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あの世行きの寄り道

作者: 紫神川悠

 ここに至る最後の記憶は夜の闇に響き渡るブレーキ音。それだけだ。


 まず最初にわかったことは、死んだからといって足が消えるのは嘘だということ。その証拠に、俺の足はお気に入りのスニーカーを履いているし、靴下もちゃんと履いている。


 服装は白装束ではなくジーンズにトレーナー。先ほどまで俺が着ていた服装のままだ。ショーウィンドウに映る自分の容姿は生きている時と何も変わってないように見える。子供の頃に火傷で出来た小さな傷跡も、左手にきっちり残っている。


「しかし、ここでミンチになっているヤツの顔が俺って事は、今ここにこうして立っている俺は死んでるってことなんだろうな」


 市街地の中、通りなれた交差点。停止した大型トラックのヘッドライトが、俺の足元に転がる死体を照らしていた。


 死への切り替わりがあまりに一瞬で苦しみさえ浮かべていないその顔は、顔を洗う時やトイレに行った時に鏡で見かける自分の顔に間違いない。


 俺を轢き殺してしまったトラックの運転手は、寝転んでいる俺を可哀相なぐらい青褪めながら見つめ、次第に集まってきた野次馬の目線も俺の死体と運転手に向いている。どうやら、死んだ人間が生きている人間の目に映らないのは本当らしい。


「……んで、俺は一体これからどうすりゃいいってんだ?」


 当然のことだが、生前俺の周りに死んだ経験のあるヤツはいなかった。死んでからどうするかなどさっぱりわからない。


「三途の川渡って、閻魔様に会って天国か地獄かに送られるって話があったけども……」


 消えなかった足の事もあるし、この話も信じていいかどうか。


 途方に暮れた俺は溜息をついていた。


「ま、そのうち死神か水先案内人かなんかが迎えにきて、どっかに連れてくんだろ」


 とりあえず生前の話を信じることにしよう。


 段々と騒々しくなる自分の死亡事故現場。俺はその喧騒から他人事のように離れて夜の町にくり出した。




「思ったよりつまらんな……」


 死んでから一晩経った感想がそれだった。


 誰にも見えないのをいいことに、生前入らなかった……もとい入れなかった高級料理屋に入ってみたものの、死んで空腹感というものが無くなったおかげで大して料理が美味そうとも思えないし、食べている者達を見ていても羨ましいとも思わない。


 それに加えて眠気を感じなくなったおかげで、生前睡眠にあてていた時間が丸ごと空いた。横になって目を瞑っていても全く眠れる気配が無い。何をするでもなくビルの壁に背中を預けて、ぼんやりとしながら朝を迎える事になってしまった。


 こうして朝日を眺めるのは久しぶりだ。仕事で徹夜した時に朝日を見た時はなぜか泣きそうになったものだが、死んでから感情が薄れたのか何も感慨がわかない。


「おや? アンタさん、新人じゃの」


 俺は突然声をかけられてビクリと体を強張らせた。


 死んでからこっち誰にも自分の姿は見えないのだから、当然俺は声をかけられるわけなど無く、俺もそろそろそんな状態に慣れ始めたところだったのだ。


「ホホホ、アンタさんのその驚き様はまさに新人じゃわな」


 老婆の声がする方を見ると、一匹の年老いた白猫が座ってこちらを見ていた。


「オレガミエルノデスカ?」


 驚きに言葉がたどたどしくなる俺を見て、白猫はもう一度愉快そうに笑う。


「ホホホ、新人は良くその言葉を口にしおるわい。見えいでか。猫はそういうもんじゃからの。それにワシゃ長生きじゃから、アンタさんのような者には敏感になってな」


「そういうもんかね」


 俺の半信半疑の声に少し気を悪くしプイと他所を向くと「まったく。猫といい人といい、最近の若いもんは……」と愚痴り始めた。


「あ、いや、何せ死んで間もないからそういう事に疎くて……。良かったら、もう少し話を聞かせてもらえないかな。えーっと……」


「絹じゃ。人は雪やら白やらと呼びよるがの。ワシを疑った事はまあええわいや。さて、何から話したものかの……アンタさん、聞きたい事はあるかや?」


 多少は機嫌を直してくれたらしい。


「そうだな……なんで俺のことが新人だとわかったの?」


「そりゃ、簡単な事じゃ」


 絹さんは俺の背中を前足で指し示す。


 その意味がわからない俺は、背中を壁から離すと何かついているのかと探ってみた。


 手には服の擦れる感触だけで何もない。


 その様子を見ていた絹さんがホホホと笑う。


「絹さん、どういうこと?」


 ただ笑う白猫に憮然として問う。今度は俺が機嫌を損ねる番だ。


「ああ、すまんの。いかにも新人らしい反応じゃで、初々しいというかなんというか、つい笑うてしもうた。死んだ後、まあ、俗に言う幽霊の状態に慣れたもんは壁に背をもたれるいうことはせんわさ。なんせ、壁に当たる生身の背を持っとらんのじゃから。それに、昨日の晩に近くの交差点で人が一人轢かれたと聞いていたんでの。昨日の今日で見かけん顔の幽霊がおるんじゃ。ホホ、察しは容易につくわさ。ホホホ」


 言われてみれば体が無いなら壁に当たるはずは無い。それは理屈ではわかるが、実際に俺はさっきまで壁にもたれていたじゃないか。


 俺は納得しきれずもう一度壁にもたれた。


「でも絹さん。俺はこうして壁にもたれていられるじゃないか」


 半分ムキになっている俺の様子が楽しいらしい。白猫はまだ笑ったままだ。


「ホホホ、そりゃ生きていた時の常識が邪魔しとるだけじゃ。ワシの話を嘘だと思うならその壁にもたれている背中を見てみい」


 言われるままに後ろを覗く。


「埋まってる?」


 もたれていると思っていた背中は、少しだけ壁の中に入ってしまっている。


 そう思った途端、体がぶれて調度背中が壁に当たる位置に合わさった。


「生前の記憶じゃな。壁にもたれる時は、この辺で壁に当たるというところで無意識に体を止めとったんじゃ。アンタさんが振り向いて、その位置がずれていると判ったから、背中を壁に合わせ直した。と、まあ、そういうことじゃの」


 俺は壁から背中を離すとマジマジと壁を見た。そして、そっと片手を壁に近づける。


「当たると思うから止まってしまうんじゃ。当たらないと思えば通れるわいさ」


 何をしようとしているのか察したらしく、絹さんはそう言って興味深げに俺の行動を見守っている。俺は恐る恐る壁に手を触れる。いや、通す。


 手が壁にめり込んだ瞬間体が手元の違和感を訴えたが、それも一瞬の事。俺の手はすっと壁の中に消えていく。通ると思えば思うほどそれは容易くなってきた。


「ホホホ、アンタさん筋がエエわい。前に会うた新人は壁を抜けるのに相当苦労しとったからの」


「なんか、幽霊らしくなってきたな……」


 目には見えるが触れることの無いものとでも言えばいいのだろうか。目の前の壁はそんなものだ。いや、この理屈は目の前の壁だけに当てはまるものじゃない。そう、例えば……。


 ふと自分の足元を見る。次の瞬間。


「うわ!」


 俺の体は地面の存在を忘れたかのように浮遊感を生んだかと思うと、垂直落下を開始した。呑気に俺を見ていた絹さんが、血相を変えて俺の元へ駆け出す。


 ギリギリセーフ。


 藁をも掴む思いで伸ばした右手が、駆けつけた絹さんを掴んで落下を免れる。


「エエかや! 余計な事は考えな! 地面に手をついた時の感覚を思い出しい!」


 絹さんの声が地面に響く。言葉に従って空いていた左手を地表へ伸ばす。


「後は壁をよじ登る要領で上がって!」


 絹さんを掴んでいた右手も地面を掴むと悪戦苦闘しながら這い上がる。


「ふう、死ぬかと思った……」


「死んだ人間が言いなさんな。それはワシのセリフじゃ。まったく、年寄りの寿命を縮めおってからに」


 溜息をつく俺の隣りで、絹さんは俺以上に大きな溜息をつく。


「もう二度と地面の上に体がある感覚は忘れたらいかん。もし、アンタさんが掴む感覚まで忘れとったら、ワシの事掴めずに土の中へどこまでも落ちとったよ」


「面目無い」


「それにしても、地面に留まる感覚を忘れて落ちる事は忘れんとは、器用というか不器用というか……」


 もう一度溜息をつく絹さんに返す言葉も無く俺は頭を掻いた。


 幽霊をやっていくのも意外と大変だ。


「とにかく、壁やらなんやらを通ることができる。今はそれだけと思うことかの。地面から落ちんように潜れるようになるのは、それに慣れてからじゃ」


「それはわかったけど。俺はこれからどうすればいいんだ?」


 その問いに絹さんが首を傾げた。


「どう……とは?」


「壁を不自由無く通れるようになって、地面から落ちる事も無くなったとして、あとはどうすればいいの? 死んじゃってるから寿命を待つわけにもいかないし……」


 俺の話に絹さんは反対方向に首を傾げなおした。


「さて、それはワシにもわからんの」


「わからんって……」


「そりゃそうじゃろ。死んだアンタさんがわからんのに、迎えが近いながらも生きとるワシが、死んでからどうするなんぞわかるわけもないわな」


 そりゃそうだ。


「今までにあった幽霊はどうしてたの?」


「知り合ったと思ったら、ある日突然見かけんようになるんじゃ。そうなるまでの日数は人それぞれじゃが、いつまでも留まっとる者はおらなんだの。はてさて、あの世からお迎えが来たものか……ひょっとしたら今までの幽霊はさっきのアンタさんみたいに地面から落ちて、未だにどこぞに落ち続けとるかもしれんの、ホホホ」


 笑い事じゃない。死んだ者が行くのはあの世ではなくて、この世の果てとは。死ぬことも出来ず一体どれだけの歳月を落ちつづけることになるか。


「参ったな。誰か知らないのかな」


 不安そうな顔をする俺を見て絹さんはまたホホホと笑った。


「誰かにあれこれ聞く前に自分で考えてみてはどうじゃ。なんせ、アンタさんは死んで寿命が無くなったわけじゃからして、時間は腐るほどあるでの」


「自分で……ねぇ」


「アンタさんがわかったらワシにも教えてくれんかね。死んだらその時参考になるし、壁抜けのコツを教えた礼じゃと思って、の」


 の、と言われても見つかるかどうかもわからない答えを探すのだ。軽々しく気休めの返事をして後で落胆させるのは忍びない。忍びなくはあるが……。


 少し考えていた俺だがやがて絹さんを見て頷いた。


「わかった、絹さん。わかった事はあなたに話すよ。でも、わかった途端この世から消えるかもしれないし、あまり期待しないでね」


 絹さんに約束した俺は立ち上がり、さっき練習した要領で体半分を壁の中に通してから手を振って別れを告げる。


「ホホホ、吉報をまっとるよ」


 絹さんも笑いながら尻尾を振ってくれた。


 とりあえず壁抜けの練習をしながら考えてみよう。


 そう思い振り返った瞬間、目の前にコンクリートの壁があった。


 それを固い壁と認識したのがまずかった。俺は体の大半を壁に通しているくせに、頭は壁に衝突したかのように仰け反らせた。


「ホホ、まったく器用なのか不器用なのか。ホホホホ」


 背中越しに聞こえる絹さんの笑い声。痛いはずもない鼻先を撫でながら改めて壁を抜けて彼女と別れた。




 老猫の絹さんと別れてから、どれほど歩いたろうか。壁抜けも最初こそ壁の中で引っかかったりしたが、少しずつコツのようなものが掴めてきた。


 壁が抜けられるようになってみたものの、死んでからどうすればいいのか、どこに行けばいいのか。そのあたりは相変わらず見当がつかない。絹さんの言っていたように時間はあるのだ。気長に考えていこう。


 呑気に構えながらまた一つ壁を抜けた。抜けてすぐに目に止まったのは菓子パンの並ぶ棚。左右を見ればおにぎりにサンドイッチ、弁当等々。どこか見慣れた、というか行き慣れた風景。


 俺が抜けたのは行きつけのコンビニの壁だった。いやはや、あちこち壁を抜けていると自分がどの辺りを歩いているのかわからなくなるもんだ。


「でも雑誌が掴めないんじゃ、立ち読みもできんしなぁ」


 そんなことをぼやきながらさっさと通り抜けようとしたが、レジの異変に気がつき立ち止まる。


 レジの向こうに立つのは見覚えのあるアルバイトの女の子だ。普段、淡々と仕事をこなしていた彼女の無表情が、今は青褪めて怯えの色を示している。


 レジの前に立つのは……背を向けているのでわかりにくい。いや、正面から見ても顔はわからないだろう。帽子を目深にかぶり、目元は大きめのサングラス。口元はこれまた大きなマスク。怪しんでくれといわんばかり。おまけに手にはナイフ。


 コンビニ強盗だ。初めて見た。


「さっさとレジを開けろ! 刺し殺すぞ!」


 男の太い怒鳴り声。言われた女の子はレジを開けようと震える手をゆっくりと伸ばす。


「早くしろ!」


 彼女は再び発せられた声に弾かれるようにして慌ててレジを操作する。怯える女の子の手際の悪さに苛立ったのか、強盗男はレジが開いた途端、彼女にナイフを突きつけて下がらせるとレジの紙幣を鷲掴みにする。


 念のために言っておこう。俺は正義感の塊とは言わないが、目の前で起きている犯罪を見て見ぬ振りするほどバカじゃない。実際、このコンビニ強盗を取り押さえようと思ってはいるのだ。思ってはいるのだが、俺が殴り飛ばそうと拳を出してもコンビニ強盗の頭をすり抜け、突き出されたナイフを避けて倒れこんだアルバイトの女の子を、助け起こそうとしても腕は彼女の体を通り抜けていくのだ。


 強盗男は俺の無駄な努力に気付く事無く、掴んだ金をポケットにねじ込んで店を飛び出していく。


「クソ! 待てよ!」


 怒鳴ってみても聞こえない。もっとも、聞こえたところで止まる事もないだろうが。


 俺は逃げる強盗の背を見逃すまいと必死に走った。


 疲れ知らずの体なのだ、追いかけ続ければいずれ追いつく自信はあった。問題は俺と強盗の速度差。


 強盗は思った以上に足が早い。だんだんと差をつけられている。


 焦り出した俺が強盗の曲がった角を同じように曲がった瞬間、俺の脳裏に諦めの文字が浮かんだ。


 準備していたのだろう。強盗男は道の脇に置いてあったバイクにまたがったのだ。


 その様子に足を遅めた俺。その視界の隅に見覚えのある姿が見え、思わずその名を呼んでいた。


「絹さん!」


 呼ばれて振り返った猫は、俺の表情に何か緊張感を感じたらしかった。絹さんは俺の元に駆け寄ってくる。


「アンタさん、どうしたね」


「コンビニ強盗追いかけてるんだ。絹さんの方が足速いよね。あの男追って」


 俺の指差す先にはバイクのエンジンをかける男の姿。


「年寄りにそんな無茶な注文せんでくれんかえ。アンタさんの方が元気なんじゃ、アンタさんが追いかけた方がええわいや」


「俺の足じゃ遅くて見失うよ」


 言いながらも動き出したバイクを追いかけようと、もう一度走り出す。


「走って追いつけないなら、飛んでいけば良かろうに」


 一緒になって走ってくれている絹さんが俺に向かって言う。


「絹さん、俺の背中に羽根でも見えるっていうの? それこそ無茶な注文しないでよ」


「幅跳びしたことはあるじゃろ。跳んだ時の感覚をずっと維持して着地する感覚を忘れておくんじゃ。実際にやった方が早いわや。それ、イチ、ニィ、サン!」


 絹さんの調子に合わせて踏み切り跳躍。


 このまま、落ちる事は考えない……いや、やっぱり落ちるんじゃ。いやいや、生きていた時より跳んでる気がする。このまま維持できたら飛べるかも。あ、でもやっぱり落ちてるみたい。もう少し。やっぱダメか?


 そう思ったところで俺は着地して再び走り出した。


「だいたい十メートルかの。死んで二日目の新人さんにしてはなかなか大したもんじゃ」


 絹さんが感心したように言ってくれるが今はそれどころじゃない。


「飛ぶってのはなんとなくわかった。でも、追いついたところで体の無い俺にはあいつを捕まえられない」


 コンビニで歯痒い目に合った事を思い出し絹さんに告げると、ホホホと笑い飛ばした。


「そいつはあの男の住処を見つけ出してから教えてやるわさ。ホレ、逃げられんうちにもう一度飛んで行き、イチ、ニィ……」


「サン!」


 俺は絹さんの言葉を信じてもう一度地面を蹴った。


 絹さんの話からすれば俺は世界新記録を出せるぐらいに跳んだ。生前なら考えられない話。これなら飛べるかもしれない。


 どうやら湧いて出た自信が俺の体に作用したようだった。


 最初の形こそ幅跳びの跳躍だが、俺の体は重力を無視するかのように浮遊しつづけている。明らかに俺は飛んでいる。


 これなら行ける。


 俺は幅跳びのように反らしていた体を、テレビで見たスキーのジャンプ選手のように前に傾けた。


「絶対追いつく!」


 意思を言葉にして紡ぐと体は素直に言う事を聞いていた。


 隣を走っていた絹さんを置いて一気に加速する。俺はいつしか強盗の乗ったバイクに引けを取らない速度で飛行していた。


 こうなれば追いつくのも容易だ。バイクが減速してかわしていく障害物を、俺は気にせず通り抜ける事ができる。


 じわじわと追い詰める。などと少しサディスティックな気持ちになり始めた俺のバイク追跡行だったが、強盗男の乗ったバイクの信号待ちという、実にあっけなく、実に当然な結果で終わった。


 追いついてしまったものの、こちらからは文字通り手出しができない。


 バイクのナンバープレートをチェックしてみたり、フルフェイスのヘルメットの中を覗き込んでみたり、意味も無くバイクの周りをグルグルと飛び回ってみたりしながらバイクが終着点に辿り着くのを待った。


 そんな調子で飛んでいた俺が自分の異変に気が付いたのは、ちょうどバイクのエンジンが切られた……コンビニ強盗が住処に着いた時のことだった。


「足が無ぇッ!」




 死んでから学習した事の一つ。


 幽霊は足が無いのではなく、幽霊に慣れてくると足が消えるのだということ。


「飛ぶ事を覚えたら歩く事も走る事も無いわいな。使わんもんが退化して消えるいうのは進化の過程ではよくあることさね」


 バイクを追跡していた以上の猛スピードで絹さんの元に戻り、慌てふためいた調子で報告した俺に対する第一声はそれだった。


 そりゃあ、確かに進化退化というものはあるだろうが、さっきの今で急に消えるとは誰が思うか。


「心配せんでも足があった事を覚えとる限りは、ちゃんと生えてきよるわさ」


 確かに、改めて見たら足はちゃんとそこにあった。気を抜くと消えているが……。


「でも、そうやっていつまでも生きてた時の気分でおったらあかんよ」


 死後二日の俺に絹さんは新社会人に言うようなセリフで説教。


「とりあえず、今肝心なのはコンビニ強盗を警察に突き出すことじゃわい。それで、その方法というのはな……」


 方法というのを聞いた俺は、あのコンビニ強盗をやらかした男の住処に再びやってきていた。


 時刻は午前三時。草木も眠る丑三つ時というヤツだ。絹さん曰く、幽霊はこの時間が一番元気なのだそうだ。


「それほど体調に変化があるようには思えないけどねぇ。まあ、この時間帯で化けて出れば雰囲気も出るだろうけど」


 ひょいと飛び上がってアパートの二階、強盗男の住む部屋の前で着地。足が無くなったと大騒ぎしながらも、一応部屋番号はチェックしておいた。


「そいじゃ、お邪魔しまーす」


 絹さんと会って壁抜けを教わり、バイク追跡で横断する車両を散々通り抜けたおかげで物を通る事にはすっかり慣れた。俺は違和感無く玄関のドアを通り抜ける。


 入った先は月の出ていなかった外よりも暗く、静まり返っている。どうやら、強盗男は寝ているらしい。


「まずは、起きてもらわないといけないな」


 散らかった部屋の隅に置かれたテレビに近付くと片手をその中に入れてまさぐった。


「たしか、こんな感じで……」


 絹さんに教わったとおりに手を動かしていると、やがてテレビの電源が入り画面に砂嵐が映し出される。


 絹さん曰く、幽霊は電化製品に干渉できるらしい。絹さんも前に会った幽霊にやり方を聞いていただけで、自分でやっていないだけに自信なさげだったが……。


 俺は安堵の息をついた。


 これでガセネタだったらバイクを追い掛け回した苦労も水の泡だ。


 もう一度テレビの中をガサガサと漁りながら音量を上げる。


 急に喧しく響き出した砂嵐のノイズに男は目を覚ました。まだ寝ぼけているようで、暗い部屋のなかで白く光っているテレビの画面をぼんやりと眺めている。


 まずは第一段階終了といったところか。


 俺は次の作業にとりかかるべくテレビの中に頭を突っ込んだ。


「……ヲ……エセ……」


 あれ? うまくいかない。


 かろうじてテレビのスピーカーから漏れたかすれた声を聞き取り、男が目を見開く。


 今のは失敗だったが、結果オーライだ。さて、もう一度……。


「……ヨクモ、盗ッタナ……金ヲ返セ……」


 信じられないといったところだろうか。男は目を見開いたまま呆然とテレビを見ると、やがて這うようにして近付いてくる。


 よし、もう一度。段々調子が出てきた。


「返セー……盗ッタ金返セ……」


 テレビの砂嵐の中にうっすらと俺の輪郭が浮かびそう叫ぶ。


 おお、怯えとる怯えとる。なんだか癖になりそうで怖いな。


「……金ヲ返」


 しつこく言いかけたところで言葉は急に途切れ、砂嵐の明かりに照らされていた部屋は再び暗闇に戻る。


 男め。テレビに灰皿投げて壊したのだ。


 真っ暗な部屋の中に男の荒い息だけが響いている。


 まあいい、手段はこれだけじゃない。


 俺は次の電気製品に手をつけた。


 ようやく男の息が落ち着いたところで、ふいに鳴り出す電話の呼び出し音。男が再び体をびくつかせる。


 当然、電話を鳴らしたのは俺だ。


 男は恐る恐る受話器に手を伸ばした。


「……も、もしもし?」


 電話に出る声がかすれている。俺は男の持つ受話器に顔を近づけると……。


「金ヲ返セー」


「ぎゃあ!」


 男は驚いて受話器を取り落とす。腰が抜けたのか、這いつくばりながら受話器から逃げようと後ずさる。


 しまった、少しやりすぎたか。これでは二度と電話には出ようとしないかもしれない。まあ、それならそれでもいい。やり方を変えるだけだ。


 俺は電話を一旦切り、改めてダイヤルを操作した。


「はい、警察です。もしもし? もしもし?」


 受話器から漏れる声に戸惑う男。


 それを尻目に俺はオーディオの電源を入れて音量を上げると、スピーカーに向かって大声で男の住所を叫んでやった。




「おや、アンタさん。昨日はどうだったね」


 翌日、路上に寝転ぶ俺を見つけた絹さんが話しかけてきた。


「ああ、おはよう絹さん。おかげさまでなんとかなったよ」


 絹さんに昨晩の事を話す。


 不審に思って男の住むアパートに向かった警察官に男は素直に自白。警察が来るまでひたすらポルターガイストを堪能させたのが効いたのか、何もかも話すから保護してくれと頼み込む有り様だった。


「それで、アンタさんはその有り様かえ」


 話を聞き終えた絹さんは寝転んだまま動こうとしない俺を眺めホホホと笑う。


 今朝になってその症状は現れてきた。


 生きていた時に例えるなら筋肉痛だろう。痛みこそ無いものの、体は気だるさに満たされて動く気になれない。


「絹さん……こんなことになるなら、最初にそう言っておいてよ」


「何を言うかえ。疲れるとは言っておいたはずじゃ。ワシはやった事がないから、どれほどの疲れかはわからんとも言うたわいや。わざわざ調子がいい時間を教えたのもそのためじゃぞ。それを忘れて調子に乗ったことまでワシのせいにせんでくれんかえ」


 返す言葉が無い。


 テレビ、電話、オーディオに始まり、部屋の明かり、電子レンジ、冷蔵庫、洗濯機等、調子に乗った俺は動かせそうな物は片っ端から試してみた。結果こうなったのである。


「自業自得とはいえ、我ながら随分と間抜けなことだ……」


「落ち込んでおるところ、悪いんじゃがの」


 急に神妙な顔になって話し始める絹さん。


「なに?」


「強盗を懲らしめるためにとはいえ、昨日のアンタさんはちょいとやりすぎじゃわ」


「ええ、痛感してます」


 唸るように言う俺に、その事とは違うと絹さんは言う。


「幽霊がこの世にちょっかいを出すのはエエ事じゃないのよ。そりゃ、事情が事情じゃ、多少は向こうも目を瞑ってくれるが、今回は限度を超えたらしいわいさ」


「……どういうこと?」


「危なっかしくて、当分はあの世に連れていけんということじゃわ」


「……はぁ?」


 理解しきれず生返事を返す。


「改めて自己紹介するけども、ワシゃ、あの世行きの審査官なんじゃわ」


「……へ?」


「つまり、死んだ者をそのままあの世に連れて行っていいかどうか審査する。審査して問題無いと判断すれば、あの世に連れて行く。まあ、死神と呼ばれたり、水先案内人と呼ばれたり、呼び方は様々じゃが……」


「……え? ええっ?」


 疲れているのも忘れて身を起こした俺に向かって、トドメの一言。


「アンタさんは当分あの世行きは無しじゃ。しばらくはこっちで生活してもらう事になるの。まあ、寄り道するのも悪い事ばかりじゃなかろうさ、ホホホ」

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