1.幽霊とわたし
ここに長くいてはいけませんよ、とその幽霊は言った。
「どうして?」
と、夜のバルコニーでわたしは聞いた。
わたしだって、別に好きでここにいるわけじゃない。
公爵家の舞踏会なんて気が重い。
それが、お互い好きでもない婚約者の主催だったとしたら、なおさら。
「もうすぐ北の山の魔獣がここへやってきて、舞踏会はめちゃくちゃになります」
「どうしてそんなことを知っているのですか?」
と、わたしはまた聞いた。
幽霊はかすかにほほ笑んだ、ような気がした。
目の前でぼんやりと白っぽいもやのようなものが人型を取っているだけなので、本当にほほ笑んだのかどうかはわからない。
幽霊は言った。
「あなたも知っているはずです」
そう言うと、幽霊はどこかへ消えてしまったようだった。
わたしは針で縫い留められたように、その場から動けなくなった。
わたしは確かに、これから北の山の魔獣がやってきて公爵家の舞踏会をめちゃくちゃに蹂躙することを、知っていたからだ。
〇〇〇〇〇
わたしは伯爵令嬢リーゼロッテ・フォン・ノルドハイム、17歳。
だけどリーゼロッテとして生まれる前は、ごく普通のゲーム好きの日本の女子大生だった。
お兄ちゃんの影響でゲームが大好きになり、子どもの頃からたくさんのゲームをプレイした。
そして大学生になって、初めて自分で買った乙女ゲームに出てきた登場人物の中に、リーゼロッテ・フォン・ノルドハイムの名前があった。
それは、何度も何度もいいところで主人公の邪魔をする、憎たらしい悪役令嬢の名だった。
その悪役令嬢に今、わたしがなっていることを、幽霊の言葉で初めて気づかされた。
そうだ。
わたしも一度死んだのだ。
大学のサークルの、新歓飲み会の帰りだった。
早く帰ってゲームの続きがしたくて、急いで横断歩道を渡った。
そこで交通事故に遭って…。
だけど、ついてない。
死んだ上に、あの乙女ゲームの世界で、よりによってリーゼロッテに転生してしまうなんて。
悪役令嬢リーゼロッテは、ノルドハイム伯爵の長女にして、グレーデン公爵家の長男エアハルト様の婚約者だ。
そのエアハルト・フォン・グレーデン様は、190cmの長身に、金茶色の短髪と氷のような青灰色の瞳を持つ、宮廷随一の騎士。
乙女ゲームの攻略対象なだけあって、すこぶる凛々しくハンサムな顔立ちをしている。
王家に次ぐ最上級の家柄に生まれ、曲がったことの嫌いな彼は、21歳という若さで王立騎士団の副団長という地位に就いた。
当然、高飛車で意地の悪い悪役令嬢である婚約者のリーゼロッテとは相性が悪いどころか、彼女を明らかに煙たがっていた。
ゲーム内でのエアハルト様は婚約者のリーゼロッテよりも、平民だけど強力な魔力ゆえに王国騎士団の特別魔導士として宮廷に召し上げられたヒロイン、ソフィアの強い正義感を気に入り、何かと世話を焼いていた。
それに嫉妬したリーゼロッテ、つまりわたしは、ソフィアに嫌がらせの限りを尽くす。
それがどんどんエスカレートして、ソフィアに命の危険が及ぶに至って、エアハルト様はついに王立裁判所にわたしを提訴する。
とある筋からどさくさまぎれに別件で濡れ衣も着せられ、わたしは有罪となって、王都の塔に一生幽閉されて過ごすことになるんだ…。
幽閉なんて嫌だ。
せっかく生まれ変わったんだから、のびのびとこの人生をエンジョイしたい!
幸い、わたしが今まで過ごしたリーゼロッテの人生において、ソフィアとの関りは薄い。
無意識にゲームの記憶が残っていたためか、わたしはゲームの中のリーゼロッテのように宮廷でソフィアに意地悪をしたことはなかったし、エアハルト様のこともそんなに好きでもないし、執着してもいない。
うん、幸先がいい。
このままソフィア達と距離を取って、あわよくばエアハルト様に婚約破棄してもらい、わたしは平穏無事に今生を全うすることにしよう。
よし。
とにかく今は、襲ってくる魔獣をどうにかしなければ。
〇〇〇〇〇
「皆さま、今すぐ避難してください! これからここに、北の山の魔獣が襲ってきます! 落ち着いて、全員避難を!」
わたしは大広間へ行って声を張り上げた。
楽隊が音楽を中断し、楽しげに踊っていた人々は何事かとわたしを見る。
もちろん誰もが高貴な身分の人達で、騎士団員だけど平民のソフィアは、今日はここには呼ばれていない。
ゲームの中では、わたしは魔獣に襲われて怪我をして、それを駆けつけるのが遅かったソフィアのせいだとわめきたて、一層エアハルト様に嫌われる事となる。
突然のわたしの非常識な行動に、今夜の舞踏会の主催者エアハルト様はつかつかとわたしに歩み寄り、厳しい表情で言った。
「どういうことだ、リーゼロッテ。北の山の魔獣? そんなものがこの館へ来るわけないだろう」
「いいえ、エアハルト様。どうか信じてください。もうすぐ魔獣がやって来ます。怪我人が出る前に、皆さんを避難させてください!」
エアハルト様は整った顔を歪めた。
わたしの言葉を信じたものか迷っている様子だ。
わたし達は数年前からの婚約者とはいえ、今までに顔を合わせた回数も少ないし、全然親しくはない。
だから先にエアハルト様に相談するより、まず騒ぎ立ててしまった方が避難の成功率もスピードも上がると踏んだんだよね!
「なぜ、お前にそれがわかる?」
「…予知魔法を習得したのです。ですから、お願いです。どうか早く」
エアハルト様は疑わしげにわたしを眺めた。
わたしも真剣に、彼の青灰色の目を見上げる。
リーゼロッテは王妃様のお気に入りで、宮廷では王妃様の部屋に入り浸り、あまり当たらない占いをして女官達を喜ばせていた。
でも、予知魔法はそんな子どもだましの占いとは違う、上級魔法だ。
そんなものを魔力の低いリーゼロッテがなぜ習得できたのかと、いぶかしんでいるのだろう。
だけど結局、真面目で慎重派のエアハルト様は全員を庭園に避難させ、自分は舞踏会の招待客の中から王国騎士団の精鋭を集めて、大広間で待機してくれた。
魔獣はほどなくやって来た。
屋敷の北側から足音を轟かせ、大広間の窓を破って。
だけど、待ち構えていた騎士団が連携してその巨大な四つ足の魔獣を追い詰めた。
最後には、エアハルト様の速くなめらかな剣の一閃が、魔獣の息の根を止める。
こっそり大広間の扉から覗いていたわたしは、思わずほれぼれと見とれてしまった。さすがは王立騎士団、という戦いぶりだ。
噂には聞いていたけど、エアハルト様はものすごく強い。
副団長の肩書は伊達じゃないんだ。
「本当だったな。魔獣も、予知魔法も」
剣を拭いて鞘にしまうと、エアハルト様はまっすぐにわたしの方へやってきて、ぼそりと言った。
隠れて見ていたのが、ばれてたのか。
わたしは気まずい思いで婚約者を見上げたのだけれど。
「…礼を言う。助かった」
ぶっきらぼうにそれだけ言うと、彼は中庭へ行き、招待客達へ舞踏会の中止と謝罪を告げた。
魔獣は倒したとはいえ、その死体や割れた窓ガラスの破片、散らばった料理などで、大広間はもうとても踊れるような状態じゃない。
ぞろぞろと帰り始めた人々の間で、わたしはなんとなく、忙しく彼らに挨拶をして回るエアハルト様を目で追っていた。
どういたしまして、も、失礼いたします、も言えなかったから、ちょっと気になってしまったのだ。
だけど馬車の用意ができたとノルドハイム家の従者が告げに来たので、わたしは公爵家の屋敷を退出した。
…そういえば、バルコニーにいたあの幽霊はなんだったんだろう?
ゲームの中で、幽霊が出てきた場面なんてなかったはずだ。
この世界には魔獣がいて魔法があるけど、「幽霊」は前世の世界と同じく、ほとんどの人には見えない。
もちろん、わたしが幽霊を見たのも初めてだ。
結果的には、あの幽霊のおかげで舞踏会のお客さんは誰も怪我をせずに済んだし、わたしも前世の記憶を取り戻せたんだけど…。
「…まあ、いいか」
そう呟いて、わたしは馬車に乗った。