2.凹凸出版営業 坂月尚江
昨今の事情を反映していますが、厳密にマスクとかフェイスシールドとか、そういった描写はございません。
2020年年初の緩いながらもそこそこ気にし始めたそんなご時世を、思い浮かべて頂ければ幸いです。
その夜、夢を見た。
幼い頃の思い出の一つだ。
孫一が泣いていた。
白浜が丘幼稚園のキラキラ王子が、ぐちゃぐちゃになって泣いていた。
「ボクのせい…ボクがわるいんダ…ボクのせいで#*”*#”ちゃんが…」
永く、とても永く忘れていたワンシーンだった。
そう、その日から、多分孫一は休みがちになっていた。
それは小学校に入っても続き、ある日、突然、何の音沙汰もなく彼は消えた。
彼が休みの間も、僕は雑賀家へ幾度となく遊びに行っていたと思うのだが、本当に突然、突然に雑賀家は引っ越してしまったのだった。
この辺ではそこそこ高さのあるマンションの5階に、眩しい朝日が差し込む。
ぼんやりした目覚めの後、僕は着替えてリビングへ向かった。
一日の中でお互い顔を合わせるのはなかなかに珍しくなったが、母がコーヒーを淹れていた。
母は印刷だったか出版だったか、その仕事柄、だいたい朝は遅く夜も遅い。
「インスタントだけど、飲む?」
「うん。」
僕は答える。
リビングのテーブルは然程広くはないが、母が拘ったスウェーデン調にまとめられていた。
正直、どの辺がスウェディッシュなのかは全く分からないし、あまり興味もないのだが、僕はその椅子に座る。
「母さん、そう言えば、学校に孫一が居た。」
「え!?雑賀さんちのマゴちゃん??」
「しかも同じクラス。」
「すごいねぇ。小学校以来か。」
「母さん、それなんだけどさ…」
僕はコーヒーが入ったマグカップを受取り、母の目を見た。
「見た目別人だったよ。」
母は食い入るように聞いてくれたので、僕はそのまま「初見番長」の風貌を漏らさず説明した。
そして初日の昼食は彼の奢りになったということも。
「それは…流石に私も会ったら分からないかもねぇ…。」
「多分、道ですれ違ったら避けると思う。」
母は笑う。あのマゴちゃんが、と。
「しかし太槻は、ホントそういう細かいところ観てるよね。昔から観察眼があるって言うかさ。」
「いや、今のは全然細かくないでしょ。むしろテンプレートと言って良いと思うよ、アレは。」
「相変わらず無意識なのかもだけど、太槻にしか見えてないこと、多いと思うよ。母さんとしては。」
そして急いで自分が持っていたカップを片付け、颯爽と鞄を肩から下げ、玄関へ向かう母。
「じゃ、我が息子よ、後を頼みました。」
「かしこまりました、母上。」
僕たちの冗談交じりの朝のルーティーン。
「晩御飯何が良い?」
「って、その時間に帰って来れるの?」
「まぁね。お母さん、仕事出来るから。」
母を見送り、カップを片付けつつ、オンライン授業用の飲み物を大きめのタンブラーに用意する。
母の『仕事出来るから』は大体フラグだ。つまり、仕事が出来るから早く帰れる、ではなく、仕事が出来るが故にまた新しい仕事が舞い込む。
出来る女は辛いと話して居たが、我が母ながら、実際、職場では頼れる存在なんだろうと思う。
―ああ、夢の話を忘れたっけ。
久しぶりに見た幼稚園の頃の夢。
眩しい光の中に僕と孫一の二人だけの世界。
切り取られたその一瞬の夢。
そして僕は、この夢の話を母にしなかったことを後悔することになる。
続きます。