31.王妃にまつわる思い出話
「フェリシテ様…?」
その名前を口にした途端、忘れていた記憶が、スクリーンに投影された映画のように脳裏によみがえった。
彼女は優しく、上品で、美しい方だった。
その日、幼いわたしは珍しく両親と一緒にこの宮殿に来ていた。
大広間でシャルロット王女のお誕生日パーティーが開かれていたからだ。
わたしのお母様は貴族なのにあまり社交的ではないけれど、溢れるほど気品があるのに気さくで温かい人柄のフェリシテ様の事はとても敬愛していた。
だからフェリシテ様のご息女であるシャルロット王女のお誕生日パーティーならばと、わたしを伴って駆けつけたのだろう。
年齢の近いわたしが王女と仲良くなれるように、との目論見もあったかもしれない。
その時わたしは3歳で、王女はまだたったの2歳だった。
だけど、お母様と一緒に辛抱強く謁見の列に並んでようやく国王ご一家にご挨拶をした時に、フェリシテ様が向けてくれた優しい眼差しとあたたかな声音は、記憶の底に残っていた。
小さなわたしが、つんのめりそうになりながらもたどたどしくカーテシーをして『お誕生日おめでとうございます、王女様』と言ったら、王妃は――フェリシテ様は、まだ小さくて喋れない王女に代わり、にっこり笑ってこう言ったのだ。
『ありがとう存じます、リーゼロッテ』
…ああ、そうだ。
どうして忘れていたんだろう。
あの幽霊に会うたびに、わたしはなぜか彼女を知っているような気がしていた。
だけど見覚えがあったのは当然だ。
だって、わたしは一度、あの方にお会いしていたんだから。
星の間で王妃フェリシテの肖像画を前にして、わたしはごくりと唾を飲み込んだ。
前世でわたしがプレイしていた乙女ゲームの中では、そんな設定は無かったけど…。
もう一度フェリシテ様の肖像画を見て、確信する。
間違いない。
ソフィアがシャルロット王女だ。
王女はある日突然、煙のようにお城から姿を消した。
王宮の内外で、何日も草の根を分けての大捜索がなされたけど、とうとう見つからなかった。
結局、王女は亡くなったとみなされ、葬儀がなされた。
王家の墓地にお墓もある。
それから2年ほどして、後を追うようにフェリシテ様も亡くなられた。
愛娘を失った心痛も癒えないまま、病没されたと聞いている。
フェリシテ様は幽霊となった後も、娘に会いたくて宮廷をさまよっていたのだろう。
16歳になったソフィアは、王立騎士団に入団し王宮入りをした。
王宮にやって来たソフィアを見て、フェリシテ様は彼女が自分の娘だと気付いたんだ。
だけど、ソフィアは結界魔法の能力が高すぎて常時無意識に自分自身に結界を張っているから、いくら魔力が高いソフィアでも、幽霊となったお母様に気付くことは出来なかった。
だからフェリシテ様は、グレーデン家の舞踏会でたまたま目についたわたしに、これから魔獣が来ると警告を――。
あれ?
そういえば、どうしてフェリシテ様は魔獣が襲ってくるとわかったんだろう?
「フェリシテ様のお姿を見るのは、初めてかな?」
横からギュンター様に声をかけられた。
わたしははっとして彼を見た。
どうしよう。
ソフィアがシャルロット王女だと知っているのは、たぶんわたしと幽霊のフェリシテ様だけだ。
ものすごーーーく重大な情報だ。
だけど今それを打ち明けても、信じてもらえるかどうか…。
わたしが悪役令嬢としてエアハルト様に告発され、辺境の塔に幽閉されるという展開は今のところ免れていると思う。
だけどこの世界においては、「魔法」は使える人が人口の3割程度と相対的に多く、前世での科学技術のように許容され活用されているものの、「幽霊」が見える人はほとんどおらず、話が出来る人なんてさらにいない。
そんな状況で幽霊を見たなどと騒げば、狂人か詐欺師だと思われても仕方がない。
もしもわたしが「ソフィアこそがシャルロット王女だ、だってフェリシテ様の幽霊が自分の娘だって言ってるから!」なんて言ったら、辺境の塔ではなく精神病院に幽閉されるハメになるかもしれない。
だからとりあえず今は、聞かれた事に答えるだけにした。
「…いいえ、一度、お会いした事があります。シャルロット王女の2歳のお誕生日パーティーで…とてもお優しい方でした」
「…そうか。そうだな。本当に素晴らしい方だった。王立騎士団にも、ご自身の結界魔法を使ってずいぶんと協力してくださった」
「結界魔法? フェリシテ様は魔導士だったのですか?」
ぽかんとした顔でそう聞いたわたしに、ギュンター様は意外そうに言った。
「ああ…そうか。若い者は知らんのだな。フェリシテ様は、それは強大な魔力をお持ちだったのだよ。彼女はたった一人で、王宮全体に強固な結界を張る事が出来た。結界石もなしで…と言うより、範囲内に存在するすべての岩石から、結界魔法に必要な微弱な魔力を抽出する事が出来た。いわば、石という石がどれも彼女にとって天然の結界石だったんだ」
「すご…!!」
「そうだとも。それは見事だったぞ。しかも、結界魔法の一種である索敵魔法を王都近郊にまで張り巡らせ、魔獣の来襲を早期に予見する事すら出来た。フェリシテ様がご存命だったなら、決して魔獣が王宮に侵入する事など許しはしなかっただろう」
…それか!
その能力があるから、フェリシテ様の幽霊は魔獣が来るのを事前に知り、わたしに教えてくれたんだ!
幽霊になってなお魔獣から人々を守ろうとするなんて…さすがは一国の王妃だった方。ディートリンデとは大違いだ。
ギュンター様はわたしを見て、にやりと笑った。
「…もちろん、君の予知魔法も素晴らしいがね」
「いえっ、とんでもございませんわっ! わたしなど月とスッポンですわっ!!」
だって、インチキですから!
予知魔法と称しているものはすべて、フェリシテ様と前世のゲームからの情報ですから!!
「まあ、そう謙遜するな。しかし、フェリシテ様の事は本当に…民からも聖女と謳われ、慕われていたのになあ…」
ギュンター様は声を詰まらせた。
わたしも胸が痛くなった。
「…残念でならないですわね。まだお若かったのに、ご病気で身罷られるなど…」
ふっと、ギュンター様の周囲の空気が冷え、硬くなった。
「…ご病気では、ないのだよ」
「え…?」
「あの方は…何者かに毒殺されたのだ。王妃が亡くなった直後、私は極秘裏に陛下に呼ばれて部屋に駆け付けた。床に倒れ、事切れたフェリシテ様は、血を吐き、喉を掻きむしっていた。確かに王女が行方不明となって以来、フェリシテ様は心身ともに弱っておられた。だがあれは…断じて病気などではない!」
背筋に冷たいものが走る。
殺された…?
フェリシテ様は、誰かに毒を飲まされて、殺された――!
「では、なぜ犯人を捜さなかったのですか!?」
「陛下がそれを望まなかったからだ」
ギュンター様はうつむき、力なく首を振った。
「フェリシテ様を深く愛しておられた陛下は、彼女の死について人々があれこれ詮索するのが耐えられなかった。それでなくとも、その事件の2年前には王女も失踪されている。その上王妃が毒殺されたとなれば、口さがない連中が何を言い出すかわからんからな。陛下は彼女の思い出を美しいまま残しておきたいと、病気で亡くなられた事にして、それ以来一切彼女の話をなさらなくなった…おそらく、今もその死を受け容れられていないのだろう」
そう言うギュンター様も、フェリシテ様の死を受け容れかねている様子だった。
わたしは唇を噛んだ。
フェリシテ様が――毒殺されて幽霊になってもなお優しく上品で、ひたすら愛娘と自国の人々の身を案じている彼女が、痛ましくて仕方ない。
――だけど。
「…もし、今の王妃ディートリンデが実行犯だったら? それでも陛下は、フェリシテ様の死因をうやむやにしたいと望むでしょうか?」
ギュンター様が暗い目を向けた。
「滅多な事を言うな、リーゼロッテ。私とてそれは疑った。何しろ、フェリシテ様の喪が明けた途端に、バルツァー侯爵家の娘であるまだ16歳のディートリンデとの再婚が決まったのだからな。だが、ディートリンデには実行不可能だった。あの女はフェリシテ様が亡くなった時には隣国に留学中だったのだよ。他の侯爵家の者も誰一人、その時期に王都に滞在していた者はいなかった。実に忌々しいが、犯人は今も闇の中だ」
「そう、ですか…」
フェリシテ様の美しい肖像画を見上げ、ギュンター様が呟くように言った。
「…せめて王女が生きておられれば、陛下も、ああまで気力を失う事はなかったかもしれんな。言っても仕方の無い事だが…」
その言葉は、わたしの罪悪感を鋭く突き刺した。
王女は、実際に生きて、王宮にいる。
その事を知ったら、ヨハン王はきっと喜ぶだろう。
何しろソフィアは、フェリシテ様によく似ている。結界魔法の使い手である点までそっくりだ。
だからわたしが王に、勇気を出して打ち明ければいい。
だけど…怖い。
もし頭がおかしいと思われたら?
わたしにはフェリシテ様の幽霊が実在すると相手に証明する術はない。
元々この世界はリーゼロッテに優しくない世界だ。
規定ルートは破滅への道でしかない。
必死に悪役令嬢から脱却しようとがんばって、なんとかまだ告発されずにいるけれど、それだっていつまでもつのか…。
それなのに、わざわざ自分から人目を引いて、うさん臭がられるような事をするのは、是が非でも避けたい。
…だけど、知っていた事を隠していたせいで、かえってもっと悪い事態を招いたら?
どうしよう、どうすればいいのかわからない。
どっちを向いても破滅、といった最悪の事態も頭をかすめる。
だってわたしは、悪役令嬢なんだから――。
「リーゼロッテ。そろそろ王の元へ行こうと思うんだが」
ギュンター様に話しかけられ、わたしは慌てて顔を上げた。
「…はい、参りましょう!」
「君の事も陛下に紹介しよう。我ら王立騎士団の誇る、美しく才能あふれる予知魔法使いだと」
「…それはちょっと盛り過ぎかと!!」
ギュンター様はにやりとほほ笑むと、部屋の奥にある扉へ歩き出した。
わたしもその後について歩く。
肝心な結論は出ないまま、わたしは一つの事を決心した。
それは――どうするかは、ヨハン王の顔を見て決める、という事だ!
出たとこ勝負だけど、もうそれしかない。
陛下が話が通じそうな方なら、話してみる。
信じてもらえなさそうな雰囲気なら、今日は引き下がる。
そう決めてしまうと、ちょっとだけすっきりした気分で、わたしはギュンター様と共に離れの奥へと進んで行った。
〇〇〇〇〇
の、だが。
わたしの決心は見事に潰えた。
衛兵達が王の部屋の扉を開けると、そこにはどんよりと曇った目をしたヨハン王が。
そしてその隣に、狡猾な目をした王妃ディートリンデがいたからだ!
「…あら。珍しいお客様ね」
そう言ってわたしをねっとりとねめつける王妃の視線に、わたしは完全に腰が砕けた。
なんでいるの!?
大臣夫妻の屋敷に行ってるはずじゃあ…まさかもう帰ってきた?
そういえば王の部屋にいるのに、ディートリンデはまだよそいきのコートを羽織っている。
出先から慌てて舞い戻ったという印象だ。
彼女を見ると、思い出したくもないのに首と胸の痛みの感覚が強烈によみがえる。
恐怖も、吐き気と一緒にこみ上げてくる。
情けないけど、一度殺されかけた相手を前にして、わたしは猫を前にした鼠のようにすくみ上がっていた。
「…リーゼロッテ、付き添いご苦労だった。もう本部に戻ってくれ」
わたしの様子を見たギュンター様が、さりげなくそう言ってくれた。確かに今は、王に紹介されるどころではない。
「…はい。それでは、失礼いたします」
何一つ王に告げられないまま、わたしはぎこちなくカーテシーをして、逃げるように王の部屋から辞去した。




