1日目夜②
千蒔の着地と共に俺の体に鋭い衝撃が走る。千蒔が地面を殴り付けたことによる揺れだ。岩石と雑草だらけの河川敷のどこかに千蒔は飛び降りた。
一体どうしたというのか。俺も急いで腰ほどの高さに伸びた草を掻き分けて闇の中、千蒔の気配を探す。
「おい、どうしたんだよ!」
声を出して呼び掛けるが返事はない。異様な不安感に駆られて足が急ぐ。鞄だけ堤防において、河川敷に降りる。
無駄に静かで暗い河川敷、生暖かな夜風、そして跳び出した時の千蒔の目。制服が汚れるのも気に止めず、俺は進む。
しばらくして目が闇に慣れてきて、ほんの数メートル先に千蒔が立っているのが見えた。
「おい、なんで返事…」
しないんだ、と問いかけて言葉が詰まった。あまりに真剣な千蒔の殺気だった横顔に喉が上手く働かなかったのだ。
「来るなと言うたのに。まあ、良い。そこから一歩も進むでないぞ。」
千蒔と視線が合う。瞬間、俺の全身が強ばった。痺れるような千蒔の威圧感。目の前にいるものが超越種である、人間としてそう本能に教え込まれる。
そんな俺の様子を確認するとまた千蒔は顔を前に戻した。彼女の視線の先を同じように見る。
そこにあったのは黒い渦。暗い河川敷の中にある一際黒い渦。目が合うだけで呑み込まれてしまいそうだ。
なんだ、あれは…。
それを俺が正しく理解するより早く渦は変質を始めた。
ゴゴゴと地鳴りのような音が黒い渦に向かって響く。その振動と共に地面に落ちた小石や岩が引き込まれて行く。まるで大穴に落ちていくように岩石は黒い渦の身体となっていく。渦が奇怪なモンスターに変貌する様子を千蒔はじっと見つめている。
黒い渦はあっという間に全長五メートルもあろうかという巨大な岩の怪物となった。二つ足で立ち、大きな拳を持った岩石の怪物。これは夢だと錯覚するほどの異質性。
雲が離れ、月明かりが河川敷に差し込む。瞬間、耳が砕けるほどの咆哮が轟く。耳を塞いで怪物の正体を何とか目視する。岩石の四肢、そして顔は荘厳さすら感じさせる獅子だった。
「な、なんだよ…これ…」
みっともない話だが俺は腰が抜けて尻餅をついた。これまでの人生でこんなに恐ろしいことは体験したことがない。逃げ出したいが上手く体が働かない。
だが、そんな俺とは対照的に千蒔は怪物から目を離さずに睨みを効かせていた。
「磐獅子之男神という名だったか。堕ちた岩の神よ。我が名は千蒔石姫命。天照の加護の元、おぬしを断罪せんとする。覚悟せよ。」
そう口上を述べると怪物に飛びかかった。数メートルもあるであろう怪物の顔付近まで一息に跳ねる。
怪物が反応するより早く千蒔が握りしめた拳を突き出す。閃光のごとく振り下ろされる握り拳。バガンと俺より一回り小さいその拳が岩石のたてがみを殴り壊した。
怪物が再び咆哮する。先程とは違い明確に敵意を持った叫び。未だ宙を舞う千蒔に向かって、どういう仕組みか怪物の全身から岩石が発射される。
「危ない!!」
本能的に叫ぶ。
だが、心配は無用だった。反撃を予測していたように冷静に振り替えると、自身の長いツインテールをうねらせる。そして、飛んでくる岩石を全てその白い髪で叩き落とした。
なかなかに衝撃的な光景だ。美しい白い髪が無数の刺々しい岩を退ける。
「あのツインテール、まさか戦闘用なのか…?」
だとするならば、よくも昼間はそんなもので叩いてくれたものだ。文句を言いたくなるが、そんな状況で無いのは俺自身が一番肌で感じている。
目の前で起こる浮き世離れした戦闘。たった数秒であったが、生身の人間入ってはいけない領域だと脳が理解した。
「仕留めそこなったか。それ、おぬしは堤防の辺りまで戻るのじゃ。如何に危険かはわかったじゃろ。」
怪物を挟んだ向こう側から千蒔の声が聞こえる。昼間の甘い声ではなく、実務的な感情のない声だ。
「わ、わかった。お前も気を付けてな!」
女の子をおいて敗走するなんて男としては最低であるが、人間としては最適解だ。にわかに信じがたいが千蒔はあの怪物を神だとか言っていた。神々の戦いに俺は足手まといでしかない。そして素直に言えばめちゃくちゃに怖い。
何とか震える足に力を込め立ち上がる。怪物は千蒔に向かい、俺には背を向けている状態だ。此方も背を向けて走り出しても大丈夫だろう。俺は深呼吸を一つして、全力で堤防に向けて走り出した。
しかし、その瞬間怪物による三回目の咆哮があった。今までで最も大きく、とても近くに聞こえる咆哮。俺の周りが影に包まれる。反射的に振り替えると、岩の怪物が俺を押し潰そうと真上に迫っていた。
これは死んだ。そう理解してからの数秒は長かった。怪物が落ちてくる速度が永遠のように遅い。一体どれだけの走馬灯を見れば良いのだろう。両親、友人、彩乃…そして、千蒔。
ドゴォッ!!と巨体が地面に落ちる音が真横に響く。見ると危機一髪、俺の数センチ横に怪物は着地していた。そして、上を見ると間近に驚いたような千蒔の顔があった。どうやら俺は千蒔に抱きかかえられているようだ。
千蒔はそのまま大きく跳ねて怪物と距離を取る。余りに高く跳ねるので、ひっと口から声が漏れてしまった。
「すまぬ、高いところは苦手じゃったか?」
「いや、大丈夫。助けてくれてありがとう。」
「構わぬ。おぬしが無事なら。」
そう言いながら、千蒔の視線は怪物に向けられている。また唸るような怪物の声。岩石を打ち出す攻撃だ。千蒔は両手に俺を抱えながら、ツインテールでそれに応戦して距離を取っていく。幸い、この河川敷はかなり広いので、逃げる先に困りはしない。千蒔は再び大きく後ろに跳ねた。
話しかけるなら今しかないと思い尋ねる。
「あれ、なんなんだ。」
「あやつは邪神。地上の呪いを受けて変質してしまった神じゃよ。」
「あれが、神…」
信じたくなかったが、信じざるを得なかった。始めに見た恐ろしい黒い渦、異次元の怪物とその権能、そして圧倒的暴力性の中にあってなお感じる神々しさ。人としての本能が事実を肯定していた。
「あれは岩の神、磐獅子之男、だったものじゃ。対話が叶わぬほどに狂っておるがな。」
「ほうっておいたらまずいものなのか?」
「まずいの。ああなってしまえば、あれはもう呪いを振り撒くだけの害獣じゃ。人間にも動物にも悪影響が出る。」
「お前なら、倒せるのか?」
「無論じゃ。故にお前は身を隠していてくれぬか。」
千蒔は自信満々にそう答えた。ならば俺は従うのみだ。
「もちろん協力する。神様同士の殴り合いに巻き込まれるなんてごめんだ。」
その返事を聞くと、千蒔はうむ、と頷き、俺は一際長い雑草が生えた場所に隠した。
「こんな場所ですまぬが…」
「俺は大丈夫だから、お前も無事で戻って来てくれ。」
それだけが俺の願いだ。千蒔は深く頷くと、此方に突進して来る磐獅子に向かっていく。
その姿を見送ると俺は体育座りになって小さく身を丸めた。千蒔に見つからないで欲しいと言われたのだから俺の責務は小さくなって息を潜めることだ。
千蒔はまた軽々と跳ねて磐獅子の方へ向かって行った。俺は彼女の戦いが終わるのを耳をそばだてて待つ。
遠くから地鳴りのような音が近づく。磐獅子の足音だろう。
ドンドンドン、ドンドンドン。
千蒔との対決に歩みを進めているのだ。
ドンドンドン、ドンドンドン。
歩みが止まらない。千蒔は大丈夫だろうか。
ドンドンドン、ドンドンドン。
大きな足音が近くでとまった。どうしてこんなに近くまで。
「避けよ!!」
千蒔の声に反応して無我夢中で後ろに飛んだ。寸前のところで、振り下ろされた岩の拳は地面を殴り付けた。数秒前俺がいた草むらは大きなクレーターになっている。
眼前の怪物に唖然とする俺を千蒔は再び颯爽と抱きかかえた。そして、そのまま加速し脱兎の如く距離を取る。
俺を抱く千蒔の顔にはかなり焦りの色が見える。俺を守るので手一杯になってしまっているのだ。
「ごめん、足手まといになってるな俺。」
「構わぬ、巻き込んだのは儂なのじゃから。しかし、しかしだ…」
千蒔は息を飲んで言った。
「おぬし、何故狙われる?」
真剣な顔でそう尋ねられた。