1.私立縁ヶ淵高等学校 1年A組 坂月太槻
はじめまして。
小犬ハンナです。
かの大先生は、13歳のハローワークでおっしゃいました。
「作家は人に残された最後の職業で、本当になろうと思えばいつでもなれるので、とりあえず今はほかのことに目を向けたほうがいいですよ」と。
だからこそ、今でしょ、と思った次第です。
宜しくお願い申し上げます。
高校に入学したら苗字が変わった。
何てことはない。
親が離婚したからだ。
僕は母側についた。だから苗字は「坂月」。
ツワノ タツキより、サカヅキ タツキにしたかったからと言う訳ではない。
父は、津和野雅史と言う僕の父は、不思議と僕と縁がない父親だった。
決して家族愛がない父親ではなかったと思うのだが、こうして思い出しても、感動的なエピソードはなく、やはり僕からしたら「縁遠い」家族だったのだろう。毎日ちゃんと家に帰って来ていたはずなのに、影が薄い父親というのも、実の息子ながら何となく不憫に思ってしまう。
そんな訳で。
必然と僕は、母と暮らすことになり、新しく戸籍上に登場した「坂月太槻」という僕が、高校生活の1日目を始めるに至ったのだった。
鏡の前に立ち、僕は見慣れた自分を改めて認識する。
小学校から代わり映えのない黒縁眼鏡。高校生デビューと言う訳でもなく、特に盛る必要もない癖がかった髪。とはいえ酷い寝癖に苦労することもないので、これも何時も通りに適当に手櫛で整える。
前髪は分けるだけ無駄なので触らない。
何時も通りで、苗字だけが違う僕の完成形。
その「坂月太槻」(サカヅキタツキ)という、早口言葉にもなりそうで舌を噛む勢いの名前を持つ僕が、とあるご縁から私立高校の学生と決まったのは、本当に直前の2,3週間前のことで。
私立高校の癖に、というと偏見かもしれないが、学費が安く、そこそこ学力差がある幅広い学生をひとまとめに教育するという風変わりな学校だったが、生徒の「考え方」を育成することにフォーカスしているため、非常に進学率も就職率も良いという話だった。
つまり、普通科・商業科・進学科の3つ、どの科からスタートしても、学力や能力に合わせて進学か就職かも選べる上、その成約率も悪くないという評判なのだ。それに海外留学や、企業へのインターン活動なども盛んで、何気にコネクションの幅もあるという。
この学校の話を持ってきたのは、何を隠そう元父である津和野本人。男手のない母子家庭のためにと必死で探してきた情報なのだそうだ。そこは母も常識的に提案を受け入れ、しっかり予想できる範囲の僕の人生を吟味した結果、私立高校へと進学することを決めた。
ちなみに受験らしい受験はなく、校長先生との直接面談だけで入学出来てしまう辺り、私立らしい感じを受けたのは否めなかったけども。
私立縁ヶ淵高等学校、普通科。
とり急ぎ、それが新しい名前の僕が所属する、新しい行き場となったのだった。
昨今の事情か入学式は事前にオンラインのスマホ配信で済まされ、晴れて5月の連休明け、雲一つない青空の下で僕たち普通科の授業が始まろうとしていた。
進学科と商業科の校舎と少し離れたところに僕たちの棟はあるのだが、何故か普通科の人数はそこまで多い訳でもなく、1クラス30人程度の4クラスで1学年という構成だ。
今日集まってくるのはこの普通科のみ。校舎の前の通りにはまばらな制服姿の人影が見え始め、三々五々、各々が割り当てられた靴箱を通り抜け、自身のクラスに向かい階段を上がっていった。
僕は、1年A組。青春ストーリーでも始まるんじゃないかというクラス名だが、特に期待することもなく、他の生徒と同じように階段を上がっていった。
私立高校ということもあるのだろうか、ほとんどの人間が初対面となるその空間は、誰が最初に言葉を切るのか、何かを期待するような、恐れるような妙な緊張感が廊下からも漂っていた。
誰もがほぼ初めて袖を通すだろうその制服は、襟に白い淵の付いた紺のブレザーにグレーのパンツ、プリーツって言うんだっけか、折り目が一杯の毎日の管理がどう考えても大変そうな女子のスカート。
若干丈や着こなしに差異はあれど、それぞれがその制服に身を包んでいる。
その、新入生たちがクラスの扉を開け、椅子を引き、座る…という椅子が床を移動するだけの物音だけがただひたすらに聞こえるそこは、大きな廊下のガラス窓から降り注ぐ光だけが明るく、その場の空気を温めているだけだった。
公立とは違い、地元周辺の旧友が集う場所でもないこの私立縁ヶ淵高等学校は、その特性からか遠方からの学生も多く集まっているという事だった。
本当に初対面の人間が一同に会するというのは、やはり、この静寂を撃ち破るべくインパクトを持ったヒーローの登場を待つに他ならないとでも言いたげな、独特の空気を溜め込んでいた。
そして、たどり着いた1年A組。
僕は、ここで、あの日ヒーローになり切れなかった旧友と顔を会わせることになったのだ。
扉は開きっぱなしだったので、そのまま教室に入る。
座席は以前よりオンラインで知らされていたので、誰もがスマホを片手に自分の席を目指していた。
その座席表には生徒の苗字だけが記載されており、正直なところ、飛び切り派手な苗字でも無ければ印象に残ることはない。
そして一瞬「津和野」を探している自分が居たことに驚く自分がいた。
そうでした、僕は今日から「坂月」(サカヅキ)だ。
「坂月」とかかれたその席は、真面目な僕にはあつらえ向きの、中央前より。
最前列ではないもの2列目という微妙な場所だ。
小学校・中学校と居眠りなどはしなかった僕だが、中央の席というのはいささか緊張するものだ。
ただでさえ何かと緊張する「初対面の儀式」に、僕はどのように振舞うか悩んでいた。
その時、後ろから不意に呼ばれたのだ。
「ツッキー?」
僕のあだ名は、幼少期からあまり変わらない。
「津和野太槻」だろうが「坂月太槻」だろうが同じだった。
ただ一人、ツワッキーと呼ぼうとしていた男が居たが、シックリ来なかったので丁重に頼んで止めて頂いた記憶がある。
今呼ばれたそれは、慣れ親しんだ、僕のあだ名そのものだった。
驚いて振り返ると、長身の、これまたチャラそうだが、正直お近づきになりたいタイプに見えない、はっきり言ってしまえば喧嘩っぱやそうな上に絶対に喧嘩を仕掛けてきそうな男が一人、あからさまに驚いた表情でこちらを見ていた。正直コイツがコンビニの前でしゃがみ込んでいたら、絶対に目を合わせることなく足早に素通りしたことだろう。
その、あまり関わりたくない外見の男は、座席表が書かれているだろうスマホを片手に、僕をじっと見つめていた。
僕はなるべく怪しまれないような、相手に不快感を与えない程度のギリギリの作り笑顔で答える。
「ごめんなさい、どなた様ですか?」
「いや、その…」
その、いわゆる見た雰囲気まんま古い「ワル」のテンプレートみたいな男は、何故か目を伏せて言いよどんだ。バツが悪そうな、申し訳なさそうな顔を僕に見せた。
雨の中で子猫でも見つけたような、そんな顔だ。
まさか同情!?
とはいえ、僕はこの男を、過去の出会いの記憶の中から照合しようとしたが、なかなか当てはまらない。
そして男は、更に僕との距離を縮めてきた。胸倉でも掴まれたなら逃げられない距離だ。というか近過ぎる。
「ツワッキーじゃ…ないんだな…」
男は小声でそういうと、視線を落とし、静かに一番後ろの席へ戻っていった。
その時、僕の記憶の中のパーツが、どこからともなく現れ、ピタリと当てはまった。
僕をツワッキーと呼んだ男は過去一人だけ。それこそ幼稚園のお友達と呼ばれる中の一人しかいない。
それが余りに恰好悪いので止めてくれと懇願したあだ名。あだ名以外にもアイツにはとにかく不思議な二つ名を付けられていた気がする。
本当にそれが趣味であるかのように、僕以外でも様々なあだ名と二つ名を生み出していたような、そんな奴だ。
そして最後に落ち着いたのは、僕がそのままずっと付き合う事となる呼び名だったのだが。
僕は手元の座席表を見直す。
その席には「雑賀」と表示されていた。
あの男が座った席に書かれていたその文字が示すもの、それは、あの見た目そのまま番長が、かつて僕の友達だった男、「雑賀孫一」(サイカマゴイチ)だったということだ。
雑賀孫一。
雑賀家の一番目の孫ということで、当時それはそれは頑固爺として有名だった御祖父様が付けた名前だと聞いていた。
幼稚園時代は何をするでもとにかく女の子にモテモテで、白浜が丘幼稚園の王子様と呼ばれていたが、本人はあまり喜んでいなかった気がする。
毎日のように一緒に遊び、小学校も一緒だったのだが、ある時、孫一は引っ越してしまい、疎遠になったところで、どこかで聞いた名前だなと中学時代に思い返すことになった男だ。
歴史上の人物に、居たんだな、と。
しかし、当時の雰囲気を延長するも、拡大するも、自由変形したところで今の見た目には程遠い。正直なところ、当時の印象すらぼやけていて、照合どころではなかった。
髪型も髪の毛の色が違うことも、勿論年齢や身長が違うこともあるのだろうけども…当時は本当にキラキラ王子という比喩が似合う印象だったが、今の見た目は、控えめに言って「初見で番長」だ。
ほとんど両目が見えない位の長い前髪を横に流した髪型で、マッシュショートとでもいうのだろうか、抑えめのシルエットにまとめていた。髪色は明るめのトーンで整えてあったが、これが金髪学ランだったら、僕は絶対に逃げていただろう。
後ろを振り向いて確認したいという気持ちより、ここで再開した旧友の存在を思い出すことに僕は必至になっていた。
僕の過去を知る男と同じクラス、というのは、なかなかどうして、多少の緊張感を産むものだ。
そのあと、担任の教師が入って来て、いわゆるホームルームが始まった。
そんな時間になってもクラスの席は全部が埋まった訳ではなく、何人かは欠席しているようだった。
担任は女性だったようだが、僕は完全に上の空で、その名前も顔すら覚えられなかった。
僕たちは仲が良かったんだろう。
控えめに言っても、それは事実だったように思う。
少なくとも僕たちは近所同士で、ほぼ毎日のように顔を合わせ、お互いの家で遊んだりしていたはずだった。
記憶は走馬灯のようには流れず、出会いのあの瞬間からの記憶を1枚ずつゆっくりと、スライドをめくるかのように辿っていた。
幼馴染。間違いなく僕らはそういう関係だったと思うのだが。
しかし…白浜が丘幼稚園のプリンスとも呼ばれていた男が、初見番長になるとは、孫一の人生に一体何があったのだろうか。
そんなことを考えているうちに、いつしか、昼休みのチャイムが鳴り響いていた。
僕は意を決して振り向いた。
孫一は、恐らく、僕を覚えていて声を掛けてくれたのだろう。
だが、どうやら名前の違うその席に僕が座ったことに気付き、僕の苗字が変わったことを知り、独り申し訳ない気持ちになっていたんではないだろうか。
振り向いた時には、既に彼は一人、教室を出ようとしていた。
僕はそんな彼の背中に声を掛けることが出来ず、そのまま孫一を見送ってしまった。
「坂月君」
不意に名前を呼ばれ、咄嗟に振り返る。
ゴツッ。
ギャグ漫画のようなシチュエーションで、僕とその子はお互いの額を勢い良くぶつけた。
それは明らかに骨と骨がかち合った、低く鈍い音だった。
「‥‥!!!!」
余りの痛さにうめき声すら出ない僕に、その女子は慌てふためいた。
「ゴメン!ゴメン!ごめんなさい!痛かったよね??怪我なかった?」
少し赤くなったおでこに構うことなく、両手を合わせ頭を下げる僕の隣の席の女子。
「いや…大丈夫…ちょっと不意を突かれただけで…」
僕は苦し紛れに返事をした。
実際、とんでもなく痛いのだが。
「ゴメンね!私よく石頭って言われてるから、多分、ホントに痛いよね!ごめんなさい!」
石頭なら仕方ないよね…ってどういうシチュエーションなんだ、これは。
「あ!ゴメン!私、磐城円。今日から隣の席、宜しくね!挨拶しようと思ってたらタイミング悪くなっちゃって、ごめんなさい!」
「あ、えっと、太槻です。坂月太槻。」
まだ痛む額に手を添え、僕も社交辞令とばかりに挨拶を返す。
「すごいね!早口言葉みたいだ!」
屈託のない笑顔を見せる磐城さんには、多分悪気はないのだろう。
肩のラインで綺麗に揃えられた少し明るめの、左側半分を流して横で束ねた髪。眉毛の下で自然に揃えられた前髪。
少し幼ささえ感じるそんな髪型に、好奇心丸出しの大きな目。
素直そうな、というか、騙されやすそうな純真さを丸出しにしている印象を受けた。
「ごめんなさい、大切な名前なのに、勝手な事言っちゃって!」
慌ててまた深々と頭を下げる磐城さん。
「私のことは、円でいいよ!これから宜しくお願いします。」
と、これまた深々と頭を下げた。
「僕も太槻でいいよ。宜しく、磐城円さん。」
僕も社交辞令のそれに習い、深々と頭を下げた。実際、まだ痛む額をごまかしたいところもあったが。
顔を上げると、磐城女史はそのまま深々と頭を下げていたので正直驚いたが、それも束の間、ひょいっと頭を上げると笑顔で答えた。
「じゃまた授業で!」
そういうと、磐城円は、同じように周りの男子女子に構わず声をかけ、挨拶していた。
既に昼休みの前にも挨拶は済ませていたのだろう、数人に声掛けをした後、そのまま女子数名と教室を出て行った。
恐らく連れ立って食堂へ向かうのだろう。
額の痛みですっかり何を考えて居たのか忘れかけていたが、そこに当然、孫一の姿はそこにはもうなく。
仕方なく僕は、立ち上がり、売店へ向かうことにした。
正直、今は一人になりたい。
決して大勢やクラスが苦手と言う訳ではないが、知らない人間と話すのはとんでもなく労力を使うし、また、昔のことを思い出すということは僕にとっては物凄くパワーがいることなのだ。
早くこの学校で、一人になれるスポットを見つけなければ、と、普通科とそれ以外の科を繋ぐ校舎の渡り廊下、その2階にあるという売店をまずは目指した。
今日は普通科の学生のみが登校しているということで、売店も混んでないだろうと踏んでいたが、それは僕の計算違いだった。見積もりが甘かった。
人だかりが酷い。
この学校には充実したメニューとアレンジが自慢の学生食堂があるということもあり、そちらの利用者が多いとパンフレットにも書いてあったはずなのだが…。
何か食べる物を買う前に、昼休み時間切れになるんじゃないだろうか。
かと言ってあの人ごみに並ぶ元気のない僕は、呆然と後ろからその人だかりを眺めていた。
「あ…その、ツッキー。」
これまた不意に僕を後ろから呼ぶ、小さく低く響く男の声。
その声の主は明らかだったのだが、僕はゆっくりと、先程の教訓を活かして、ゆっくりと身体を一歩前に出してから振り返る。
「孫一?」
確証が取れていないその存在と思しき名前を僕は口にする。
初見番長は少し照れ臭そうに、笑顔を見せた。
「ちょっと、いいか?」
何も知らない第三者から見たら、分かりやすい不良に絡まれ連れ去られる、哀れな真面目眼鏡の僕の絵であったろう。
僕は、孫一の案内するままに後を付いていった。
あの人だかりに飛び込むくらいなら、昼ご飯を抜いた方がまだましというものだ。
孫一は僕を屋上へ連れ出した。
他の誰かが居ないか、ドアが開いた刹那、僕は自然と辺りを見回した。
いくら久方ぶりに再開した幼馴染という肩書の間柄とは言え、初見番長の孫一と居るかもしれないそのお仲間に囲まれるのはゴメンだった。
それに未だ不思議と、当時の記憶と現実が重ならない。
「ここは校長室と職員室を通らないと来れない屋上だから、穴場なんだよ。」
孫一はそう言う。
なるほど、確かに校舎と校舎を繋ぐ場所でありながら、時計塔の影でもあり、半端なその屋上は特に絶景でもなく、ましてその通り道が一つ難関なこともあるのか、そこは本当に静かで誰も居なかった。
「先に言っておくけど、僕を脅しても何も出てこないぞ。」
そう言うと孫一は、真剣な表情を維持できなくなったのか突如噴出した。
「あはああああハハハハハ!何?やっぱりツッキーにも俺はそう見える訳?流石にちょっと傷付くわぁ!あははははハハ!」
このガタイの良さそうな見た目の圧が凄い少年が本当に傷付いたかどうかは定かではなかったが、愉快そうに笑っていた。
孫一はひとしきり笑った後、警戒を解かない僕に、紙袋を突き出した。
「ほら。ツッキー、どうせ売店で昼買おうと思ってたんだろ?」
「え?」
僕の胸に押し付けられた紙袋を受け取り、中を開くと、そこにはカツサンドとコーヒー牛乳が入っていた。
「孫一、これ…」
「あの人混みに負ける前に買っといた。あ、言っとくけど、カツアゲとかしてないからな。カツサンドだけに。」
「あ、あぁ、そう…。」
ギャグだった。
だが、自分が見た目番長なのは自覚があるらしかった。
「ちょっとツッキー、そっちのが俺傷付くよ??渾身のギャグなんだからさ?それこそ5年振りの!もっと笑ってくれていいんじゃないの??」
あぁ、そうなのか。
コイツは僕の知ってる、いや、間違いなく僕が知っていた男だったのだ。
「ははっ。構えて損したよ。何だ、やっぱり孫一だったんだ。」
「おう。久しぶり、ツッキー。」
白浜が丘幼稚園のキラキラプリンス、皆の憧れの王子様は、とにかく皆を笑わせる努力をする男だったように思える。天才だったかは別として。
ただ、当時の彼は、そう、王子様と呼ばれてもあまり喜んでいなかった気がするのだけども。
僕たちは、屋上の、あまり目立たない位置にそのまま横並びで座った。
カツサンドとコーヒー牛乳のお代を支払おうとしたら、案の定、真剣に断られた。
「俺が勝手にやった勤行で、お金をもらう訳には行かないっての。」
今日日、ご近所のお寺の方ですら勤行などと言う言葉は使わない気がするのだが、孫一は、この言葉がやたらカッコイイと思っているらしく、兎に角使っているようだった。
修行だったり毎日の御勤めだったり、一日一善と言う事らしい。そしてそんな彼は、仏教徒ではないし、実家もお寺と言う訳でもなかった。
「ヒーローっぽいじゃん!」
孫一は屈託なく笑う。そう、彼は、ずっと本物のヒーローに憧れていた少年だった。
そして僕は、その孫一の勤行の一つとなった、売店のカツサンドを頬張る。
「おい、孫一。」
「何だよ、ツッキー。」
「このカツサンド、美味しいな…。」
「だろ?決して揚げたてではないはずなのに冷えてもべた付かない衣、ソースと隠し味の辛子&マスタード。オリジナルに走り過ぎない所が返って味があるというか、むしろそこにこそオリジナル魂を感じる逸品だと思わねぇ?」
「…お、おう…。」
孫一のカツサンドの説明は的を射ていたが、コイツ、こんな奴だったっけか。
しいて言うならば、そのカツ本体の肉に、多分ロースなんだろうけど、その脂が、口の中で噛み切った時、くどさを残さず適度にソースと混ざる所が絶妙だと僕は思うんだけども。
「俺は始業式後に何度か補修で来てたからな。売店の人気とラインナップは把握してるのさ。」
「補修!?」
危なく軽く聞き流しそうになったが、始業式後に補修とは、そもそもテストさえ始まってないのに補修とはどういうことなんだ。
「俺、見た目こんなだから、念のためって感じなのかね?補修っていっても、面談ばっかりで、あとは学校案内だけだったんだけど。今思うと何だったんだろな!」
孫一がこの場所を知ってたことも何となくそれで腑に落ちた。
勿論、売店の売れ筋ラインナップも気になる所ではあったが、何より、僕たちが話をしなければならないことは山ほどあるのだ。
そう、忘れる前に。大事なことを聞かなくてはいけなかった。
「孫一、その見た目どうした。」
間違えた。
最初の質問はこれではなかった筈だったが、どうしても聞かずには前に進めなかった。
「あ、ああ、その、ヒーローは強くなきゃダメだろ?」
「うん。」
「正直俺もどうしていいか分からなくてさ。」
見た目の話をしているんだよな、僕たち。
「美容院へ行こうとしたんだけど、どうにも緊張しちゃって。」
「それはちょっと分かるな。」
僕にとっても濡れ鼠状態の自分を正面から鏡で見るというものは、なかなかどうして、あまり気分の良いものでは無かった。
「サングラスを掛けていったんだよ。」
ほうほう、なるほど。
「そしたらなんか、こうなっちゃって、でも、何か似合うからいいかな、みたいな?」
お前の間違いはそこだ、孫一。
「みたいな?じゃないだろ、それは。事故だろ。」
「いやでも流石に、金髪は高校生らしくないから断った!」
「当たり前だ!」
僕と孫一は、幼稚園と小学校の半分、確かそれくらいまで一緒の幼馴染だった。
こんなやり取りも、違和感なくやっているところを見ると、恐らく、僕たちは昔からこうだったのだろうと、あの頃を思い出していた。
しかし、孫一。
もしかして「高校生のヒーローは番長だよな!」とか勘違いしてるんじゃないだろうな?
「じゃぁ、その前髪はどうしたんだよ。そんなに長かったら怖いし、第一、前見えないだろう。」
目が見えるか見えないかの長さの前髪を、横に流したスタイル。それが一層のこと初見番長らしさを醸し出している。
いや、もしかしたら孫一は、僕が知っているあの頃から、前髪を伸ばしていたのかもしれない。
「あぁ…見えない方がミステリアスだろ?」
孫一は、真顔でそう答えた。真顔で。
ミステリアスと。
意味が分かって使っているのかはどうにも怪しかった。
と言うか、ヒーローってミステリアス要素必要なのか?
僕と孫一のヒーロー感というのはどうにも違いがあるように思えてならない。
「それよりさ、ツッキー。」
カツサンドの頬張り切った僕は、コーヒー牛乳に手を出した。
「結婚したの?」
ミステリアスで何とか耐えていた僕の笑いの琴線は、見事に切れた。決壊した。
コーヒー牛乳を勢いよく噴出したのは、言うまでもない。
「違うよ!よく考えろよ!」
「ごめん、ツッキー。俺、割とマジだった…。」
私立縁ヶ淵高等学校の普通科、大丈夫か。学力的な意味ではなく、常識的な意味でこの学校は大丈夫なのだろうか不安になった。
「親が…親が離婚したんだよ。」
「そうか。」
孫一は、捨てられた子犬のような表情を浮かべた。本当にコイツは、分かりやすい奴なのだ。
今のこの見た目に反して、根は、誰彼構わず放っておけない優しい王子様のままのようだった。
「ゴメン、ツッキー。ショックだよな、そんなの。」
「いや、ショックとかは何もないんだ。ただ、名字が変わったのは、まだ慣れないけどね。」
「そっか…お前もいろいろあったんだな。」
お前も、と孫一は言った。
そう、僕が聞かなければならない話は、そこだった。何故、小学校の途中で孫一は消えてしまったのか。
そして、その見た目番長の本当の意味を、何故か僕は、知らなければならない気がしていた。
昼休み、その終わりを告げるチャイムが鳴る。
噴出したコーヒー牛乳のシミは誰が掃除してくれるのか不安になったが、僕たちは二人、その場を後にした。
まだ話したりない事もあったが、僕には状況整理の時間が必要だった。
初夏の空は雲一つなく、蒸し暑い風はゆっくりと噴き上げてくる。
その屋上のドアを閉めて、僕たちは、1年A組へと戻って行った。
予鈴の後の教室は、初日と言う事もあってかほとんどのクラスメートが席についており、僕たちは何だか、悪目立ちする形で席に着いた。
ドアが開いた瞬間、一斉に視線を感じたが、全員がすぐにその目を反らした。
流石見た目番長である。初見の悪印象が半端ない。
何人かは僕に憐憫の眼差しを向けていたが、それは誤解だと言いたかった。
だが、今の僕にはその体力と気力がなかった。
そのままため息をついて席に着くが、その行動は、更に知らない人たちの妄想を掻き立ててしまったようだった。
すまん、孫一。
席に座る僕と入れ替わるように、ガタッと勢いよく立ち上がり、孫一の方へ向かう女子生徒が居た。
失敗した。誤解第一号は磐城さんだ。
これも勝手な思い込みかもしれないが、きっと彼女は、曲がったこととかそういうことが許せないタイプなのだろう。
その磐城さんが、孫一へ向かってその歩みを速めたのだ。
「初めまして!」
大音量の棒読みの挨拶に教室は固まった。
磐城円が、初見番長に戦いを挑んだその時、周囲は固唾を飲んで二人に集中した。
「ホントはもっと早く挨拶したかったんだけど、雑賀君、こう、隙がなかったから今挨拶してみました!磐城円です!!」
何のことはない、ただの自己紹介の挨拶だった。
ただの、という意味では失礼なほどの覚悟があったのか、彼女はそれはもう勢いよく頭を下げた。
危なくその額に机の角が当たるかと思いきや、孫一は、その瞬間に足で机をどけ、彼女の額を軽く片手で受け止めた。
流石プリンス、いや、ヒーロー志望。抜け目がない。
「初めまして!!俺は、雑賀!孫一です!宜しくお願いします!」
彼女と同じ、大音量の棒読みボイスで、大きく左手を挙げて孫一は答えた。
その瞬間、耐えきれなかった空気が少し弾けた。
彼女に恥をかかせまいとしたのかどうかは分からないが、孫一らしいやり方だ。
「わああ!ゴメン!ごめんなさい!頭!」
孫一はさっと手を引いて、笑った。
「ぶつけなくて良かったね。机が割れるとこだった。」
孫一はおそらく、彼自身きっと鏡をみて仕上げて来ただろう笑顔を、キラキラと音が出そうなその笑顔を磐城さんへ見せた。
そう言えば、昔、誰かにヒーローには笑顔が必須だと言う話を聴いた気がしてきた。
「うん、ホントだよ!ゴメンね、気を遣わせちゃって。」
孫一の渾身のギャグと微笑みは気持ちよくスルーされ、何故か真面目に受け取られていた。
この磐城円という女子、もしかすると所謂、天然系女子なのかもしれない。
天然系と言う言葉はあまりに便利過ぎて使いやすいのだが、ようは、ちょっとズレている、と言う雰囲気だった。
だが二人のやり取りは、周りには受けが良かったらしく、緊張に耐えかねていたクラスの空気を少し和ませた。
「雑賀君ヒドイよー!女の子が頭突きで机割るとかどんだけー?」
「円も、ちゃんと見てから勢いつけなよー。」
既に磐城さんと仲良くなったであろう女子たちが声を上げてからかっていた。
オンラインで若干顔を合わせて居たと可能性もあるとして、ほぼ初対面のこの初日に、既に何らかの一体感や和んだ空気が滲み出していたのは、この磐城円の努力のお陰なのかもしれないと、僕は素直に思った。
そしてそんな、絵に描いたような柔かな笑いの中、本鈴のチャイムが鳴る。
「じゃ、雑賀君、またね!」
磐城さんは慌てて自分の席に戻った。
そして、その隣の席。
「瓦なら15枚まで行けるけど、流石に机は無理かなぁ。」
と小声で呟いた。
磐城円は、額で瓦を割れる女子だった。
照れ臭そうに半分前髪に隠れたおでこを撫でながら、僕の方へ向き直る。
「雑賀君、悪い人じゃなくて良かったよ。」
と、小声でこう続けたのだ。
人は見掛けに寄らないという事を、僕は初登校の今日、改めて学んだのだった。
兎にも角にも、僕にとっては初日からハードな学校生活だった。
思っていた以上に情報量が多く、記憶も混濁としていて、気分が悪かった。
明日はオンラインでの授業だから、きっと、もう少し、そう、もう少し緩やかな1日になる…そうなると。
漢字の後に()書きで自動でルビになるとか最高です。
ありがとうございますありがとうございます。
続きます。