30.王の元へ
車椅子を押しながら騎士団本部の外へ出て、宮殿へ向かう。
外は晴れていて、穏やかな小春日和だった。
車椅子の上のギュンター様が言った。
「王の元へ行くと言っても、心配するな。王妃はいない。王妃は今日、内務大臣夫妻の屋敷に招かれているそうだ。それで私に一勝負どうだ、と王からお声がかかったという訳だ」
ギュンター様はチェスの駒を置くような手振りをした。オラシエ王国にはチェスによく似たゲームがあるから、それの事だろう。
「でも、王は大臣夫妻の屋敷に行かなくていいのですか?」
普通、そういう公式の場には国王夫妻が揃って姿を見せるものなんじゃあ…。
ギュンター様はちょっと渋い顔をした。
「ふん。陛下とて、あの女狐めには愛想を尽かしている。もうずっと前から、あの二人は夫婦で行動する事など、ほとんどなくなった」
「そうだったんですか…」
王と王妃の夫婦仲は、冷え切っていたんだ。
記憶を取り戻す以前――リーゼロッテが王妃の部屋に入り浸っていた頃、王妃は王に愛されていないなんて事は、まったくおくびにも出さなかった。
夫に顧みられない妻なら、もう少し寂しそうにしててもおかしくないはずだ。
それなのに寂しさなどカケラも感じないどころか、王妃は「この世の春!」とばかりに、生き生きと楽しそうだった。
その間もずっと王と不仲だったとしたら、王妃があんなに楽しそうな顔をしていたのは、不倫相手のケリー男爵とうまくやっていたからなのかな。
わたしはケリー男爵に直接会った事はないし、顔も知らない。
でも、あの性悪王妃が入れあげている位だから、相当なワルで間違いないだろう。
パンチパーマでヒョウ柄のマフラーを肩にかけたやくざの親玉みたいな男が、頭の中に浮かぶ。
…ホルガーに締め上げられた喉の辺りがなんだかまたズキズキしてきて、わたしは気分が悪くなった。
宮殿の正面玄関の前に着くと、ギュンター様は急にキョロキョロと辺りを見回した。
「ギュンター様? どうか…」
しましたか、とわたしが言い終わる前に、ギュンター様は車椅子からすっくと立ち上がった。
「へ…!?」
彼は、いたって健康そうに、上半身を左右にひねった。
そしてラジオ体操のように片手を上げ、体を横に曲げさえした。
それもご丁寧にも、左右両側。
あ、あれー…? ぎっくり腰の人って、こんなに動けるもんだったっけ…!?
ギュンター様は、わたしににっと笑いかけた。
「すまんな、リーゼロッテ。実はな、私のぎっくり腰はとっくに治っているんだ」
「はいーーっ!!?」
なんだそりゃ!?
ここまで車椅子を押すの、結構大変だったんだよ!?
それに自分で歩けるなら、わたし、エアハルト様の執務室に行っても良かったんじゃあ…?
きっとものすごい顔をしてるだろうわたしの前で、ギュンター様は悪びれもせず、ほがらかに笑った。
「はっはっはっ。いや、悪かった。だが仮病でも使わんと、エアハルトは団長の椅子には座ってくれんからな」
「団長の、椅子…?」
「ああ、そうだ。君も見ただろう、礼拝堂の屋根に登って翼竜と戦ったあいつの姿を。私がどんなに止めても聞く耳をもたずに、あいつはたった一人で巨大な敵に戦いを挑んだ」
「…もちろん、憶えていますわ」
ギュンター様は、ふっと遠い目をした。
「あいつの父親もそうだった。大切なもののためなら自分の身など顧みず、敵に突っ込んで行く。…だが、彼ら自身の事を大切に思っている者もたくさんいるという事は、きれいに忘れてしまうんだな。それでは困る」
「…だから、ぎっくり腰のふりをしてエアハルト様に団長代理をさせていたのですか? 責任ある地位に就かせ、無謀な事はしないようにと…」
「ほう、なかなか鋭いな。その通りだ。あいつはもう少し、自分の重要さを噛み締めるべきだからな」
そう言うギュンター様も、あの時は完全に敵討ちモードになって翼竜に突っ込んで行ったように見えたけど…。
いや、今はその事には触れないでおこう…。
ギュンター様は、エアハルト様の事をとても大事に思っているんだ。
王立騎士団の団長がギュンター様で、本当に良かった。
そう思って頬を緩めると、彼もにっこり笑った。
「それでは、王の間へ参上するとしよう」
〇〇〇〇〇
広い宮殿内を、ギュンター様の後について歩く。
宮殿の中はいくつかのスペースに区切られている。
王族の居住スペースは、庭を横切る渡り廊下を渡った、一番奥の離れにあった。
渡り廊下の先は、細長い部屋になっている。
そこに足を踏み入れると、両側の壁一面に、ずらりと油絵が掛けられていた。
「ここは『星の間』と言って、歴代の王族の肖像画が飾られている部屋だ」
離れに入るのは初めてのわたしに、ギュンター様がそう教えてくれる。
上を見上げると、部屋の名前の通り、美しい星空の天井画が描かれていた。
その星々の下で、物言わぬ高貴な人の肖像画がわたし達をじっと見据えている。
前の世界で、学校の音楽室にあったバッハやベートーベンの肖像画みたいだ。ちょっとだけ怖い。
「たくさんありますね…」
「オラシエは歴史の長い王国だからな。奥へ行くほど、最近の王族の肖像になる…そろそろ、見知った顔もあるんじゃないかね?」
歩きながらギュンター様にそう聞かれる。
でも、そこまでたいした家柄でもないわたしには、誰が誰だかさっぱりわからない。うちの両親は恥ずかしい位にお互いにベタ惚れしてるから、人付き合いはそこでほぼ完結していて交友関係も広くないし、王族の方々と親しくお付き合いする機会なんかも全然ない。
わたしが知っている王族の顔なんて、それこそヨハン王ぐらいだ。…あ、あと、数えたくないけど、王妃も。
壁が終わりに近くなる。
最後に一人の女性の肖像画があって、わたしは目をそらしかけた。
王妃の肖像画だと思ったからだ。
たとえ絵だって、王妃の顔なんて見たくもな――。
…え?
「…この、絵…」
わたしは、呆然と呟いた。
その女性の肖像画は、王妃ディートリンデを描いたものではなかった。
ギュンター様は、わたしの視線の先を見ると、痛ましい表情を浮かべて言った。
「…ああ、その方は…先の王妃、フェリシテ様だ」
そこに描かれていたのは、わたしの前にたびたび現れるあの幽霊――。
ソフィアの、お母様の姿だった。




