36.お届け物です(後編)
「いきなりお邪魔してすみません、リーゼロッテ様」
そう言ってフードを後ろにずらし、爽やかな笑顔を見せたのは――王立騎士団の特別魔導士、カイ・ミュラーだった。
「カイ! …どうしてここへ?」
わたしはがばっと毛布をはねのけ、ベッドから降りた。
部屋着なのはちょっと恥ずかしいけど、それどころじゃない。
騎士団に、あるいはエアハルト様に、何か緊急事態が起こったのかもしれない。
だけど、カイはのんびりとした様子で、懐からごそごそと何かを取り出した。
「遅くなっちゃいましたが、以前お約束したパンプディングのレシピです。ついにエルゼが書き上げたので、お届けに来ました」
わたしは目を見開いて、その紙を見た。
拍子抜けして肩の力が抜けると同時に、かわいらしい文字に心がなごむ。
「…それじゃあ、エルゼはもう文字を覚えたのね?」
「まだ文字が左右逆だったりしますけどね。はい、どうぞ」
カイに渡されたそのレシピは、ぎこちなく、だけどとても丁寧に書かれていた。
カイの妹のエルゼが、わたしのために一生懸命書いてくれたんだ。
ゲームの中で見たかわいらしい彼女の顔を思い出して、わたしの顔も自然にほころんだ。
「ありがとう、カイ。エルゼにもお礼を伝えてね。それから、今度ぜひうちにも遊びに来てほしい、って」
「…それはとてもありがたいのですが、ちょっと難しいかもしれません」
カイは困ったように苦笑した。
どうして、と言いかけて、わたしは言葉を飲み込んだ。
うちに来るのに、カイは王立騎士団の深紅の制服の上から、わざわざローブを着てきた。
フードも深く被って、最初は誰か分からなかった位だ。
今は春で、外はぽかぽか暖かいというのに。
つまり、彼はうちに来るところを誰にも見られたくなかったんだ。
なぜか?
…うん。前にもあったよね。わたしの軽率な言動で、カイに迷惑をかけた事が…!
「…カイ、もしかしてわたし、またやってしまったのかしら…?」
礼儀正しいカイは、気まずそうに視線を逸らした。
「…そう、ですね、たぶん…噂では、あなたが副団長に婚約破棄をさせた原因が、僕だという事になってますから…」
土下座――は、すんでのところで踏み止まった。
この世界に土下座文化などない。
いくら土下座級に申し訳なさを感じていたとしても、怪訝な目を向けられるだけだ。
だけどどのみち、わたしは膝から崩れ落ちた。
両手を床について体を支え、声を絞り出す。
「本当に…ごめんなさい、カイ…」
「あ、いや、大丈夫ですから! 立ってください、リーゼロッテ様!」
慌ててカイがわたしを助け起こしてくれる。
そうだよね…前科があるもんね!
わたしがカイをうちの馬車に連れ込んだという前科が!
好きな人がいるから婚約破棄してもらう、ってわたしが宣言したら、そりゃそういう事になるよね!!
「わたしはカイが好きだから、エアハルト様との婚約は破棄します」っていう事に!!
一度ならず二度までも…エアハルト様とカイに、ものすごく迷惑なとばっちりを食らわせてしまった。
それまで晴れていたのにいきなり台風が来て、あたり一面滅茶苦茶にして行きました、みたいな…。
死んだようになっているわたしの顔を、カイが覗きこんだ。
明るい橙色の瞳が近い。
カイは優しく慰めるように言った。
「…いいですよ。もしリーゼロッテ様が僕にしたいなら、それでも」
「…え…?」
いい、って…何が?
僕にしたい、って…それはつまり…。
それは、つまり…僕に乗り換えてもオッケーですよ、って事!?
急激に心拍数が上がる。
ほとんど呼吸困難に陥りかけているわたしに、前世のわたしの一番の推しが顔を近付ける。
夢にまで見たあの甘い声が、囁いた。
「副団長との婚約を破棄してまで、僕を選んでくれたんですよね?」
「…それ、は…」
これは即座に否定しないといけない場面だ。
否定しないと、本当にそういう事になってしまう。
だけど同時に、否定する必要はあるのかとも思う。
エアハルト様との婚約は破棄された。
格上である公爵家との婚約をこちらから一方的に破棄した以上、もうわたしに求婚してくる貴公子など一人もいないはずだ。
それほど高くもなかったわたしの評判は完全に地に落ちたし、普通の貴族なら公爵家に遠慮して、公の場ではわたしに話しかけようとすら思わないだろう。
そもそも、はじめからエアハルト様との婚約は破棄してもらうつもりだったじゃないか。
それが成った今、カイの言葉に頷かない理由なんて一つもないんじゃ…?
だってカイは、わたしが前世から大好きだった人で…。
そう思った瞬間、カイが、わたしの手を握った。
さらさらとした感触の手だ。
滑らかだけど、筋張っていて力強い。
エアハルト様の手とは、違う。
記憶が一度にあふれ出した。
王妃弾劾会議でわたしが打ちひしがれていた時に、円卓の下で励ますようにエアハルト様が握ってくれた手。
夜の紅茶店でエアハルト様とカーテンの中に隠れた時に、わたしの手をぎゅっと握り返してくれたあの大きな手。
騎士団本部で跪く彼に武運を祈った事。
初めてわたしをロッテと呼んでくれた時の声。
馬車の中で交わした、エアハルト様の元へ戻るという約束。
そしていつもわたしに向けてくれた、あの穏やかなほほ笑みを思い出した。
――どうして今まで気付かなかったんだろう。今になって分かったって、もう遅いのに。
わたしは、エアハルト様の事が好きなんだ。
ゆっくりと顔を上げてカイと目を合わせる。
だけどわたしが口を開く前に、カイはあっけらかんと言った。
「なーんて。冗談ですよ、リーゼロッテ様」
「へっ!? じょ、冗談!?」
な…なんて人の悪い冗談だ…!
本気にしちゃったじゃないか…!
ショックで呆然とするわたしから手を離して、カイはにっこり笑った。
「何があったか知りませんが、早く仲直りしてくださいね」
「…無理よ。だって、もう婚約破棄をしたのよ?」
普通の神経なら、二度とエアハルト様に顔向けできないはずだ。
なにしろわたしは、他の男の元へ走ってエアハルト様との婚約を反故にした(と思われている)んだから!
「でも、事情があるんですよね?」
カイが優しく尋ねる。
わたしは何も言えずにうつむいた。
そうだ、と言っているのと変わらない。
「…それなら、ちゃんと話せば分かってくれますよ。大丈夫、副団長を信じて」
カイの言葉に背中を押されて、わたしはエアハルト様にすべてを話すさまを想像してみた。
彼は、怒るだろうか。
わたしを無視する?
それとも、許してくれる?
そんなのは考えるまでもなかった。
今までに何度も彼を怒らせるような事をしてきたけど、いつだって、エアハルト様はわたしを許してくれたから。
さすがに今回は許してもらえないかもしれないけど…。
でも、許してもらえるかどうかなんて二の次だ。
わたしは意を決してカイを見た。
「…わたしが話したら、エアハルト様が殺されてしまうとしたら?」
決死の覚悟で言ったのに、あろうことか、カイは大きな声で笑い飛ばした!
「あはははは! 副団長が? あの、象に踏まれたって死ななそうな人がですか?」
「そ、そんな…だって、いくらなんでも翼竜の群れに襲われたら…!」
「この間の翼竜の事ですか? 王宮の上空に現れたっていう」
わたしは思わず口を噤んだ。
不安の滲んでいるだろうわたしの顔を見て、カイが至極冷静に言う。
「王宮には二重の結界を張っていて、それを毎日、騎士団の魔導士が点検しています。凄腕の闇魔導士が無理矢理結界をかいくぐらせたとしても、せいぜい小型のものが一体という所でしょうね。副団長を翼竜の群れに襲わせると、誰かに脅されたんですか?」
目を逸らしたけれど、カイには丸わかりだったみたいだ。
「…なるほど。それはハッタリですよ、リーゼロッテ様。どんな闇魔導士獣だって、あの二重の結界を破る事は出来ませんから。翼竜の群れなんて絶対に通り抜けられません」
ハッタリ。
わたし…ケラー男爵のハッタリを真に受けただけだった!?
確かにあの時、中庭まで降りてきた翼竜は一体だけだったけど…。
「ほ…本当に…?」
「はい。それに今は厳戒態勢で、騎士団は常時三名以上で行動するように指令が出ています。大抵の敵なら心配いりませんよ」
そう言ったカイは、とても頼もしく見えた。
――信じてもいいのかな。
エアハルト様は大丈夫だ、って。
わたしが悪役令嬢だから周りの人を不幸にするとしても、それ以上の力で、騎士団の人達がエアハルト様を守ってくれる、って。
王妃弾劾会議で、孤立無援のように感じたけど、結局のところは王立騎士団が王妃を倒すために動いてくれていたように。
もっと、彼らを信頼してもいいのかな。
もしそうなら――これ以上一人で悩む必要なんて、全然ない。
わたしは、わたしのやるべき事をやるだけだ。
「…カイ。エアハルト様は、もうお屋敷に帰っていらっしゃるかしら」
「はい。今日は僕より先に帰宅されました」
その瞬間、わたしは心を決めた。
「わかったわ。これからグレーデン公爵邸に向かい、話をしてきます」
はっきりとそう告げると、カイはとびきりの笑顔で言った。
「はい。それでこそリーゼロッテ様です!」
…なんだか上手く乗せられたような気もするけど、まあいいか!
それからすぐに徒歩で帰ろうとしたカイに、わたしはどっさりとお土産を持たせ、客用の馬車に乗せて、ミュラー家の近くまで送らせた。
前回の教訓から、カイには路地に入る前の大通りで降りてもらう事にしたから、きっと人目にはつかないはず!
カイを見送ると、顔を洗い、侍女に手伝ってもらっておろしたてのドレスを着て、数日ぶりに化粧をした。
部屋の中は夕闇が濃くなってきている。
スツールに座った鏡の中の自分が、不安そうな目でこちらを見てきた。
…エアハルト様に会いに行くと決めたけど、もし彼が聞く耳を持たなかったら?
話を聞いてもらっても、それでやっぱり彼が殺されてしまったら?
翼竜が王宮ではなくグレーデン家の屋敷へ襲って来たら?
あるいは、食事に毒が混入されたら?
エアハルト様だけでなく、騎士団の人達も、マルゴット様も、わたしの両親も、わたしも、みんな殺されてしまったら…?
体がすくんで動けなくなる。
ディートリンデとケリー男爵なら、どんな事だってやりかねない。
彼らは既にフェリシテ様とアンヌさんを殺している。
他にもいくつもの悪事に手を染めているのは間違いないと思う。
そんな人達を相手に、わたしに何が出来るの?
だってわたしはただの悪役令――。
その時、腕につけている銀のブレスレットがきらりと光った。
「がんばって」と、ソフィアに励まされているような気がした。
…そうだ。
わたしは悪役令嬢だったかもしれないけど、ソフィアもエアハルト様も仲良くしてくれたじゃないか。
こうしてカイもわざわざうちを訪ねて、エルゼの書いたレシピを届けてくれた。
わたしの思いを、みんなが受け止めてくれたからだ。
それに、前世での一番の推しはカイだったけど、今のわたしが好きになったのはエアハルト様で。
わたしは、わたしの歩いてきた道の上に立っている。
ゲームに囚われる必要なんてなかった。
この先の道は自分で決めればいい。
みんなと一緒に幸せになる未来だって、きっとある。
それを望んで、行動すれば、きっと…。
わたしは両手でばちん、と頬を叩いて、スツールから立ち上がった。
侍女が目を点にして驚いている。
それを尻目に、背筋を伸ばして元気に高笑いをする。
「おーっほっほっほっほ! わたしはリーゼロッテ・フォン・ノルドハイム! この世界に怖いものなど何一つなくってよ!! おーっほっほっほっほっほ!!」
…よし!
本当は不安に押し潰されそうだけど、これでかなり気合が入ったぞ!
怪訝な目でわたしを見ている侍女に馬車の用意をお願いして、わたしは外套を羽織り、屋敷を出た。




