20.深淵を覗く
※暴力描写があります。
「ソフィアは魔女よ」
ビスクドールのように優美な顔の、ガラス玉のように感情を表さない灰色の瞳で、王妃は劇の台詞を諳んじるように言う。
「彼女は自分の恵まれない境遇を逆恨みして、この国の結界を壊し、魔獣を使って滅ぼそうとたくらんでいるわ」
そ・ん・な・は・ず・は・な・い・だ・ろ!!
…と、心の中でつっこみを入れつつ、わたしは今度は口を挟まないよう、じっと耐えながら聞いていた。
本当に腹が立つ。
だけど、喋らせていればぼろが出るはずだ。
王妃はソフィアに罪を被せようとしているから。
いつも人の言葉に自分の言葉を被せてくるように、きっと、髪の毛一本ほどの罪悪感も感じずに。
だから、王妃がソフィアの罪として話す内容は、彼女自身が犯した、あるいは今後犯す罪である可能性が高い。
…だけど、黙って聞いていたら、王妃はとんでもないことを言い出した。
「ねえ、いいこと? あなたの婚約者の父、グレーデン公爵が亡くなったのもソフィアのせいよ。彼女が各地の結界を破壊して回っているから、南へ休暇に訪れた公爵一家が魔獣に襲われたの」
わたしはそれを聞いて、凍り付いたように動けなくなった。
グレーデン公爵…エアハルト様のお父様が魔獣に襲われて亡くなったのは、その地方の結界が壊されていたから?
だとしたら、公爵が亡くなったのは結界を壊した犯人――おそらく王妃が人を使ってやらせたんだろう、王妃自身だってたいした魔力を持っていないから――のせいだということになる。
つまりエアハルト様の仇敵は、直接的には、あの左翼に十字傷のある翼竜だけど…。
間接的には、王妃その人だということになる――?
わたしが呆然としている間にも、王妃は喋りつづけた。わたしは急いでその話の内容に意識を戻した。
「あの魔女は礼拝堂の結界も破壊し、それを足掛かりに王宮全体の結界構造を滅茶苦茶にして、国王陛下に仇なそうとしているのよ。だからね、あの魔女に王宮の結界の再構築を邪魔させないために、あなたも協力してちょうだい。あなたのその、予知魔法…なのよねえ?」
ここで王妃は厭味ったらしく苦笑した。
表情一つ変えずそれを無視することに成功した自分を褒めてあげたい。
「…その予知魔法だと言って、騎士団長に、魔獣の大群が北のマルムの都に来ると伝えなさい。王立騎士団を全軍そちらへ派遣させるの。その間に王宮の結界を張り直させるわ。ソフィアにはわからない場所に、基礎となる結界石を隠して。いい? わかったかしら?」
王妃が喋り終わり、幼い子どもの反応を窺うように、わたしの顔を覗き込んだ。
これで、引き出せる情報は全部のようだ。
わたしは深く息を吸い、王妃に言い放った。
「…つまり、あなたご自身がこの国の各地の結界を壊して回り、礼拝堂の結界も破壊し、国王陛下に仇なそうとしている魔女だ――というわけですわね?」
「…は?」
王妃が恐ろしいほどの無表情でわたしを見た。
これは、ビンゴだろう。
王妃は自分に都合の悪い話題になると、無表情になって黙り込む癖がある。
王妃が結界を破壊させて、この国に魔獣を呼び込んでいたんだ。
「王妃ディートリンデ、あなたは陛下に隠れて不倫をなさっている。それを隠そうと国の礎たる結界を破壊し、民を魔獣の危険にさらし、その罪をソフィアになすりつけて、あまつさえ魔獣に陛下を弑させようとしているんですわ。王立騎士団をマルムへですって? その隙に魔獣を王宮へ呼び寄せるつもりですわね? いいえ、わたしは断じてそんな悪行には手を貸しません!!」
わたしは声も高らかに、きっぱりと王妃に宣言した。
ふっ、決まった…。
わたしは清々しい気分で王妃に背を向け、扉へ向かって歩き出した。
まだ扉の前に立っていたアンヌさんが、ちょっとたじろいでわたしを見る。
でも、大丈夫。
アンヌさんも王妃も小柄で細身の女性だし、王妃にいたってはガリガリと言ってもいいほどの華奢な体型だ。
男性にとっては可憐で庇護欲をそそられるかもしれないけど、長身で人並みに体力もあるわたしが、喧嘩をして負ける気はしない。
「お待ちなさい」
背後から、王妃の冷然とした声が飛ぶ。
それから、ずしん、と重い足音。
王妃のものではありえない足音が、聞こえた。
わたしは恐る恐る、後ろを振り向いた。
王妃の背後、薄い紗の奥から、2メートルはある筋骨隆々とした大男が、ぬっと現れた。
「ホルガー、あの女を捕まえて」
王妃が命じると同時に、そのホルガーと呼ばれた大男は、その巨体からは信じられない程素早い動きでわたしに突進してきた。
わたしは反射的に猛ダッシュして扉から出ようとした。
その前にアンヌさんが立ちはだかる。
彼女は小柄な女性だ。
でも、わたしが部屋から出る邪魔をするためにドアノブにかじりつく位なら、体格差は大した問題ではなかった。
アンヌさんとドアノブを巡って押し合いへし合いしている間に、ホルガーに横から突き飛ばされ、わたしはゴムボールのようにたやすく吹っ飛んだ。
大きな音を立てて床に転がる。
痛いけど、それよりも暴力を振るわれたショックに呆然となる。
あの大男には見覚えがあった。
よく王宮の中庭で、草木の手入れをしている男だ。
わたしが挨拶をしても、陰鬱な目を向けてくるだけで一度も挨拶を返されたことはない。
そもそもあの男が喋っているところを見たことがない。
喉に大きな傷跡があったから、もしかしたら、喉を潰されているのかもしれない。
それなら、わたしがここから出て王立裁判所に駆け込んだところで、あの男は何一つ証言できないことになる。
痛みと恐怖に、ふらふらしながら立ち上がる。
ホルガーが容易くわたしの腕を捕んだ。
痛い。ものすごい握力だ。このまま骨を折ることだってできそうな。
ホルガーが王妃を見た。
王妃は勝ち誇った顔でゆっくりとこちらへ近付きながら、手下に命じた。
「首を締め上げなさい」
嘘でしょ?
もちろん嘘じゃなかった。
ホルガ―はわたしの首に手をかけ、片手でひょいと持ち上げた。
「ぐっ…!!」
苦しい。顔が真っ赤になっていくのがわかる。
息ができない!!
「…考え直したかしら?」
王妃の問いに、わたしは答えることができなかった。
ばたばたと足を動かして必死に逃れようとしながら、なんとか頷こうと、頭をわずかに上下に振る。
王妃は冷酷な笑みを含んだ声で言った。
「あらそう? ふふっ、残念ね、もう遅いわ。あなたはこのわたくしを侮辱した。死をもって償いなさい」
ああ、終わった。
やっぱり王妃は最強の破滅フラグだった。
顔を見たとたんに全力でここから逃げればよかったんだ。
それとも最後の捨て台詞を言わなければよかった?
馬鹿すぎる。
後悔したって遅いのに。
意識が遠のき、もがく力もなくなっていく。
全ての感覚が消えそうな中で、一瞬、エアハルト様の声が聞こえた気がした。
約束を破ってごめんなさい、エアハルト様。
どうか、ソフィアと幸せになってください。
…だけど、少しだけでいいから、わたしのことも憶えていてほしい。
あなたが時々思い出してくれたら、ほんのささやかな記憶でもいい、わたしがこの世界に生きていたことを憶えていてくれたら、それでもう、わたしには思い残すことなんてないから――。
意識が白く飛びかける。
どさり、と床に落とされて、わたしは激しく咳き込みながら肺に空気を送った。
死ぬ。
ほんと死ぬ! 危ないとこだった!!
たった今、自分が死の深淵を覗いていたことに気づいて、遅まきながら総毛立つような恐怖に襲われた。
だけど、どうして助かったんだろう?
「…ロッテ! リーゼロッテ、そこにいるのか!? 返事をしろ!!」
建物の外から、エアハルト様の叫び声が聞こえた。
どんどん、と強く扉を叩く音も。
他にも何人かが外にいるようで、わたしの名を呼ぶいくつかの声が聞こえてくる。
「王妃様っ、どういたしますか!?」
アンヌさんが小声で、ヒステリックに尋ねた。
ホルガーはなぜか怯えたように頭を抱え、騎士達の声がする度にびくりと巨体を震わせている。
騎士が苦手なのかもしれない。これじゃあ、もう役には立たなそうだ。
王妃は扇を開き、傲然と言った。
「無視しなさい。放っておけば去るでしょう」
だけど王妃の目論見は外れた。
外から扉に体当たりをして、強行突破を図る音が聞こえてきたからだ。
王妃達の顔色が変わった。
「なんなのよ、あの連中は! 頭がおかしいんじゃないの!?」
「王妃様っ! 裏口から、お早く…!!」
王妃は、わたしを睨み据えて言った。
「…いいこと? 今日のことは他言無用よ。誰かに言えば、あなたと、あなたの家族の命はないと思いなさい。まあ、言ったところで信じる者など誰もいないでしょうけれど」
さっきまで首を締め上げられていたわたしはとても喋れる状態じゃなかったけど、そもそもわたしの返答は必要とされていないようだった。
王妃はアンヌさんとホルガーを連れ、足早に部屋を出て行った。
それからすぐに正面の扉が破られ、いくつもの足音が館内に響いた。
こちらへ近づいてくるその足音を聞きながら、わたしは気を失った。




