悔し涙
ーーー17年程前。
厳かな石造りの大きな屋敷で、一人の女が泣きながらベッドに向かってあれやこれやと手を尽くしていた。
ベッドには青い顔をして息を切らす少年がいて、お腹を抱えるようにして苦しんでいる。
「フラット、フラット……大丈夫だからね、もう少し頑張って」
少年に向かって懸命に声をかける。髪が乱れているが女は気にしない。
「お腹痛いよぉ……」
「トイレ行く?」
「んん……上の方が痛いから……」
「吐きたくなったら言うのよ」
「うん……」
気をしっかり保とうとするが、どうしても涙が溢れてくる。それを微かに開けた目で見た少年は申し訳なさそうにする。
「ごめんね、母さん」
「あなたは謝らなくていいのよ」
「でも」
「良いの。でもなんとか元気になってちょうだい」
「うん……」
グルグル鳴る音がしてまた少年はお腹を抱えて唸り始めた。
夏が本格的になる頃だった。
屋敷の中はひんやりとしているが、外は燦々と日が照って暑い。
その日、女は用事で留守にしており、少年は祖父と伯父とその息子である従兄弟と昼食をとった。
少年は祖父の事が大の苦手で、それは周りも同じだったが、1番年少だった少年はテーブルマナーについてその日も酷く叱られていた。
『お前の父親はもっと小さい頃からスマートに食事が出来た。このお前の伯父もテセウスには及ばんがお前程では無かった。孫の中でもお前は一番出来が悪い』
『テセウスはあんなに出来がいいのに、お前は何故こうも不器用で勉強も出来ないのか。計算もろくに出来ない者なぞ当家の恥でしかない』
そういった事を延々と聞かされ、その間少年は食事に手を付ける事が許されなかった。
いつの間にか先に食事を終えた伯父と従兄弟が飛び火する前に静かに退室してしまい、少年は黙って泣きながら、泣く事すら叱られながら、ハイとだけ繰り返した。
やっとその時間から解放され、一人きりになった少年はモソモソと食欲の無い中、すっかりぬるくなった冷製のスープを飲んだ。
中には白身の魚が入っていて、回顧するに少し変な食感だったという。
ただ涙で口の中がしょっぱくなり、味が分からなくなっており、心の余裕もなく、もし残してバレても大目玉だったのもあり、少年は無心で昼食を食べ終えた。
そして部屋に戻り、勉強を再開して数十分もしないうちにお腹が痛くなってきた。
使用人が介抱しているうちに母親が帰ってきて、驚いて医者を呼び、食中毒と診断されて、今に至る。
大人2人は何とも無かったが、従兄弟もまた腹痛を起こしていて、だがまだ軽症だった。
数日内に関係者は処分を受けてコックと仕入れ人と担当の給仕係はクビになるのだが、それはそれ。
(きっと三人の中で一番小さな身体だし、より古くなったものを食べたからだわ)
そう母親は考えた。
そもそも祖父が7歳になったばかりの小さな孫に完璧なマナーだとか、本来中等教育の問題を完璧にこなすように命じて、出来なければ恐ろしく怒鳴りつけて……小さなフラットはずっと参っているのである。抵抗力も弱っていたのかもしれない。
(上手く乗りきってくれたら、やっぱりすぐに自宅に戻りましょう。テセウスの帰りなんて待ってられないわ)
夫が長い出張で居ない間、夫の実家で母子は過ごす事になっていたが、やはりこのままではいけない。
慣例だとか、嫁の務めだとか、英才教育だとか、知ったことではない。
(お義父さまはフラットにテセウス程の事を求める。確かにあの人は何でもとても上手くやるけど、この子だってそこらのクラスメイトよりよっぽど賢いのに)
そしてまた自分を悔やむ。
(私がしっかりしていれば。私がこの子の傍を離れなければ。お義姉さまの用事なんて聞かなければ。テセウスからこの子を任されているのに、私は)
悔しくて悔しくて涙が出る。
そして深く深く義父を恨んだ。今までの自分への仕打ち、息子への仕打ち。
テセウスの妻に相応しくないだとか、息子の出来が悪いのはお前のせいだとか。
自分への仕打ちはともかく、息子を愚弄されるのは我慢ならなかった。
エリーゼは歯を食いしばって泣いていた。




