72 術者見習い
無事に過去の記憶を取り戻し、月天との関係も上手く進み始め今まで心にずっとかかっていた靄が晴れたような気持ちになっていた。
昨日は記憶を取り戻し、その後月光花の間で月天から自分がいない間に起きたこの幽世での出来事を教えれもらった。
自分がいない百年ちょっとの間に鬼や妖猫、妖狐の当主が変わり、紫苑がいた頃から変わらないのは獅子、天狗、蛇の御三家だけらしい。
元々御三家は妖怪というよりも性質が神獣に近い者が多いため寿命も長くそう頻繁に当主は変わったりしない。
そもそも、現在は以前よりも各里同士の交流は減っていると言っていたので紫苑が他所の里の者と会うことはほとんどないだろう。
月天から教えてもらったことを頭の中で整理していると、黄金が部屋に入ってくる。
「紫苑様、本日よりお部屋を別の部屋へと変えさせていただきます。こちらの月光花の間は当主の婚約者のための部屋ですので、このまま使うことができないのです」
「そうなんですね、わかりました。案内お願いできますか?」
「紫苑様、私には気を使わず昨日のように気楽にお話しください」
昨日は記憶が戻ったばかりで、幼い頃の自分と今の自分が混ざり合って態度も幼い振る舞いをしてしまったりとちぐはぐなものになってしまったのだ。
紫苑は黄金に苦笑いを返すと黄金の後に続いて月光花の間を後にする。
この月光花の間に連れて来られた時はこんな風になるなんて想像もしなかったが、全ての記憶が戻った今はずっと感じていた人里での疎外感や幽世に来てからの不思議と馴染む感覚が間違ったものではなかったと理解する。
「紫苑様の新しいお部屋は、今までお使いいただいていた部屋と同じ階になっておりますのであまり不便はないかと思います」
「この階にはどれくらい部屋があるんですか?」
「そうですね、大きなお部屋は月天様の自室と月光花の間、それに曼珠沙華の間ぐらいでしょうか」
「意外と少ないんですね」
いつも歩いている廊下には無数の扉や障子が並んでいるのを目にするのでもっとたくさん部屋や儀式などに使用する場所があるのかと思っていた。
「月天様の気分次第でお部屋は増えたり減ったりしますので、こちらの階は少し特別ですね」
「ここに来てから何度か聞きましたが、月天様がこの夢幻楼や曼珠の園を好きに動かしている術ってどんなものか知ってますか?」
「私も詳しくは存じませんが、昔一度尋ねた時は箱の中に好きなものを好きなように詰め込んでいるだけだ。とおっしゃっていました。月天様のような尊きお方のすることは私たちのような下々の者の考えが至るところではないのだと改めて実感しました」
「箱に詰め込むか……」
紫苑が思い当たりそうな術を考えていると新しい部屋に着いたらしく、黄金が戸を開けて中へと入れてくれる。
案内された部屋は月光花の間と比べるととても小さな部屋で紫苑一人が過ごすには丁度良い感じた。
月光花の間は広さもそうだが、置かれている家具や調度品もどれも高級そうなものばかりで人里で質素に暮らしていた紫苑にとってはどうも居心地が悪かった。
黄金が部屋の中を案内してくれると、すでに一通り必要なものは移動してくれていたらしくこれならしばらくは大丈夫そうだ。
「これから普段着ていただく着物になりますが、月天様付きの術者の方々は白と青の水干をお召しになっておりますが紫苑様は見習いと言うことでこちらをお使いください」
黄金に手渡されたのは緋色の袴に白い小袖のいわゆる巫女装束に近いものだった。
「今まで女性で当主の側付き術者になった者がおりませんので、こちらは月天様が新しく用意したものになります。こちらを着ていれば妖狐一族の者はすぐに立場が分かりますので御身を不要な争い事からお守りできるでしょう」
黄金に渡された服を受け取り、慣れた手つきで着替えていく。
黄金はその間に夢幻楼の滞在中に気をつけるべき注意事項を紙に書いてくれたらしく、机の上に数枚紙が置かれていた。
「本日より紫苑様は月天様付きの術者見習いということになりますので、侍女達もお付きすることができません。何か困ったことがあれば直接月天様や指導術者の方にご相談ください」
ここに来てから何かとお世話をしてくれた黄金に会えなくなると思うと心細い気持ちにもなるが、自分で決めたことなのだからしっかりしなきゃ!と自分に喝を入れる。
「今までありがとうございました。もし姿を見かけた時は話しかけても大丈夫ですか?」
黄金は大きく瞳を見開くとすぐに目を細め嬉しそうに頷く。
「では、後少しでこちらに迎えの者が来ますのでそれまでお待ちください」
黄金はそう言って深々と礼をすると紫苑の部屋を出て行った。
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