25.おかえりなさい
翌日、わたしは朝からグレーデン公爵邸の庭園を散歩していた。
そこは、迷子になりそうな位、ものすごく広い庭園だった。
イングリッシュガーデンのように、自然の草木や池や小高い丘をそのまま生かした美しい風景が広がっているんだけど、広すぎてハイキングに来た気分になる。
マルゴット様が用意してくれたローヒールを履いているけど、正直スニーカーが欲しいところだ。
でも、今朝もマルゴット様の臨席のもと、しっかり飲まされた丸薬が効いているおかげで、胸の痛みはほとんど感じない。
少しずつ運動しなさいとハーマン先生にも言われたし、今日は、丘の向こうに見えるあの東屋まで行ってみよう。
「はあ、はあ…遠い…!」
すぐ近くに見えた東屋は、歩いても歩いても一向に近づいている気配がない。
あれ、実際はめちゃくちゃ遠いんじゃないか…。しかも、意外と地面に高低差があって、歩くのに結構疲れる。
もっと気軽にぐるっと回れる庭園かと思った。全然気軽なサイズじゃないよ! ぐるっと回るのに半日かかるよ! 公爵邸、恐るべし!!
「大丈夫か?」
膝に手をついて息を整えていたら、上から声が降ってきた。
顔を上げると、隣にエアハルト様が立っていて、わたしを見下ろしている。
会うのは数日ぶりだ。
3日も泊まり込みで仕事なんて、大変だっただろうな。いつも一分の隙もないエアハルト様が、珍しく制服の首元を緩めている。目元にもうっすらと隈ができていた。
わたしの散歩の疲れなんて、一気に吹き飛んでしまった。
ようやく会えたエアハルト様に、わたしは弾んだ声で言った。
「おかえりなさい、エアハルト様」
エアハルト様はちょっとびっくりしたような顔をした。
…しまった。わたしの家でもないのに、つい、おかえりなさい、って言ってしまった。失礼だったかな…!?
だけど、彼は普通に返事をしてくれた。
「…ただいま。もう歩いて大丈夫なのか?」
「はい。色々とありがとうございました」
よかった、怒ってない。
エアハルト様はわたしの進行方向にある、近いようで遠い東屋を見て言った。
「あの東屋へ行こうとしたのか?」
「ええ…でも意外と遠いんですね」
「そうだな。初めてだと、この庭は距離感が測りづらい」
すっと、エアハルト様が肘を浮かせた。
「掴まれ」
「はっ…はい」
わたしはエアハルト様の左腕に自分の右腕を預けた。
それを確認して、ゆっくりとエアハルト様が歩き出す。
さっきよりも、ずっと歩きやすい。
目の下に隈がある位だから、本当は疲れているんだろう。
なのに、わたしの散歩に付き合い、エスコートまでしてくれるなんて、申し訳ないような気もする。
だけどわたしにはエアハルト様に話したいことがあったし、多分彼の方もそうなんだろう。
〇〇〇〇〇
石造りの白い東屋の周囲には、バラやデルフィニウムが咲いていて、二羽の蝶がひらひらと舞っていた。
花に囲まれたその小さな東屋に入り、ベンチに向かい合わせに座る。
と同時に、わたしは口を開いた。
「ごめんなさい!!」
エアハルト様が怪訝な顔をしてわたしを見る。
「騎士団本部にいると約束したのに、勝手に出て行ってしまってごめんなさい!」
先手必勝…じゃないけど、とにかくまず謝らなくちゃいけない。
あの日、はっきりと本部で待っている、って約束をしたのに、わたしが破ってしまったんだから。
でも、エアハルト様はあっさりと言った。
「ああ…それならもう聞いた」
「聞いた?」
「そうだ。お前を馬車に乗せ、この屋敷へ連れてくる途中、お前は何度も俺に謝っていた。…高熱で意識が朦朧としていたのだろう。憶えていなくとも無理はない」
はい、全く憶えてません!!
…何度も謝っていた? 本当に何も憶えていない。わたし、何を口走っちゃってたんだろう? 他に、ぽろっと変なこと言ってたりしないよね!?
動揺するわたしを安心させるように、穏やかな口調でエアハルト様が言った。
「そのことはもういい。俺達が魔獣を鎮圧した後に、王妃付きの女官に連れて行かれたのだろう? 本部にいた女官に聞いた」
「…はい」
ごめんなさい、という言葉をぐっと飲み込む。かわりに、疑問を口にした。
「どうしてあの時、わたしの居場所がわかったのですか?」
「…ソフィアだ」
「ソフィア?」
「ああ。彼女はお前が王宮に来ていることを、大量の結界石が届けられたときに知った。戦闘が終わり、ソフィアは礼を言おうとお前を探していた。そのときに俺と合流し、一緒に本部3階のあの部屋へ入ったが、お前はいなかった。本部にいた女官達も、お前の行き先は知らなかった」
エアハルト様の目が、わたしの手首のブレスレットに移る。
「…まだ事後処理があったから、俺は一度仕事に戻ろうとした。だがソフィアはお前を探すべきだと強く主張した。お前にかけた結界魔法が反応している、と言って」
「結界魔法?」
わたしは驚いて聞き返した。
ソフィアに魔法をかけられている? わたしが? ――全然気がつかなかった!!
「そのブレスレットをお前に渡す際、ソフィアは微弱な結界魔法をかけた。鎖の輪が魔法陣代わりとなって持ち主の状態を察知し、現在地点とともにソフィアに通知するというものだ。その魔法が反応し、お前が何らかの危険な状態にいると判断して、彼女は即座に救出を要請した。それを受けて俺は本部にいた騎士をかき集め、西の離宮へ向かった、という次第だ」
「そう…だったんですか…」
そんな…みまもりケータイみたいな親切な機能をつけてくれていたのか…ソフィアってば、なんて優しい子なんだろう。
もし、それがなかったら、今頃わたしは死んでいた。
そう思うと、今更ながらぞっとする。
青ざめたわたしに、エアハルト様は軽い口調で言った。
「ソフィアは、お前には無鉄砲なところがあるから心配で魔法をかけておいた、と言っていたが。便利なものだな。俺も結界魔法を使いたくなった」
「そ、そんな…」
それじゃあまるでわたし、小学生だ。ソフィアとエアハルト様に常時見守られて過ごすなんて、情けないにも程がある。…まあ、全て自分のせいなんだけど!
わたしは一つ咳払いをして、気を取り直した。
「…それでしたら、ぜひともソフィアにお礼を言わなければなりませんわ! お世話になっている身で厚かましいお願いなのですが、あいにくわたしは遠出のかなわぬ身。ですので、ソフィアをこのお屋敷に呼んでもよろしいでしょうか?」
「それは構わないが」
エアハルト様は、ぐっと身を乗り出し、わたしの目を覗き込んだ。
「その前に、西の離宮であったことを全て話せ。誰に呼び出され、襲われた?」
…来た!
そうだよね、そこ、聞くよね。
でも…まだ言えません!
王妃のことを話せば、必然的にソフィアの関わりも話すことになる。
「…申し訳ありません。それはまだ、お伝えできません!」
「…まだ…?」
「はい! まだ、です!!」
王妃はわたしに嘘の情報を流させようとしていた。
騎士団を遠ざけたがっているのは、十中八九、王宮に魔獣を呼び込むためだ。
全体が結界で守られているはずの王宮に魔獣が侵入できるのは、要となる礼拝堂の結界が壊されたから。
そして、礼拝堂の結界を壊したのは、たぶん王妃に脅されたソフィア。
…もしかしたら、オラシエ王国の各地の結界を壊したのも。
だけど、確証はない。本人に聞かない内は、わたしはエアハルト様に何も言えない。
ソフィアと幸せになってもらって婚約破棄、というわたしの打算など抜きにしても、こんなに重要なこと、本人に確かめてからじゃないと絶対に伝えられない。
それに、これはエアハルト様のお父様の仇討ちにも関係してくる、極めてデリケートな問題だ。
なおさら今は、彼に話すわけにはいかなかった。
わたしを貫くような冷たい青灰色の瞳にたじろぎそうになりながら、わたしは必死にエアハルト様を見つめ返した。
エアハルト様の表情がどんどん険しくなる…ひぃっ、怖い…! でも、耐えるんだ…!
エアハルト様が視線を外し、小さく息を吐いた。
「では、いつ俺に話すつもりだ?」
「それは…ソフィアに会った後で、必ず」
「…わかった」
よかった…! こ、怖かった…!
わたしは肩の力を抜きながら言った。
「ありがとうございます」
さやさやと気持ちのいい風が東屋を吹き抜ける。
蝶達が、楽しげに花の上で戯れている。
のどかな光景の中、気詰まりな沈黙を破るように、エアハルト様が言った。
「そういえば、宮廷でノルドハイム伯爵にお会いした」
「おっ…お父様に、ですか…!」
わたしは、通りすがりのプロレスラーに突然胸倉を掴まれたような気分になった。
お父様がエアハルト様の前に現れた――悪い予感しかしない。
「お前のことをとても心配していた。それと…」
「それと…?」
「…だいぶ惚気られた。お前の両親は、とても仲がいいようだな」
苦笑いを浮かべて、エアハルト様が言う。
わたしは火がついたように真っ赤になった。
「すっ、すすすすみませんっ!! お父様ったら、いつでもどこでもどなたにでもお母様の話をして! 本っ当に困りますわっ!!」
ああっ、こっぱずかしい!!
よりによって、宮廷でエアハルト様に惚気るだなんて! 団長代理で死ぬ程忙しいっていうのに! 社交が命の貴族が空気読めないってどういうこと!?
穴があったら入りたい。思わず両手で顔を覆ったら、頭に何か温かいものが触れた。
見ると、それはエアハルト様の手だった。わたしの頭をぽんぽんと撫でている。
「気にしなくていい。両親の仲が良く、健在なのは何よりだ」
エアハルト様に優しくそう言われて、ぎゅっと胸が痛くなる。
彼の父親は、もうどこにもいない。
「ありがとうございます。…ですが、うちのお父様は、トリス、トリスとうるさかったでしょう?」
「…いや、そんなことはない」
今! ちょっと否定に時間がかかってたよ!
誤魔化すように、エアハルト様が言った。
「お前の母上の名は、ベアトリス、というのか?」
「はい」
「そうか」
エアハルト様が、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「それでは俺も、お前をロッテ、と呼んでいいか?」
「え…」
この東屋は小さいから、エアハルト様の顔が近い。
きれいに澄んだ瞳に、わたしが映り込んでいるのが見える位に。
「…はい。もちろんですわ!」
そう返事をすると、エアハルト様の表情が、ふっと緩んだ。安心したみたいに。
わたしの口元も、自然に緩む。
リズでもリジーでもなく、ロッテ。
悪役令嬢らしからぬ、かわいらしい愛称だ。
でも、なんだかすごく嬉しい。
エアハルト様と、もっと仲良くなれたみたいで。
もっと、仲良く…。
ん?
あれ。
ちょっと待って。
――こういうイベントが、確かあった。
ゲームの中で。
ソフィアがエアハルト様のお屋敷を訪れ、東屋で――ちょうど、こんな東屋だった――エアハルト様がソフィアのことを初めて愛称で呼ぶ、とてもとても重要なイベント。
うららかな日だと言うのに、わたしの全身からすっと血の気が引いた。
わたし、ソフィアのイベントを横取りしてしまった――!?




