7.1年A組 坂月太槻
孫一、無事登校。
次の日。
雑賀孫一は朝から出席した。
声を掛けようとしたが、担任・校長・学年主任という物々しいメンバーがA組のドアを開けたタイミングで、僕は出鼻を挫かれた。
「雑賀君、ちょっといいかな。」
未だに名前と顔も覚えられない女子担任が、その空気に割り込んで孫一に声を掛ける。
孫一は悟ったように席を立った。
「おい、孫一っ…」
僕の呼びかけに孫一は振り返り、笑顔を見せた。
「ああ、大丈夫。留学の話☆」
「留学!?」
その突飛なキーワードに驚く僕とクラスメートに、これまた飛び切りの王子様スマイルを投げかけ、手を振る孫一。
「じゃ、ちょっと行ってきまーす!」
孫一はそう言うと彼らの元へ向かって行った。
校長先生の肩越しその向こうには、あの、鈴木の姿があった。
あれが笑顔なものか。
作り笑いもいい加減にしろよ、孫一。
僕は彼の背中を見送りつつ、イライラしている自分に気付いた。
「はーい、皆さん席についてください。まぁ、そのままでもいいんですけど。先生の話を聞いてくださいね。」
眼鏡黒髪サラサラ長髪を後ろで一つにまとめた髪型、タートルネックの薄手の黒いセーターに白衣と、ステレオタイプの理系女子のような担任はそう声を掛けた。
「我が高校に交換留学生プログラムがあるのは皆さん、事前の説明で知っていると思うけども、今回、春の交換留学生は雑賀君に決定しました。本来は先方からも留学生を迎えるのですが、時期をずらしての来校となります。まだまだチャンスはあるからさ。」
説明によると、つまり、健康診断の結果、孫一がずば抜けて健康で体力的にも問題がないこと。海外留学希望者のため入学式以前の補修を受けていたこと、などと言う話だった。
何もかもが、取り繕ったような説明にしか感じない。
実際そうだったとしても、僕にとってこれは不自然なタイミングでしかなかった。
理不尽さ。
日常に潜む理不尽さとは、こういう事を言うのかもしれない。
感情が高ぶる中、僕の記憶にまた一つのピースが嵌っていった。
あの日のこと。いつかあったあの日のことと、僕が孫一に何を言ったのかを。
孫一は言った。あの告白は二度目だと。
そうだ、二度目だ。
そして一度目の告白は、あの日だ。
鮮明に蘇る白浜が丘幼稚園の幼い日々。それは、まるで幼稚園児の僕が間違えて高校生の教室に座らされてしまったかのような錯覚だった。
記憶と共に封じされてきたあの日の感情がそのまま僕に伸し掛かる。
いや、これは逆なのかもしれない。
あの日の感情が、あの日の記憶を呼び戻しているのだ、と。
そして孫一が居ないまま、昼休みのチャイムが鳴り響く。
僕は即座に立ち上がると、急ぎ売店へ向かおうとした。
「え、ちょっと、太槻君!?」
何時もはチャイムが鳴り終わるまで動かない僕に気付いていたのだろうか。
突然の挙動に驚いたのか、磐城円が僕の後から追うように声を掛けてきた。
僕は振り返り短く言う。
「磐城さん、カツサンドの次は何?!」
咄嗟に言うにしても僕ももう少し言葉を選べば良かったが、何故か磐城円には伝わったようだった。
「カツサンド、ポテサラ焼きチーズ、日替わり!」
「ありがとう!」
それだけ聞くと僕は迷わず売店へ向かった。
この後の展開は、そう、予想がついていたから。
鬼の形相だったのか、多少人が集まり始めていた売店は、自然と道が開け、僕は磐城円に言われるままのお勧めサンドイッチとコーヒー牛乳を2つ、買った。まるでモーゼの樹海を体現したかのような僕だった。正直恥ずかしいが、そんなことは今やどうでも良かった。
紙袋を抱えた僕は、校長室の前を通る。
この壁越し、この向こう、孫一たちが居るに違いなかった。
僕は階段を踊り場まで登り、待つ。
「失礼しましたー!」
と、声の勢いだけ空回りする挨拶でドアを閉める、態度と感情が不釣り合いな男。
「孫一。」
僕はその後ろ姿に声を掛ける。
その背中は少し驚いたように見えたが、孫一は直ぐに反応した。
そして俯き加減で階段を上がる。
僕はそのまま先を歩き、屋上のドアを開けた。
間もなく6月を迎える屋上はやはり、日差しが強い。
生ぬるくなり始めた風を頬に受け、僕たちは無言でいつもの席に座る。
「はい。」
僕は、自分用のコーヒー牛乳を抜いて紙袋を丸ごと渡す。
孫一はそんな僕に驚いていたが、ポテサラ焼きチーズと照り焼きチキンサンドという日替わりを取り出し、カツサンドを僕に渡した。
その態度に、僕はあの日のことを思い出し始めていた。
「孫一、お前ってさ。そうやって一番だけは必ず誰かに譲ろうとしていたっけな。」
孫一から受け取ったカツサンドのパッケージを開きながら、僕は思い出していた。
「…ツッキーは、いつも俺が何かするたびその理由を聞いてきたっけな。」
ようやく孫一が声を出した。
僕はこの後の展開を分かっていたからこそ、一人急ぎ、カツサンドを食した。
孫一に食欲がないのも分かっている。
「争うのが怖いから、って言ってたな。」
誰かと争うと、誰かの名前を呼ばずにはいられなくなる。
だから争う事自体をやめた。だが人と付き合う事を辞めるには、王子様は少し優しすぎたのだ。
「昨日あれからずっと、考えてた。いろいろ。で、思い出した。」
僕は孫一に言う。思い出した、と。
「鈴木って奴と以前会ったことがあるかどうかは分からない。でも、お前のことは思い出したんだ、孫一。」
お前のこと、僕のこと、里奈ちゃんのこと、悟君のこと。
「僕、気付いてたんだな。お前のそのジンクスに。」
僕は告白する。想い出した過去を。
どちらが夢か現実か曖昧だった記憶に、改めて線を引く。
ぐしゃぐしゃに泣き潰れたヒーローになれなかった王子様。それは、あの女王・里奈との決戦前夜の出来事だ。
僕は気付いていた。
孫一が名前を呼んだ子が転んだり、怪我したり、おやつが足りなくなったり、トイレに閉じ込められたり。
まるで冗談のような事件が絶えなかったことを。
あの幼稚園に通う中で、僕は何となくその気付きを試してみたくなったのだ。
「マゴちゃん、僕のこと、タツキって呼んでみて。」と、僕はお願いした。
当時自信の能力に気付き切れていなかった孫一は、「えー?タツキってカッコ良すぎじゃんー?ツッキーでいいよ、ツッキーで。」と笑って返した。
そして幼稚園のあの日。
細心の注意がなされていたにもかかわらず、僕は、キラキラ王子と女王、その対決の機運高まる中、恐ろしく偶然、砂場で転び、その淵で額を切った。
当然大泣きした。興味本位の、まさに藪蛇だった。
だが、一人、青ざめた顔色をしていたのは、先生ではなく、孫一だったのを覚えている。
そして二人になった途端、泣き出した。
僕の言う通りだった、と。
自分が名前を呼ぶと誰か必ず何かが起きるから、もう誰の名前も呼びたくない、と。
怪我をさせてゴメンと、泣いたのだ。
「大丈夫だよ、マゴちゃん。」と僕は言った。
「これはから皆、あだ名で呼べばいいんだよ!その方が仲良いっぽいし、ヒーローみたいじゃん!」
実際にはここは僕の勘違いで、どうやらプロレスラーか何かとヒーローを間違えていたらしいのだが、あだ名がヒーローみたいという謎理論は、当時の二人には共通認識だったように思える。
「じゃぁ…ツワッキーのがいい?」
「それめちゃくちゃカッコ悪いじゃん。」
当然呼び方を変えてもらった。
そしてそのあとだ。瓦ヶ浜里奈を『浜の上のカリーナ』と呼ぶことにした、そのあとだ。
「ツッキー…僕、カリーナちゃんのこと勝たせたい…。」
「何で?ヒーローが負けるのってかっこ悪いんじゃないの?」
「だけど…僕、カリーナちゃんが泣くところみたくないんだ…。」
そしてここで僕の記憶は途切れる。
不自然に途切れて、覚えているのはその後の「お葬式」だった。
「ああ。あの日、ツッキーに言われて俺も気にし出したんだ。そしたら、事実としか思えなくなった。」
「でも僕は、その前後のことも全部忘れていた。孫一とのやり取りも全部。」
「ああ。正直驚いた。でも、いろいろあり過ぎてそのショックで、こう、忘れたりっていうのは、なんか良くあることなんだろ?」
「らしいな。でも…今は僕の話をしたいんじゃないんだ…。」
そう、僕の記憶がまるでブロックが抜け落ちたかのようにないのは、これだけじゃない。
ただ、今、肝心な答え合わせはあとでいい。それはあの鈴木氏と僕がやるべきことなのかもしれないから。
「僕は、人一倍努力して、人一倍出来るお前が、いつも他人に一番を譲るのが嫌いだった。それがそのうち態度にも出てくるようになってイライラしてたんだよな。」
「おやつにしても何にしても、俺が一番を取らないことに気付いて、ツッキーはわざと、2番目・3番目を押し付けてきたっけな。ホントにそれでいいのか、って。」
「ああ、僕は怒ってたんだ。今もだけど。」
売店人気第二位のポテト焼きチーズサンドにようやく触手が伸びた孫一は、深いため息を吐いた。
「でも僕が今一番怒ってるのは、孫一。お前のその態度なんだ。お前自身が自分に嘘を吐いてるような、その態度が。僕が言いたいこと、分かるだろ?」
前髪に隠れたその眼を、僕は見た。
孫一はその泣きそうな目を反らし、一呼吸置いた。
僕は未だ、この雑賀孫一と言う男の全てを想い出せた訳ではないが、この男に対する僕の感情だけは、本物だった。
嘘を吐いてごまかして、本音を隠して生きるのは、この雑賀孫一と言う男には似合わないと言う事、それは間違いなく僕が知っている事実だった。
「ツッキー、俺。とりあえず留学してくる。」
「うん。」
「今は何も…話せない。」
「うん。」
もそもそとサンドイッチを食べる僕たちは、重々しい空気を醸し出していたことだろう。
「ツッキーは昔からさ、小さいことによく気が付くんだよな。」
「うん?」
「観察力っていうの?うわ、コイツこんなところでそう言う事に気付くんだ、みたいな。」
「そうだったっけか。」
僕は思い出す。近い日常でそんなことがあったかどうかを。
「俺に昨日何があったか聞かないのは、もう察しがついてるんだろ?」
孫一は聞く。
自分から言う事は出来ないが、僕が勝手に推測を挟むことはどうやら許されるらしい。
「正直昨日。僕は何をすれば正しかったのか、未だに答えは出てない。でもただ、大事なのは、誰でも察するだろ。」
「そういうもんか。」
「そういうもんだよ。一応誘拐なんだからな、あれ。」
孫一はその『誘拐』という単語に、ヒーロー志望の自分が実は軽く誘拐されてしまったことに、何やらアイデンティティの崩壊を感じているようだった。
「少なくともあの車はそういうものだった。そして恐らく、ここからだと約1時間ってところかな。駅周辺の繁華街、外国人観光客も多い外資系ホテル。そこで車を乗り換えて移動したんだろ?」
「何でそんなことまで知ってるんだ!?ツッキー、見てたのか!?」
そのリアクションはどこかで見た。
「いや、推測。あの車、目立つんだよ。だからって、ホテルのスイートルームで二人が話し合うには、使わなきゃいけない人間、というか、機密を守らなきゃいけない人間が多いんじゃないのかな。ホテルにスイートルーム直通の入口があるからといってカメラがない訳じゃないだろうし。例えなかったとしても、サングラスにブレザーの高校生とホテルで密会は、目立つよ。」
「その時はサングラスしてなかったぞ。」
「いや、例え。」
今のはシリアスな会話に無駄なネタを入れた僕の責任です。
実際、柄シャツの番長は違和感あり過ぎなんだけども。
「だから、きっと、途中で車を乗り換えて、何なら鈴木以外が案内してその先で軟禁されたんじゃないかって思ってたんだ。あの男も目立ち過ぎるよ。」
「ああ…。」
言葉を濁す孫一に、僕は続ける。
「特命全権大使って、多分、伊達でもないんだろう。恐らくそういう役目を持ってるのは本当で。それが何故お前に白羽の矢を立てたのか。」
「矢は刺さってなかった。」
日本古来の床しい例えだよ!ホントこの学校大丈夫なのか。
「…あ、あぁ…で、それで、孫一の昨日の告白と重ねて考えてた。お前の、その、ジンクスが本物だとして。そういうものに頼りたいのは、誰なのかって。」
「そか…やっぱり、ツッキーは相変わらずだったんだな。」
孫一は笑った。屈託のない笑顔だった。
重苦しい出来事、事実に少し遠い、遠い昔の純粋な笑顔は何故か眩しかった。
「ツッキー、俺、ここでお前と会えて良かったよ。ありがとう。」
孫一はそう言って不意に立ち上がると、そのまま屋上を去った。
僕が引き止めるために呼んだ声は、予鈴に掻き消されて、その背中にすら届かなかった。
予鈴が鳴り終わった後も、僕は立ち上がることが出来ず、食べかけのカツサンドを持て余していた。
確かに僕は思い出したが、まだ足りない情報がある。確実にある。事実と食い違う記憶がある。
白昼夢のように浮かんでは消えるあの日の光景に、僕は今の自分の存在が曖昧になりかけているのを感じていた。
いつ、どこで、誰が、あの日、どんな感情でいたのか。
「太槻君、みっけ。」
人の気配にも気付かず、呆然としていた僕の目の前に、それは突然現れた。
「円ちゃん!?」
記憶と共に自身がまるで幼い子供時代に戻っていた僕は、咄嗟にやってしまった。
円ちゃん、というその自分の声に僕は驚き、ようやっと正気を取り戻せた。
「円ちゃんかー!昔はよくそうやって呼ばれてたなー!おはよう、太槻君!午後の授業、始まってるぞ!」
円ちゃんという呼び方が嬉しかったのか、左腕をぐるぐる回しながら元気アピールをする、磐城円がそこにいた。
「いや、今のはゴメン。ちょっと何というか、間違いです。」
そう続ける僕に磐城円は微笑みながら横に座る。自然と、まるで普通の距離のように。
「考え事するには、良い場所だね、ここ。」
「って、磐城さん、その、授業始まってるって…」
「うん、始まってるよ。」
「学級委員が二人で屋上でサボってるというのは、宜しくないですよね?」
僕は自分の今の状況を棚に上げて、恐る恐る声に出す。
「うん、宜しくないね!ダメダメだね!」
磐城円は笑う。
僕自身、決まり事を破るのは正直好きじゃない。だが、今は、実際に立ち上がる気力すら失われていた。
「でも、ちょうどいいかな。私も今はサボりたい気持ち、っていうか!」
「学級委員長がサボりたいとか、皆の前では言えないね…。」
「そうだね。でも、言えるようになりたいって思ってたことはあるよ。」
それはつまり、本音を言いたいが言えないということなのか。本音を言える友達を本当は作りたいということなのか。
磐城円には、これまでの人生で何があったのだろうか。
僕はそう思いつつも、それを口に出せずに間を作る。
「太槻君てさ、津和野君だよね?」
その瞬間、弱っていた僕の思考に、完全に止めが刺された。
磐城円、彼女も、僕を知っていて僕が忘れた一人なのだろうか。
驚きの形相で僕は彼女に向き直る。
「ゴメン!ごめんね?あの、ホントごめんなさい!私も何ていうか確証がなくてさ!」
再び僕の中の記憶の時間を動かす。
幼稚園の僕から一歩先へ。その時計を動かしてみる。
「小学校、4年2組だったよね?その、私、隣のクラスって言うか、その、私が一方的にって言うか!」
「え…隣の…クラス…?」
「熊野美佳莉、の、友達、だったから、私。」
熊野美佳莉。
4年2組の熊鹿コンビは、そう言えば、多少なりとも学年内に有名だった。
熊は当然、熊野のことで、鹿は…そうだ、悟君だ。小鹿戸悟。
雑賀孫一、小鹿戸悟、津和野太槻そして熊野美佳莉。
この4人は同じクラスだった。
そうだ、熊野…。
僕は直後、酸欠にも似た状態で、倒れることになる。
屋上で、女の子を前に。
そう、僕は気を失った。
安心してください。
実はクラスメイト全員顔見知り…何てことはありません;