【ソフィア視点】貴族は嫌いだった(前編)
たぶん2歳位のときに、わたしは王都にある聖ヨハンナ孤児院の前に捨てられていた。
まだ自分の名前も言えず、実の親からの手紙も何も持っていない、全くの身元不明孤児だった。
わたしは院長先生に「ソフィア」と名付けられ、その日から孤児院の子ども達の一人となった。
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わたしが7歳になった日――便宜上、わたしが孤児院に捨てられた日が2歳の誕生日として記録された――、院長先生に呼び出され、箱に入った白いリボンを渡された。
「ソフィア、それはあなたがこの孤児院の前で見つかったときに、髪に結んであったリボンです。とても高価な物なので、今日まで先生が保管しておきました。あなたはもう立派なお姉さんなのだから、これからは自分で持っているといいわ」
立派なお姉さん。
彼女がこう言った背景には、わたしの幼いなりの努力があった。
聖ヨハンナ孤児院には、常に20人前後の孤児が暮らしている。
孤児院で養育されるのは16歳までの子ども。
先生達はみんな優しいけれど、毎日とても忙しそうにしていて、一人一人を十分にかわいがる余裕なんてない。
だからわたしは、出来るだけ彼女達の手をわずらわせないようにした。
早くから自分のことは何だって自分でやり、年下の子の面倒を見て、率先して先生達の仕事を手伝った。
そうしたら、褒めてもらえるからだ。
わたしを見てもらえるし、頼ってもらえるからだ。
わたしは誰かに必要とされたかった。ほとんどそれに飢えていると言ってもいい位。
でもそのリボンをもらったわたしは、子どもらしい喜びに包まれた。
院長先生に渡された白いリボンは繊細なレース編みで、古くなり少し変色している箇所もあった。
だけどそんなことよりも、幼い自分がこんなきれいなリボンをつけていたことに、とても感動した。
たぶん、わたしのお母さんが結んでくれたんだろう。
院長先生は、これを高価なものだと言っていた。
もしかしたら、わたしの両親はお金持ちの貴族で、事情があってわたしを手放したけど、ある日突然わたしを迎えにきてくれるかもしれない。
そんな期待をしながら、わたしは毎日そのリボンをカチューシャのように結んで身につけるようになった。
お守り代わりに、そして、もし本当のお母さんがどこかでわたしを見つけたときに、すぐに自分の子どもだとわかるように。
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それからしばらく経ったある日、わたしは年下の子数人を連れて、街にお使いに行った。
用事はすぐに終わったけど、元気が有り余っている子ども達がすぐに孤児院に帰りたがるはずもなく、みんな寄り道をしたがった。
仕方がないから、劇場通りを通って帰ることにした。
大劇場の建ち並ぶこの通りなら、ずらりと停まっている貴族達の豪華な馬車を眺められるから。
ちょうど昼の公演が終わったようで、一つの劇場から貴族たちがぞろぞろと吐き出されていた。
彼らは劇場前の馬車廻しから自分の家の馬車に乗り、広いお屋敷に帰っていく。
一つ年下のルッツという男の子が、わたしの手を引っ張って言った。
「なあ、ソフィア。ちょっとあっちの方散歩してきていい?」
「駄目よ」
ルッツはスリが得意だ。
早くも猛禽類のような目つきで、貴族の中から獲物を物色している。
絶対に、こんなところで野放しにはできない。
早く帰ろう、と思って足を早めたとき、わたしの前方に立っていた貴族の女の子が、ハンカチを落とした。
母親が他の貴族とお喋りをしているらしく、その子は一人で暇そうに歩道の方まで歩いてきていた。
ハンカチを落としたことには、気づいていない。
鮮やかな赤毛の、わたしと同い年位の女の子だ。
髪に、わたしが持っているものとよく似た、レース編みのリボンをつけていた。
真新しい白いリボンが、赤い髪によく映えていた。
わたしはどきどきしながらハンカチを拾って、その子に声をかけた。
「あの、これ…」
女の子はびっくりしたようにわたしを見た。
その子の顔つきが、驚きから、虫けらでも見るようなものへと変わっていく。
「いやだ、汚い! どうして孤児がこんなところに!?」
「え…」
その子はばっとハンカチを奪い取り、端をつまんだそれを嫌そうに見ると、ゴミのように投げ捨てた。
「これ、気に入ってたのに。もう使えないわ。…あら?」
じっとわたしを見ると、いきなりわたしのリボンをむしり取った。
「このリボン、オラシエ編みじゃない。どこで盗んだのよ!?」
「ち、違います!」
「ああ、いやだ。気分が悪いわ。あなたみたいな下賤の子が身につけられるようなものじゃなくてよ」
体の中に、泥を詰め込まれたような気分だった。
わたしは言葉を絞り出した。
「返してください」
「は? 別にいらないわよ、こんなもの。黄ばんでるし、ほつれてるじゃない。これをつけて出歩くなんて、恥ずかしくないのかしら。やっぱり下賤ね」
その子はどうでもよさそうにリボンを捨てると、お喋りの終わった母親に呼ばれて一緒に馬車に乗り込んだ。
母親も、その子と同じように汚いものを見る目でわたしを一瞥し、「孤児なんかと話すんじゃありません」と注意していた。
気がつくと、服の裾を引っ張られていた。
二つ年下のマリーが、リボンを拾って、わたしに差し出してくれている。
「…ありがとう」
わたしはお礼を言って、リボンを受け取った。
リボンはあの子にむしり取られたときに、真ん中が大きく裂けてしまっていた。
オラシエ編み、と言っていた。
このリボンのことなら、どんなことでも知りたいと思っていた。
いつもなら。
今はその事を考える余裕もなかった。心臓に冷水を浴びせられたようなのに、全身に血が昇って熱い。胃がきゅっとして、吐きそうだ。
わたしは無理に笑顔を浮かべて、子ども達に言った。
「帰りましょう」
「ルッツがいないよ」
そう言われて周りを見渡すと、ちょうどルッツがどこかから戻ってきたところだった。
突然、通りの先で轟音と悲鳴が上がった。
そちらを見ると、さっきの赤毛の子が乗った馬車の車体が傾き、片側の車輪が外れて転がっていた。
「へっ、ざまぁ」
ルッツはそう言って、金属のネジのようなものを数個、手の上で弄んだ。
誰が馬車の事故を引き起こしたのかは明白だったけど、そのときのわたしは、とてもルッツを咎める気にはなれなかった。
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聖ヨハンナ孤児院の子どもは、16歳になったら孤児院を出て、独り立ちをする。
生まれ持った結界魔法の力をこの国の人々のために使いたくて、16歳になったわたしは、思い切って王立騎士団の入団試験を受け、合格した。
だけど、特別魔導士として王宮内にある騎士団本部で働くようになっても、あの時に植え付けられた貴族への嫌悪感は変わらなかった。
むしろ、ますます強くなった位だ。
「よっ、ソフィア! 仕事が終わったら、俺と飯食いに行かないか?」
定時になる前にそう声をかけてきたのは、上官のイェルク・フォン・ハルトマン師団長だ。
わたしや同僚のカイ・ミュラーのような特別魔導士は全員が第二師団に所属し、彼の下で仕事をする。
少し…いや、かなり軽いけど、ハルトマン師団長は有能な上官だ。
侯爵家という高貴な身分の貴族であり、わたしのトラウマを呼び覚ます赤毛でもある。
しかも、とびきり鮮やかな。
「すみません。今日は予定があるので」
「ええーっ、この間もそう言って断られたんですけど! つれないなあ」
「申し訳ありません。失礼します」
「はいはい、また明日ね」
敬礼を交わして辞去する。
なんだかんだ言っても、最後には笑って手を振ってくれる師団長はいい人だと思う。
わたしだけじゃなく、カイのこともよく食事に誘っているから、平民出身のわたし達のことを気にかけてくれているんだろう。
だから別に、わたしにとって赤毛の貴族は鬼門だから、という理由で断ったわけじゃなくて。
その日は、本当に予定が入っていた。
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「失礼いたします」
美しい女官が扉を開け、雅やかな香が焚かれた広い室内に、わたしは足を踏み入れた。
部屋の奥にはクッションの敷き詰められた高座があり、そこに、この国の王妃がしどけなく座っている。
お人形のような灰色の瞳で、彼女はわたしに艶然とほほ笑みかけた。
「いらっしゃい、ソフィア。待っていたわ」
王妃の部屋に呼ばれたのは、これで3度目だ。
1度目と2度目は、他愛のない話をしただけで帰された。
だけど、今回はそうではなかった。
「…何と、仰いましたか…?」
「だからね、あなたに礼拝堂の結界を壊してほしいの。王宮には他にもたくさん結界があるのだし、礼拝堂は殺風景だから、今結界石がある場所には新しく素敵な彫刻でも飾ろうかと思うのよ。きっとみんな喜ぶわ」
「そんな…! そんなこと、できません!!」
そう言って断ると、王妃の顔つきが一変した。
愛らしいほほ笑みは氷のような無表情になり、纏う雰囲気も、カナリアのように可憐なものから、どす黒いものへと変わる。
それから、続き部屋に控えていた大柄な庭師の男が現れた。
わたしは痛めつけられ、拘束され、孤児院に火を放つと脅された。
結界魔法を使ってこの場をしのぐことも考えたけど、その後のことを考えるとどうしてもできなかった。
逆らえば、王妃はためらわずに孤児院を燃やすだろう。
院長先生や、ルッツや、マリー。
わたしの大切な人達がいる、聖ヨハンナ孤児院を。
その夜。
わたしは王妃に貸し与えられた鍵を使い、真夜中に礼拝堂の地下室に侵入して、結界魔法を発動させ、礼拝堂の結界を解除した。
古くから王宮の礼拝堂を守ってきた大きな結界石が真っ二つに割れ、その音が、闇の中に響く。
涙が頬を伝った。
「立派な人になりなさい。生まれを恥じる必要はないわ」
そう言って送り出してくれた院長先生の優しい顔が、頭をよぎる。
「貴族にいじめられたら帰ってこいよ。俺がそいつに仕返ししてやるから」
ルッツもそう言ってくれたけど、もう彼が仕返しできる限度を超えている。
何もかも変わってしまった。わたしは立派な人にはなれなかった。それどころか、恥ずべき罪人になってしまった。
悪さはしないのよ、とルッツに何度も言い聞かせていたのに、今はわたしの方がずっと悪い。
翌日、礼拝堂の結界が壊されているのが発見されると、不自然な位すぐに、わたしが犯人だという噂が流れだした。
わたしが魔女で、高貴な人達をねたんでいるから。
深く考えるまでもなく、それは王妃が流した噂だとわかった。
団長に呼び出され、事の真偽を問われたけれど、わたしは何も言えなかった。
以前から、上からの圧力でわたしが王立騎士団を解雇されるという噂が流れていた。
単純にヨハン王が平民のわたしを嫌っているのかと思っていたけど、そうじゃない。
あれは王妃の布石だったんだ。
用が済み、いらなくなったわたしを排除するための。
いつだって汚いものを見るような目で孤児を見るくせに、本当に汚いのは、貴族の方じゃないか。
貴族なんて、大嫌いだ。
わたしは心の底からそう思っていた。
――リーゼロッテ様に会うまでは。




