた心地の良い魔力は何にも代え難い。
「まあ、寝る前にお茶を一杯いただくぐらいは許されますね」
もはや男の同意を必要としない青年にジンシャーは返事をしなかった。