38.馬車の中で
しばらく一人で泣いていたら、誰かが部屋に入ってきた。
「リーゼロッテ」
滲む視界の向こうに立っているのは、凛とした女性だ。
「…マルゴット様」
わたしは慌ててハンカチを出して涙を拭いた。
自分から婚約破棄をして、普通ならすごく気まずいはずなのに、マルゴット様の顔を見るとなぜか少し気分が落ち着いた。
彼女の持つ雰囲気のせいかもしれない。
厳しいけど優しい、息子のエアハルト様とよく似た雰囲気。
マルゴット様はわたしが涙を拭き終わるのを待って言った。
「今日は遅いから、泊まって行きなさい。御者とご実家にはもう伝えてあります」
「え、ですが…」
エアハルト様には、帰れと言われたばかりだけど…。
戸惑うわたしに、マルゴット様は威厳たっぷりに言った。
「何を心配しているのです? この屋敷の当主はわたくしですよ。さあ、こちらへいらっしゃい」
「は、はい…ありがとうございます」
〇〇〇〇〇
そして、翌朝。
なぜかわたしはエアハルト様と一緒に、王宮へ向かう馬車に乗っていた。
…えーと。
ちょっと待ってほしい。
昨夜、今生の別れと思ってあんなこっぱずかしい事を言ったのに、どうしてその次の日にまた顔を突き合わせないといけない?
しかも馬車で二人きり?
これはなんの罰ゲームですか!?
ガタゴトと揺れる馬車の中で一人脂汗をかきながら、今朝、部屋に朝食を持ってきてくれた侍女の言葉を思い出してみる。
『リーゼロッテ様には、朝食がお済みになり次第、エアハルト様と共に騎士団本部へ向かってほしいとの事です』
――騎士団本部、という事は、わたしの口からあの話をギュンター様達にしろ、という事なんだろうか。
てっきりわたしはもう用済みで、一連の話はエアハルト様から伝わるんだろうと思っていたから、これは完全に不意打ちだった。
それとも、みんなの前でわたしを吊し上げるつもりとか――?
いやいや、彼はそんな人じゃない。
でも、事は一国の大事だ。
幽霊なんていう怪しげな話をうのみにして選択を誤るわけにはいかないだろう。
どちらにしても、わたし個人にはどんな選択肢もない。
信じてもらえるにしろ、否定されるにしろ、正直に話すだけで――。
「…か?」
ぼんやりしていたら、話しかけられているのに気がつかなかった。
「え?」
顔を上げると、それまではかたくなに窓の外を向いてわたしと視線を合わせようとしなかったエアハルト様が、こちらを向いて何かを尋ねたようだった。
「す、すみません、ぼんやりしていて…」
エアハルト様はけだるげな様子で、もう一度わたしに尋ねた。
「…幽霊が見えるのなら、俺の父も見えるのか?」
はっと息を呑み、彼を見る。
どことなく疲れた様子で、いつもの覇気はない。
なんだか父親を亡くした17歳当時の、打ちひしがれた彼の姿を見ているようだ。
「いいえ…ごめんなさい。わたしが見えるのは、フェリシテ様の幽霊だけです」
「…そうか」
それだけ言うと、エアハルト様はまた、ふいと横を向いた。
…そうだよね、幽霊が見えるという人がいたら、その人を通して、亡くなった自分の大事な人の声を聞きたいと思うのは当然だ。
だけど…。
わたしはかなり迷ってから、おずおずと声をかけた。
「…あの…わたしがそう思うというだけで、根拠も何もないのですが…」
エアハルト様が、目だけをこちらに向ける。
わたしは思い切って言った。
「エアハルト様のお父様は、もう天上へ行かれ、そこで安らかに過ごされているのではないでしょうか? あなたやご家族を立派に翼竜からお守りになって、安心して旅立たれたのでは?」
エアハルト様が目を見開いた。
そんな可能性は考えてもみなかった、という顔だ。
う…どうしよう。
落ち込んでいるっぽいエアハルト様に、余計な事を言って追い打ちをかけてしまったかもしれない。
わたしがフェリシテ様の幽霊と話せるのは前世の記憶を持っているからで、彼女の姿を見られるのはディートリンデに殺されかけたから。
わたしに幽霊と会話できるスキルがある、という訳では全然ない。
だけどなんとなく、フェリシテ様の幽霊とは違って、エアハルト様のお父様はもうこの世界にはいないような気がするんだよね。
でも、お父さんはもう成仏したからここにはいないですよ、と言うのと、お父さんは近くにいてあなたを見守っていますよ、と言うのと、一体どっちが正解だったのか…どちらにしても単なる個人的見解ですが…!
わたしは急いで言った。
「さしでがましい事を言って申し訳ありません! お気になさらないでください」
「…いや…案外そうなのかもしれないな。父は、潔い人だったから」
意外とあっさりと、エアハルト様がそう言った。
「…俺の家系は代々武勇に優れた者を輩出しているが、その代わり、ほとんどの者は魔力をまったく持たない。だから、フェリシテ様は…話を聞いてくれるお前に会えて、嬉しかっただろうな」
今度はわたしが目を丸くした。
「信じて、くださるのですか…?」
エアハルト様はまっすぐにわたしを見た。
「舞踏会の夜に、バルコニーでフェリシテ様の幽霊と会った――と言っていたな?」
「はい」
「俺の母上とフェリシテ様はとても仲が良かった。彼女がうちを訪ねた時はいつも、あのバルコニーで母上と長い時間、語り合っていた」
「そう…だったのですね…」
「…それに、お前はこれまで何度も魔獣の出現を言い当て、騎士団に協力してくれた」
昨日とは違う、柔らかな口調でエアハルト様が言った。
わたしに向けられる眼差しも、昨日よりもずっと穏やかだ。
「そのお前の話を、俺が信じない理由などない」
彼のその優しい言葉を聞いた途端、わたしの目から涙が溢れ出した。
前世の記憶を取り戻してから、いつかは断罪される悪役令嬢として、ずっと寄る辺のない思いを抱えていた。
風に飛んでどこかへ行ってしまう風船みたいに。
自分を頼りなく不安定な存在だと感じて、心細くて仕方がなかった。
その心細さも含めて、これまでのわたしを全部、エアハルト様に受け止めてもらったような気がしたんだ。
突然泣き出したわたしに、エアハルト様は困惑の表情を浮かべた。
「ご、ごめんなさい…信じてもらえたと思ったら、安心して…」
ぎし、と床が軋む。
エアハルト様がわたしのすぐ隣に座った。
そして自分の胸に、わたしの頭をぎゅっと押しつけた。
少しの躊躇が混じった優しい声が、頭の上から降ってくる。
「昨夜はすまなかった。大声を出したりして…」
温かな彼の体温と手の感触に、たちまち涙が引っ込んだ。
代わりに、急激に顔が火照っていく。
熱でも出たかと思われるかもしれない。
エアハルト様の胸に顔を埋めたままで、わたしはどぎまぎしながら言った。
「…いいえ! 悪いのはわたしで、エアハルト様は何も悪くないですわ! わたしが…」
大きな手が、わたしの頭から、頬へと滑り落ちてくる。
その手が、わたしの顎をくいっと上に向かせた。
真正面に、エアハルト様の顔がある。
とても近くに。
それは、さらにゆっくりと近づいてきて…。
互いの吐息が感じられ、隔てる距離がゼロになりかけた時に。
ピタリと馬車が止まった。
「王宮へ到着しました!」
勢いよく馬車の扉が開いて、御者が大きな声でそう告げる。
エアハルト様は反射的にぱっとわたしから体を離し、何事もなかったように御者に言った。
「ああ、ご苦労」
そして平然と馬車から降りると、礼儀正しくわたしに手を差し出した。
――でもエアハルト様の耳は、ほのかに赤く染まっていて。
その手を取るわたしの方は、たぶん、炎のように真っ赤な顔をしていただろう。
〇〇〇〇〇
エアハルト様と並んで、わたしは馬車廻しから騎士団本部へと歩いた。
建物はすぐに見えてきて、中に入ればたぶんわたしはギュンター様達に色々と説明をしなければならないんだろう。
だけど、頭の中はたった今起きた出来事に100パーセント占領されていて、それどころじゃなかった。
エアハルト様、わたしに…キスをしようとしてた?
たぶんあれは、睫毛にゴミがついてたとかそういう事ではないはず。
婚約破棄したはずの元婚約者にキスを(未遂だけど)するって、一体どういう事なんだろう。
前世でも恋愛経験ほぼゼロのわたしには、かなりの難問だ。
だけどたぶん、もしかしたら――エアハルト様は、そこまでわたしの事を嫌いではない、のかもしれない――。
「!」
視界ににゅっとエアハルト様の腕が伸びてきて、わたしは必要以上にびくりと体を震わせた。
彼はただ、本部に到着したので正面の扉を開けようとしていただけだった。
でも上の空で到着にも気付かなかったわたしが驚いたのに驚いて、こちらを見下ろした彼の目と視線がまともにぶつかる。
エアハルト様は青灰色の瞳でわたしを見つめた。
どんな言語にも変換できないような、甘やかな空気が、ふわりと漂う。
金縛りにでも遭ったかのように、わたしはその目を見つめ返す事しか出来なかった。
その時だった。
わたし達の上を、大きな黒い影がいくつも横切ったのは。
聞き覚えのある羽ばたきの音と共に。
わたしとエアハルト様は、同時に上空を見上げた。
翼竜の群れが舞っている。
ばたん、と本部の扉が向こう側から開かれて、中から血相を変えたソフィアが飛び出してきた。
「副団長! 大変です、王宮の結界がすべて破られました!!」




