18.二人の女官
イレーネさんは美しいほほ笑みを浮かべたまま、わたしに言った。
「どうしたの、リーゼロッテ? こちらへいらっしゃいな。みんなあなたを待っているわ」
「待っている、って…どういうことですの?」
わたしは警戒した眼差しを彼女に向けた。
以前、わたしが前世の記憶を取り戻す前は、わたしはよくイレーネさん達女官に混じって王妃の部屋に入り浸っていた。
それが貴族のステータスだと勘違いして。
王妃がわたしを利用するだけ利用して、ゴミのように捨てるだなんて思いもせずに。
王妃はあの乙女ゲームの中でわたしがエアハルト様に告訴されたとき、どさくさ紛れに自分の不倫の罪をもわたしになすりつけた。
そのせいで、わたしは残りの一生を辺境の塔で幽閉されて生きることになる。
そもそもゲームのリーゼロッテがソフィアを度を越していじめていたからいけないんだけど…それにしたって、塔での終身刑を受けることになった理由は、不倫の冤罪も大きい。
だからこそお父様もお母様も、外聞のためにわたしを庇うこともできず、見殺しにせざるをえなかったんだ。
そんなことはもちろん知らないイレーネさんは、楽しそうにわたしに言った。
「宮廷の女性の一部がこの建物に避難していたの。ここには頑丈な結界が張ってあって、王宮と同じくらい安全だからって。せっかく王立騎士団の魔獣退治というビッグイベントなんだもの、どうせなら近くで観戦したいでしょう?」
「観戦、って…」
あまりの呑気さに絶句したわたしに、イレーネさんは無邪気に続ける。
「みんな2階にいるのよ。女官の一人があなたを見かけたって言うものだから、わたし、魔獣退治もそっちのけであなたを探していたの」
いや、そこはおとなしく魔獣退治を観戦しててほしかったです!
そんな心の叫びが聞こえるはずもなく、イレーネさんはぐっとわたしの腕を引いた。
「ねえ、いいでしょう? ちょっとだけいらっしゃいよ。みんなあなたとエアハルト様の話を聞きたくてうずうずしているのよ」
元々、イレーネさんはとっても情報通でゴシップ好きの人だ。
だから、エアハルト様とわたしの仲がどうなっているのか興味津々だとしても不思議じゃない。
ちょっと、いや、かなり迷惑だけど。
でも同時に、彼女は王妃の部屋付きの女官だ。
だから、ゲームの通りにわたしに不倫の罪をなすりつけたいと考えた王妃の命令で、わたしを連れて行こうとしているとも十分に考えられる。
わたしはイレーネさんの手をやんわりと振りほどこうとした。
意外なほどに強い力で握られていて、振りほどけない。
「ごめんなさい、イレーネさん。エアハルト様に、ここから出てはいけないと言われていて」
わたしがそう言うと、彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「あら、あの強気だったリーゼロッテが、今はお堅い婚約者の言いつけを忠実に守るいい子ちゃんというわけ? うふふ、そのあたりの心境の変化もじっくり聞きたいわね。さ、行きましょう」
「イレーネさん、待ってください…!」
イレーネさんは強引にわたしを応接室から引きずり出し、ずんずんと廊下を歩いて行く。
ううっ…、エアハルト様と約束したのに…!
イレーネさんはこれまでリーゼロッテが仲良くしていた人なだけに、きっぱりとは断りづらい。
あまり強く言うと怪しまれそうだし、3階から2階の部屋に移動するだけならなおさらだ。
彼女が王妃の手の者だとしても、そうでなくても、これから行こうとしている部屋にはおそらく王妃ディートリンデがいる。
王妃はわたしにとって最強クラスの破滅フラグだ。
できれば絶対に会いたくない。
会えば、加速度的にわたしの破滅が近づくような予感があった。
だけど、階段を下りて廊下を歩くと、その扉はもう目の前にあった。
わたしは恐怖にかられ、イレーネさんの手を強く振り払った。
「イレーネさん、わたし…!」
「まあ、リーゼロッテじゃない!」
突然声をかけられて振り返ると、廊下に女官のアンヌさんが立っていた。
笑顔でこちらへ近づいてくる。
イレーネさんが雲行きの悪さを感じ、細い眉をひそめた。アンヌさんはイレーネさんよりも年上で、身分も高い。
そして、恋多き女であるアンヌさんは、以前、わたしの占いの大のお得意さんだった。
アンヌさんが言った。
「あなたもここに避難していたの?」
「ええ、まあ」
「そうだわ、お願いがあるんだけど…一度だけでいいから、また恋占いをしてくれないかしら? どうしても振り向かせたい殿方がいるのよ」
アンヌさんはわたしの手を握って懇願した。
イレーネさんは明らかに気分を害した顔で、アンヌさんとわたしを見ている。
女官の階級は厳しいから、アンヌさんには逆らえないんだ。
わたしは内心ほっとして、頷いた。アンヌさんが天使のように見える。
以前のリーゼロッテを真似て、ちょっと高飛車に言う。
「まあ、それなら仕方がないですわね…わかりましたわ」
アンヌさんは、いつもわたしと二人きりになってから、恋占いを聞いた。
恋多き女だけど、毎回それは熱心にお相手に入れあげているのだ。
優しい旦那さんがいるのにものすごく真剣に占いに耳を傾けるアンヌさんに、わたしは時々心配になった位だ。
だけど、それが今はありがたかった。少なくとも王妃や女官達のいる部屋には向かわないはずだ。
その読み通り、アンヌさんはわたしの手を引き、イレーネさんをちらりと見た。
「悪いわね、イレーネ。リーゼロッテは借りていくわ」
「…火遊びも度を超すと、身を滅ぼしますわよ」
イレーネさんは負け惜しみのようにそう言い、扉を開け、一人で部屋に戻った。
「じゃあ行きましょうか、リーゼロッテ」
「はい。では3階の応接室で占いますわね」
これ幸いと元の部屋に戻ろうとするわたしに、アンヌさんは恥ずかしそうに言った。
「…実は、相手は王立騎士団の方なのよ。本部にいたら彼に出くわしてしまうかもしれないから、ちょっと西の離宮まで来てもらってもいいかしら?」
西の離宮は、騎士団本部から礼拝堂と反対方向に200メートルほど離れた小宮殿だ。鬱蒼とした木立の側にひっそりと建っていて、普段はあまり人が寄りつかない。
結局、エアハルト様との約束を破ることになってしまうけど…占いを引き受けた以上、ここで断るのは不自然過ぎる。
しばらくはエアハルト様も魔獣退治の事後処理で忙しいだろうし、占いが終わったらすぐに戻れば大丈夫と思って、わたしは承諾した。
〇〇〇〇〇
人目をはばかるように歩いて西の離宮に着くと、アンヌさんはわたしを中へ通した。
昼間なのに、全てのカーテンが引かれていて薄暗い。
外は晴れているのに、どうしてカーテンを引いているんだろう。
占いにはうってつけの雰囲気だけど…。
「こっちよ、リーゼロッテ」
アンヌさんが部屋の一つに入って、わたしを手招きした。
わたしも後からその部屋に入る。
館全体と同じように薄暗いその部屋に入ると、わたしははっとして動きを止めた。
薄い紗が天蓋のように垂らされた奥の間に、一人の女性が座っている。
金色の繊細な巻き毛に、ビスクドールのような灰色の瞳。
一見したら庇護欲を掻き立てられるような、控えめで愛らしい容姿の女性だった。
王妃ディートリンデは。
彼女は小鳥の囀りのようなかわいらしい声で、わたしに言った。
「リーゼロッテ。また会えて嬉しいわ」