43.泣いてる場合じゃない
※流血描写があります
絶望が、足元から這い上ってくるようだった。
まるでその匂いを嗅ぎつけたかのように、翼竜がこちらを見る。
目が合った。
わたしという獲物を視界に捉えたまま、翼竜は、翼を広げてゆっくりと羽ばたきを始めた。
――来る!
恐怖が胃からせり上がってくる。
早くここを離れて、助けを呼びに行かないと!!
だけど、どこへ行けばいい?
階下へ通じる唯一の螺旋階段は魔獣達から丸見えだし、もし運良く屋外へ出られたとしても、そこにも魔獣がうようよしているはずだ。
さっき通ってきた地下通路の扉はソフィアにしか開けられないから、騎士団本部まで戻って助けを呼ぶ事は出来ない。
イェルクさん達は、むしろ彼ら自身に今すぐ救援が必要な状態だ。
早くしないとソフィアの結界魔法が解けてしまう。
そうなれば、ソフィアもヨハン王もエアハルト様もイェルクさん達も、みんな殺されてしまう。
ぞっとした。
わたしがここで判断ミスをすれば、実際にそうなるんだ。
翼竜が高度を上げ、ゆっくりとシャンデリアの落ちた天井付近を旋回した。
目はわたしを捉えている。
螺旋階段から続く2階のこの廊下は、壁からせり出すような感じで1階の大ホールに面している。
だけど、全体が頑丈な背の高い柵に囲まれていた。
あの翼竜は大き過ぎて、壁と柵に挟まれた場所にいるわたしには手を出せないから、今は様子を窺っているんだろう。
もちろんあの翼竜が本気を出せば、体当たりしてすぐにこんな柵は壊せるんだろうけど!
2階には2部屋しかない。
1つは王の部屋。
もう1つは、廊下の奥にあるきれいなカラータイルの貼られた扉。
たぶん、あの奥の扉は――トイレだと思う!
ここの王宮のトイレって、ああいったきれいな装飾がされているのが多いから。
トイレには、応援を頼めそうな人なんてきっと誰もいない。
それなら、王の部屋に引き返して、わたしがケリー男爵を――殺す?
エアハルト様の剣を借りて――。
人を殺す、と想像しただけで、ぞわりと背筋が震える。
でも男爵を殺したところで、魔獣達が消え去ってくれる保証はない。
今は男爵の指揮下にある魔獣達が、男爵の死によって暴走し見境なくわたし達を襲い出したら、結局はみんな死んでしまう。
――どうしたらいいんだろう。
心細さに涙がこぼれそうになるのを、歯を食いしばってぐっとこらえる。
泣いてる場合じゃない。
どうにかして、わたしがみんなを助けるんだ。
わたしを信じてくれたみんなを。
わたしの大事な人達を。
絶対に、死なせたりしない!!
旋回を続ける翼竜に睨まれたまま、わたしはもう一度、ぐるりと周囲の状況を見回した。
なんでもいい、何か、状況を打開するものは――。
「…あ!」
廊下の床に、見慣れないものが落ちていた。
さっきは急いでいたから気がつかなかったけど…。
これ、昔話とかRPGで、王様がよく手に持ってる棒だよね?
上の方に大粒の宝石が嵌まっていて、王冠のような意匠が施されている、とても立派な杖。
確か、王笏――って言うんだっけ。
わたしは身をかがめてそれを拾い。
そして、閃いた。
「…これ、占いに使える…!!」
こんなに立派で由緒ありそうな棒なら――棒って言っちゃって申し訳ないけど――きっと、みんなが助かる道を示してくれるはず!
棒倒し占いは、わたしの唯一の特技だ。
一抹の不安もあるけど、今はそれに賭けるしかない。
翼竜が、耳障りな叫び声を上げた。
思わず全身に鳥肌が立つ。
恐怖を振り払うように、わたしは心を落ち着けてその場に膝をついた。
それから、床に垂直に立てた王笏の上部に両手を重ねて、目を閉じた。
どうか、どうかお願いです。
みんなを助けられる道を、わたしにお示しください――!!!!
全身全霊で祈りを込めて、王笏から手を離した。
ぱたん、とそれが倒れた先は――。
トイレだった。
「…トイレ?」
どう見ても、王笏の上部の王冠部分は、廊下の奥の扉…つまり、トイレを示している。
ドン、と重い音がして、建物に衝撃が走った。
翼竜がついにしびれを切らし、廊下の柵に体当たりを始めたんだ。
頑丈な柵はまだ持ちこたえているけど、何度も体当たりされたら壊れてしまうだろう。
わたしは意を決して奥の扉めがけて走り、その中に飛び込んだ。
もしかしたらトイレの内部は隠し通路になっていて、助けを呼びに行けるんじゃないか、という淡い期待は裏切られた。
そこは、正真正銘のトイレだった。
トイレ以外の何ものでもない。
優雅なフォルムの便器の他には、どこかへ通じてそうな入り口など、どこにも見当たらない。
それに――中には死体があった。
王妃かケリー男爵に始末されたんだろう。
若い女性が床にうつぶせに倒れ、血を吐いて絶命していた。
かわいそうに、ここの女官かな…でも女官にしては、着ているドレスがやたらと豪華なような…?
それにこのドレス、お母様の時代に流行したデザインだよね…?
今はそれどころじゃないはずなのに、なぜか気になって、わたしはその死体の顔を覗き込んだ。
「…ん? えっ…えええっ!!?」
その死体は、フェリシテ様だった。
ず…すいぶんとリアルな死体だけど、十数年前に亡くなった人の死体がそのまま横たわってる訳がない。
これは…幽霊って事だよね?
開いたままの目が、わたしを見る。
吐血で汚れた口が、わたしに言った。
「リーゼロッテ。よく来てくれました」
場違いな位、いつも通りの穏やかな声だ。
「フェ、フェ、フェ、フェリシテ様…これは一体どういう…」
「ここは、昔わたくしが死んだ場所。ここでだけ、わたくしはあなたの体に干渉する事が出来るのです」
「かんしょう…?」
よく意味がわからないけど、やっぱりこれはフェリシテ様の幽霊で、この場所だったら彼女がわたしの体をどうこう出来る、っていう話なのかな?
フェリシテ様は床に倒れたまま、わたしに言った。
「時間がありません。ここに、わたくしと重なるようにして横たわってください」
わたしは、ごくりと唾を飲んだ。
正直、ものすごく怖い。
言われた通りにして、もし無事に済まなかったら…という不安が頭をもたげる。
今までは、フェリシテ様の幽霊とは常に適度な距離を保って接してきたから、そんなに怖いと感じた事はなかった。
フェリシテ様はとても上品で優しい方だし、悪意を感じた事など一度もない。
でも、幽霊である彼女に自分の体を預けるとなると話は別だ。
こんなにリアルな死体で出現されたら、特に。
この世ならざるものに自分の身を委ねるには、大渓谷で吊り橋からバンジージャンプする位の勇気が必要だった。
トイレの外から、翼竜の雄叫びが聞こえた。
そうだ…迷っている暇なんてない!
わたしは、フェリシテ様を信じる。
わたしは、自分の棒倒し占いを信じる――!!
「フェリシテ様…それでは、失礼いたしますわ!」
「ええ、どうぞ」
フェリシテ様の死体に近づき、わたしはまず膝をついて、自分の足を重ねた。
見た目は本物の死体だけど、少しひんやりとしただけで何の物理的抵抗もなく、わたしの膝から下は、すっとフェリシテ様の足元と重なった。
それから少しずつ体を倒して、下半身、腰、胸…と体を重ねていく。
なんだか妙な感覚だった。
フェリシテ様の体はよくできた映像のようにリアルなんだけど肉体の感触はなくて、だけどそこに自分の体を置くと、冷たいような温かいような不思議な何かを感じる。
わたしは最後に、そっと頭を重ねた。
その途端。
ぽん、っと、下から押されたような感覚があって。
気がつくと、わたしは天井の辺りから、トイレの床に横たわっている自分の体を見下ろしていた。




