【エアハルト視点】約束をしよう(後編)
なぜ、こんな事になったのだろうか。
騎士団本部での作戦会議が終わり、彼女が団長の車椅子を押して宮殿へ向かった後、王宮の上空を翼竜の群れが飛んでいたと報告が入った。
心配して王宮内を探し回っていたら、礼拝堂の中で声がした。
彼女の声だ。
入ってみると、彼女はソフィアに向かい、高らかに宣言していた。
「わたしには他に好きな殿方がいるのよ! だからエアハルト様には、わたしとの婚約は破棄していただきます!!」
…いやちょっと待て。
さっき馬車でここに来る時、「わたしを迎えてください」と言ったのは彼女の口ではなかっただろうか。
だが今更そんな事を言ってどうなる。
あんなにはっきりと、他に好きな男がいる、と公言したばかりの女に?
彼女は自分との未来など少しも望んではいなかった。
その事実に窒息しそうになる。
自分のものではないような声で、俺は言った。
「…ならば望み通り、お前との婚約を破棄する」
結局のところ、彼女は俺よりもカイを選んだのだ。
勤務中はひたすら仕事に没頭し、それが終わればひたすら酒を飲んだ。
何も考えたくなかった。
考えれば、身を切られるように辛い事実に向き合わざるを得ない。
彼女は去った、という事実に。
〇〇〇〇〇
数日後、彼女が屋敷を訪れたと母が告げに来た。
俺は即座に言った。
「会うつもりはありません」
「いいえ、会って話を聞きなさい」
母上は毅然と命じた。
この屋敷の当主は母上だ。
だが、こんな時にまで従う義理はない。
「彼女は俺との婚約を破棄したんです。用があるなら当主のあなたが聞けばいいでしょう」
「婚約は破棄していません」
「…は?」
母上は堂々と言い放った。
「こんな事もあろうかと、婚約解消の手続きはわたくしの手元で止めてあります」
「な、何を勝手に…!」
「お黙りなさい。復讐に囚われて他の事など何も見ようとしなかったあなたが、あの子に対してだけは別でした。しかもあの子はよく食べるし、骨盤もしっかりしていて安産型です。そんな貴重な婚約者を、この母がみすみす逃すはずがないでしょう!」
一方的にずけずけと言われ腹が立った俺は、この数年来言えなかった言葉を吐き出した。
「お言葉ですが、そういう母上こそいつまで喪に服せば気が済むんですか。いい加減、その喪服を着替えたらどうです」
「まあ、あなたにそんな事を言われるとは心外です。お父様の公爵の位も継がず、王立騎士団に入って魔獣退治だなんだとろくに屋敷にも帰ってこない人間に、わたくしの服装についてとやかく言われたくありません。ともかく、これは当主としての命令です。リーゼロッテに会い、あわよくば復縁するのです!!」
無茶苦茶な事を命じられる。
母の号令と共に、執事と侍女達が総出でなだれ込んで酒瓶だらけのこの部屋を片付け、換気と掃除をして出て行った。
手元の小さな酒瓶も回収されそうになったが、それだけは死守した。
素面で正気を保てる気がしない。
そして彼女が部屋に入ってきた。
予知魔法の話が嘘だった事。
母の友人でもあったフェリシテ様の幽霊が、彼女に魔獣の出現を告げていた事。
ソフィアがシャルロット王女である事。
アンヌという女官を目の前で殺され、口外すれば俺も殺すとケリー男爵に脅されていた事。
そうした事情を説明してから、彼女は俺に言った。
「…今まで、あなたの婚約者でいられて幸せでした。優しくしてくださって、ありがとうございました」
事情は理解した。
彼女の言葉で、怒りもあらかた消え失せた。
とっくに許していたのにそのまま部屋を出たのは、酒が入っていたからだ。
彼女に近寄れば、自分が何をするかわからなかった。
彼女に対して一種の飢餓状態のようになっていた俺に、とても理性を保てる自信はなかった。
俺の元へ戻ってきた愛らしい小鳥を、酒の勢いでどうこうしてしまえる訳がない。
部屋を出るとぎょっとした。
廊下で母と使用人達が揃って壁際に並び、今の話に聞き耳を立てていたからだ。
俺は足音も荒くその横を通り過ぎた。
悲しげな彼女の顔が目に焼き付いていたから、この後は母がフォローするのだろうと思うと、内心ほっとしていた。
翌日、王宮に向かう馬車の中で、彼女に気になっていた事を尋ねた。
「…幽霊が見えるのなら、俺の父も見えるのか?」
彼女は申し訳なさそうに首を振り、それからこう付け加えた。
「エアハルト様のお父様は、もう天上へ行かれ、そこで安らかに過ごされているのではないでしょうか? あなたやご家族を立派に翼竜からお守りになって、安心して旅立たれたのでは?」
安心して、旅立った…?
そんな風に思った事は、これまで一度もなかった。
ずっと、俺達を逃がしてあの巨大な翼竜に立ち向かった父の後ろ姿が、悲愴なものとして記憶に刻みつけられていたから。
だが彼女の言う通り、父は自分の使命を果たし、満足して天に還ったのだとしたら?
ありそうな事だ。
父は高潔な騎士だった。
戦って死んだ以上、いつまでも自分の死を嘆いて地上に留まっているはずがない。
あの父が、俺に復讐を望むはずがない。
悲愴なのは父ではなく、最愛の父を亡くした俺の方だった。
彼女が、それに気づかせてくれた。
幽霊の話を信じると言ったら、彼女は泣き出した。
ずっと誰にも言えず、不安を抱えていたんだろう。
俺は彼女の隣に座って、黒い頭を抱き寄せた。
こんなに強く、誰かを守りたいと思ったのは初めてだった。
こんなに強く、誰かを愛おしいと感じたのも。
〇〇〇〇〇
騎士団本部に着くと、そこは混乱の渦中にあった。
魔獣が大挙して王宮に押し寄せたのだ。
騎士団として想定していた中でも最悪のシナリオだったが、フェリシテ様を味方につけている彼女は強かった。
魔獣に包囲された俺達を、王族専用の隠し通路を使い、いともたやすく王の離れへと導いたのだから。
そして、あの翼竜が現れた。
一瞬、頭に血が昇る。
だがイェルクがその場を引き受けてくれた。
馬車での彼女のあの言葉がなかったなら、俺に復讐を捨てる事など一生出来なかっただろう。
螺旋階段を上って王の部屋へ行き、ケリー男爵と対峙する。
魔獣を自在に操る男爵には苦戦を強いられた。
だが、彼女はそんな次元を軽々と飛び越えてきた。
助けを呼びに行った彼女は、みずからの体に、稀代の魔導士フェリシテ様を宿して戻ってきた。
そして、ソフィアの魔力をも解放して、二人で王国中に結界魔法を張るという前代未聞の離れ業をやってのけたのだ。
〇〇〇〇〇
彼女の体に宿ったフェリシテ様は、ヨハン王にシャルロット王女の事を託すと、眠るようにその場に崩れ落ちた。
それが目に入った瞬間、俺は駆け出していた。
足の傷の事など忘れていた。
彼女を支えたいと、ただそれだけを考えていた。
「ロッテ…大丈夫か? 目を開けてくれ…ロッテ、ロッテ!」
体が床にぶつかる寸前に抱き止めて、繰り返し名前を呼ぶ。
彼女は呼吸をしていなかった。
父が死んだ時の、あの手のひらから砂がこぼれ落ちるような無力感に襲われる。
王国中に結界を張った彼女は、まるで女神のようだった。
だが、女神は地上に留まる事はない。
そんな大層なものでなくてよかった。
ただ俺の側で、また笑ってほしかった。
「ロッテ」
祈るように呼ぶと、彼女の目が開いた。
「…エアハルト様」
優しい黒の瞳が、俺を映す。
その瞬間、この瞳でずっと俺を見ていてほしいと思った。
いつも俺の側にいてほしい。
彼女と共に生きていきたいと、強く願った。
俺は彼女の手を握って言った。
「ロッテ…もう一度、俺と婚約してくれないか?」
「え…?」
彼女の目が大きく見開かれる。
「で、でも…一度婚約破棄したのに…いいのですか…?」
「婚約破棄はまだしていない。俺の母上が握り潰していたんだ」
「マルゴット様が?」
「ああ」
彼女は驚きながらも、心底安堵した、といった表情を浮かべた。
俺もこの時ばかりは母の強権に感謝した。
握った手を引き寄せ、彼女を見つめる。
「今度は親同士の取り決めではなく…俺とお前とで、結婚の約束をしよう」
彼女の頬が赤く染まり、黒い瞳がきらめいた。
「…はい! ええ! ぜひ! どうかお願いいたします!!」
ずいぶんと熱のこもった返事をくれた彼女を――何よりも愛おしい婚約者を、俺は強く抱きしめた。




