14.幸せな一日(後編)
その夜間営業の紅茶店は、広い王都の中でも山の手に位置していて、二階のテラス席からは王都の夜景が一望できた。
「わあ、綺麗…」
テラスの手すりから身を乗り出すようにして、わたしはその景色に見とれた。
前世ではもちろん、宝石箱をひっくり返したようなキラキラした日本の夜景を見慣れていた。
だけど、今見ているものはそんなものすごいLEDの光の海じゃなく、ささやかなともしびがいくつも寄り添い、それぞれの場所であたたかい光を放っているような、そんな夜景だ。
それはとても綺麗だった。
王都に暮らす人達の温もりまで感じられる気がして、わたしはしばらくその夜景に見入ってしまった。
気がつくと、エアハルト様もすぐ横に立って、同じようにその夜景を眺めていた。
くつろいだ穏やかな横顔を見れば、彼もここを気に入ってるんだとわかる。
客席は明るく落ち着いた雰囲気で、階下からは弦楽団の美しい四重奏が流れてくる。素敵なお店だ。
「あそこのたくさんある灯りが王宮ですか?」
「いや、あれは市庁舎で、王宮はその北を流れる川の向こうだ」
あの灯はあれで、そっちは何で、とエアハルト様と話していたら、紅茶が運ばれてきた。
わたし達は席について熱い紅茶を飲んだ。
少し冷えた体が温まる。
芳醇ないい香りがして、目の前にはリラックスした様子のエアハルト様もいて、わたしは柔らかなクッションのついた豪華な椅子に体を沈めている。
ああ、幸せだ。
…って、幸せな気分に浸ってる場合じゃない!!
そうだ、そもそもわたしはエアハルト様と話をするためにここに来たんだった。
「俺に興味がないのかと思っていた」なんて言われたから。それは違うとわかってほしくて。
…ん?
でも、違うってことは、興味があるってことで。
それってつまり、好きだってこと…?
…いやでも、エアハルト様にはソフィアがいるし。
そもそもわたしは悪役令嬢で、今のところ無難に過ごしているけれどいつ転落人生ルートに戻るか油断はできない。だから…。
だから、ここでわたしから婚約破棄を提案するべきなんじゃないか!?
…いやいやいやいや。
こんないい雰囲気でそんなこと言い出せるわけがない。
それに、いきなり言われたら多分エアハルト様は傷つくし、わたしのことを嫌いになるだろう。
それはとても…嫌だ。
「どうした? リーゼロッテ」
「あっ…いえ、その…」
そのとき階下から新しいお客さんが来た。
「まああー、素敵じゃない! テラス席から夜景が見えるわよ、ロベルト!」
「おや、本当だね。でもどんな夜景だって君の美しさには敵わないよ、トリス」
わたしの顔からさっと血の気が引いた。
この声、あの名前――振り返らずともわかる。
間違いない、わたしの両親だ。
「リーゼロッテ?」
「エアハルト様、こちらへ!!」
わたしは素早く立ち上がるとエアハルト様の手をさっと引き、窓の脇でゆるくまとめられている分厚いカーテンの間に、二人でもぐりこんだ。
カーテンの中は暗くて狭くて、気がつくとわたしはエアハルト様とほぼ密着していた。
「リーゼロッテ、これは…」
困惑するエアハルト様に、わたしは小声で言った。
「すみません、エアハルト様! 少しの間辛抱してくださいまし! …わたしの両親がそこにいます」
「ご両親が? それならご挨拶せねば」
「駄目です!! そんなことをしたら最後、お父様がこれは運命だとかなんとか言い出して、店中の人にお酒を振る舞いはじめ、朝になるまで相手かまわずお母様とわたしとエアハルト様の自慢話をして回ることになります。そうなれば、絶対に途中で帰してはもらえません。お父様はいい人なのですが、死ぬ程面倒臭い人なのです」
「…そうか。それは困ったな」
「申し訳ございません。しばらくすれば両親も帰ると思いますので…」
「俺は構わないが…本気で隠れ通すつもりなら、このままでは対象から怪しまれる。もう少しこちらへ」
なぜかここで軍人の顔になったエアハルト様は、わたしの体を押したり引いたりしてあちこち調整し始めた。
最終的に、わたしはエアハルト様と一部の隙もなく密着していた。
完璧だ。
これなら外からカーテンを見た人は絶対に中に人間が隠れているとは思わないだろう。
しかも二人も。
…だけど、困る!
こんなにくっついたままでは、あと5分ももたずにわたしの心臓が壊れてしまう!!
きゅっ、と。
そういえばずっとエアハルト様の手を掴んだままだったわたしの手が、握り返された。
ただ握るんじゃなくて、温かくて大きな指を、一本一本絡めて。
エアハルト様…それ、恋人つなぎって言うんですよ!?
これは何の拷問だろうか。
いやわかってる。
これはわたしが始めたことで、エアハルト様は協力してくれただけなんだけど、脈拍が上がり過ぎて苦しい。
でも、ぴったりとわたしの顔が押し当てられたエアハルト様の胸の鼓動も、わたしと同じくらい速く動いていて。
…もしかしたら、軍人らしく不動の姿勢でわたしを抱き止めてくれているエアハルト様も、動揺しているのかもしれない。
幸か不幸か、その時間は長くは続かなかった。
突然、店内が騒然としたからだ。
「きゃああああっっ!! 魔獣よっ!!」
誰かの金切声が上がると同時に、エアハルト様はカーテンから飛び出した。
わたしも急いで後に続く。
目の前の光景が信じられなかった。
悲鳴や怒号、足音や食器の割れる音が飛び交う中で。
テラス席では、額から血を流したお父様が、背後で腰を抜かしているお母様を必死でかばっている。
その視線の先、月夜の空に、翼をはためかせホバリングする中型の翼竜が一体。
丸腰のお父様に、今にも襲いかかろうと狙いを定めていた。
「お父様っっ!!!」
わたしは悲鳴を上げた。
それを合図にしたように、翼竜はお父様目がけて急降下してきた。
鋭い爪がお父様を引き裂く直前、翼竜の胸部に短剣が突き刺さった。
エアハルト様が投げたものだ。
翼竜はもんどりうって店内に転がり込んできた。
衝撃でテーブルや椅子が吹っ飛ぶ。
怒りの叫びを上げながら体勢を立て直そうとする翼竜にその隙を与えず、エアハルト様は今度は長剣を抜きざま、その首を一刀のもとに斬り落とした。
落ちた首がゴロゴロと他のお客さん達の足元へ転がり、新たな悲鳴が上がる。
すごい。
通常は一つの部隊で連携して倒すはずの魔獣を、しかもその中でも難敵である翼竜を…たった一人で仕留めてしまった。
呆然としていると店内から喝采が巻き起こり、エアハルト様は見る間にお客さん達や店員にもみくちゃにされた。
わたしは急いで両親の元へ駆け寄った。
「お父様、お母様! 大丈夫ですか!?」
「リーゼロッテ!? なぜここに…私達は平気だ。お前こそ、大丈夫だったか?」
お母様を助け起こそうとしていたお父様が、驚いてわたしを見る。
よかった。二人とも、怪我はたいしたことなさそうだ。
「ご無事で何よりですわ! わたし、ちょっと失礼いたします!!」
ほっと胸を撫で下ろすと同時に、わたしは急いでその場を離れ、混乱してごった返す店の中にエアハルト様の姿を探した。
彼は一階に下りて店主に事の次第を伝え、事後処理を頼んでいたところだった。
話はもう済んだのか、わたしを見つけるとこちらへ来てくれた。
「怪我はないか、リーゼロッテ」
「はい。本当にありがとうございました、エアハルト様。父の命を救ってくださって…」
わたしは深々と頭を下げた。本当に、彼はお父様の命の恩人だ。
エアハルト様は青灰色の目を細めてわたしを見た。
「気にしなくていい、これが俺の仕事だ。それに今回はそれほど大きくない個体だったから、運が良かった」
「…では、あれはエアハルト様が探している翼竜では…」
「違う。俺の父を殺したのは、左翼に十字の傷跡のある、大型の翼竜だ」
吐き捨てるようにそう言ったエアハルト様の瞳が、暗く翳る。
その頬についている返り血を拭こうとハンカチを出したわたしを制して、彼は言った。
「俺はこれから騎士団本部へ行き、この件を報告しなければならない。悪いが、お前はご両親と一緒に家に帰ってくれ」
「わかりましたわ」
エアハルト様はそれからすぐに店を出ていった。
わたしも両親のところへ戻ろうと階段を上りかけたとき、近くにいるお客のおじさん達の会話が聞こえてきた。
「…そりゃあ今回はたまたま王立騎士団が居合わせたからよかったけどさ。一体どうなってるんだ? 最近、やけに多いじゃないか。魔獣の襲撃が」
「ああ、まったくだ。しかも聞いたか、あの噂? …王宮の礼拝堂に、近々、魔獣が三体も攻めてくるんだと」
わたしは片足を上げたまま凍り付いた。
な…なんで騎士団の機密事項を、普通の街の人達が知ってるの!?
「もちろん聞いたさ。その上、裏で糸を引いてるのは王立騎士団内の特別魔導士なんだろ? あの平民上がりの…ソフィア、だったか」
「そうそう、その魔女さ。まったく、騎士団もどうして早くそいつを火あぶりにしねえんだ?」
「証拠がないんだろ。お堅い騎士団だからな」
「そんなもの、でっち上げちまえばいいだろうに」
「まあ、騎士団長だって馬鹿じゃないだろう。遠からずそういう事になるさ」
わたしは目眩を感じて、階段の手すりにしがみついた。
…ちょっと待って。
なぜソフィアが魔女?
ありえない。
あのかわいくて健気なソフィアが魔女だなんて、断じてない!!
わたしはおじさん達に掴みかかって文句を言いたい気持ちをぐっとこらえ、明日の朝一番でギュンター様に会いに行こうと決意して、階段を駆け上った。