青玉の閃光
「あれは、牡牛族!?」
木々を引き倒しながら現れたのは巨大な人型の魔族。筋肉に覆われた屈強な肉体は優に四メートルはある。粗雑な腰布に裸の上半身。肩には生物の骨格らしき装備。両腕を皮で作られた布地が覆い、両手に一般的な魔族よりも遥かに巨大な刃渡りの斧を握りしめる。
頭を動物の頭蓋骨が兜代わりとなって覆う。隙間からは精悍な男の顔つきが見えた。頭頂部の左右からは赤と白の二本一対の角が真上へと曲がって伸びている。
魔族の中でも最も肉体に優れ最も野蛮とされる種族。それが牡牛族だ。殆どが友好的な関係にある魔族たちの中にあって、他種族と争いを続けている唯一の一族。
それがこんなところに現れるなんて。ラヴィーナから以前聞いた話では、生息地はもっと遠方だったはずだ。
僕は慌ててラヴィーナを背中に庇おうとした。けど、それよりも早く彼女が僕に対してそうした。
「ラヴィーナ!?」
「黙っていて」
彼女の声は緊張に満ちていた。当然だ、訓練していない牡牛族でさえ訓練され武装した魔族の兵士を殆どの場合、打ち倒せる。まして彼女は淫魔族だ、力で勝てるわけがない。
魅了を始めとする精神に影響を及ぼす魔術も牡牛族には効きが悪いらしい。基本的には肉弾戦で倒すしかない。相性は最悪だ。
「雌の匂いがしたから来てみれば、珍しい」
地の底から響くような低い声が発せられる。牡牛族がラヴィーナを見て牙を見せて身体を揺らす。笑っているのだ。
「ちょうどいい。哨戒も飽きていたところだ。連れて帰るとしよう」
牡牛族が一歩を踏み出す。それだけで地面が揺れて足元がぐらつく。
この種族は他の種族の女性を攫って子を成すと教えてもらった。そんな相手にラヴィーナを渡すわけにはいかない。
「ラヴィーナ、どいてくれ!」
「……いい。私がやるわ」
ラヴィーナの魔力が引き熾される。けど、足りていない。まともにぶつかりあえば打ち負けるような量だ。
「淫魔族が戦うのか? 死なれると困るが……まぁ、頭と胴体が残っていればいいか」
牡牛族の片腕が振り上がり、斧が水平に薙ぎ払う。奴の場所から川まではまだ距離があるように見えたけど、向こうからすれば射程内だ!
「シャール!」
ラヴィーナが僕に飛びついて押し倒してくる。二人揃って水の中に沈み、水面の上を巨大な刃が通過。
振りが驚くほど速い。巨体だから愚鈍だと勘違いすれば次の瞬間には殺されているだろう。
水底に手をついて姿勢を変え、ラヴィーナを抱きかかえて水中を蹴りだす。轟音と共にさっきまで二人がいた場所に斧が叩きつけられ、水底に突き刺さる。
衝撃が水中を走り僕の全身を叩きつける。その隙にラヴィーナが両腕から飛び出して水中から脱出。慌てて僕も底を蹴って跳躍する。
川の辺りに着地。ラヴィーナを見ると既に二度目の跳躍の姿勢に入っていた。
弾けるように空中を直進。牡牛族の両腕の隙間をかいくぐって頭に身体ごと体当たりをする。まともに食らった牡牛族が仰け反り、ラヴィーナが頭蓋の兜を掴んで身体を引き上げる。そのまま真上から頭頂部にめがけて拳を叩き入れる。
淫魔族とは思えない見事な体術だった。けど──。
「よく動くじゃないか」
ダメージにはなっていなかった。身体の頑丈さがあまりにも違いすぎる。
牡牛族の巨大な手が素早く動き、頭蓋に掴まっているラヴィーナを掴まえてしまう。
腕が振り払われ、投げ捨てられたラヴィーナが木に激突。
「ぐっ、ぅううっ!!」
「ラヴィーナ!!」
苦鳴が少女の口から漏れる。木に身体を預けた状態でラヴィーナは動けなくなっていた。
「活きのいい雌だな。良い子孫が作れそうだ」
牡牛族がにたりと笑う。
頭の中で何かが切れた。もう我慢の限界だった。
大地と大気の全てに意識を集中させる。今ここで魔力を熾せばまず間違いなく『魔王』には感知されるだろう。けど、そんなことは今はどうでもいい!
全身に魔力が瞬間的に注ぎ込まれる。魔力濃度の変化に応じて周囲のマナが明滅。急激な魔力変化で大気が膨張、突風が吹き荒れる。
「……シャール?」
「ぐっ、何だこの魔力は!?」
牡牛族の表情に驚愕が走る。奴がこちらを振り向いた瞬間、僕は眼前にまで接近していた。
その巨体めがけて拳を打ち込む。打撃が肉を引き裂き、骨を打ち砕く。そのまま振り抜く。
「ぐっおぉおおおおおおお!?」
絶叫と共に牡牛族が吹き飛んだ。背後に立ち並ぶ木々に激突。巨木をへし折りつつさらに次の木に激突。それを数度繰り返して地面に落下。轟音が響き地鳴りが起こる。
殴りつけた拳を開閉する。しっかりと身体のコントロールは効いている。慣らした甲斐があったみたいだ。
けど、加減をしすぎた。木々が薙ぎ倒された彼方で、牡牛族が起き上がるのが見えた。
僕はラヴィーナの方を見た。彼女は驚愕した表情のままで僕を見つめていた。
「……思ったよりも、早かったな」
悲哀を吐き出すように呟く。もっと、何も知られないままで過ごしていたかった。
地を蹴って駆け出す。敵がこちらの姿を視認するより早く彼我の距離を詰める。一瞬で接近された牡牛族が再び驚愕に目を見開きつつも、迎撃として斧を振り払う。巨斧の一撃を片腕を掲げて受け止める。あらゆる生物を一撫でで屠る刃は、僕の肌に一切傷をつけられない。
「き、貴様、何者だっ!!」
牡牛族の腕の筋肉が膨張、膂力で押し込もうとするも揺さぶることさえできない。頭蓋の兜の隙間から覗く瞳には憤怒と恐怖。
僕は腕を軽く振るう。弾かれたように牡牛族の巨斧が跳ねあげられる。
「うぉおおおおおおっ!!」
裂帛の気合いと共に、跳ね上がった得物を剛力で強引に引き戻し振り下ろしてくる。垂直に落下する断頭台の刃を片手が容易に受け止める。衝撃が地面へと逃げて両足の下をすり鉢状に穿つ。
それでも僕の手からは血の一滴すら流れない。
「し、信じられん! 貴様、魔族ではないのかっ!?」
「気づくのが遅い」
冷え切った声が僕の口から突いて出る。感情と心が凍りついて止まる。《《僕の脳がシャールから『勇者』へと切り替わる》》。
──ああ、嫌な気分だ。
受け止めた刃を軽く押し上げる。手が翻り拳となって斧を横から殴りつける。巨斧が粉砕。無数の金属の欠片となって散らばる。
跳躍。牡牛族の肩を飛び越え、真上から拳を叩き入れる。打撃が鎖骨と肩甲骨を打ち砕き、牡牛族の絶叫が響く。
片手を肩について身体を引き上げ、右脚による蹴りを側頭部に叩き込む。頭蓋の兜が粉砕されて巨体が傾き、そのままゆっくりと地面に倒れこむ。
牡牛族は《ミノタウロス》は動かなくなった。かなり強打したけど、死んではいないはずだ。たとえラヴィーナを狙われたとしても、僕は魔族を殺したくはなかった。剣を家に置いてきたのは正解だった。使っていればうっかり殺していたかもしれない。
深く息を吐く。後ろを振り返るような勇気はなかった。もしも彼女が牡牛族のように、他の魔族のように、そして人間たちのように怯えていたら。あの綺麗な青玉の瞳に恐れが映っていたなら。
そんなのは耐えられない。せめて彼女にだけは。
地鳴りが起こる。それも一度だけじゃなく何度も。
森の奥から、十体以上の牡牛族の一団が現れる。各々が生物の骨格や皮を防具とし、巨大な斧で武装している。片方の角が赤いのが、倒れた牡牛族と同じだった。
一団の中の一体が地面に倒れ臥す牡牛族を指差して笑う。
「おいおい、アストラのやつぶっ倒れてやがるぞ」
「向こうには淫魔族がいるが、あいつがやったのか?」
「バカ言え、淫魔族が俺たちに何ができるっていうんだ」
牡牛族たちは仲間を打ち倒したものを探す。無数の瞳が僕に向けられた。
「こいつがやったっていうのか?」
「何だこいつは。翼もなければ角もない。牙も爪もだ」
「新種か突然変異か? たまにそういう魔族がいるって聞くぞ」
彼らの会話に緊張感はなかった。こんなに小さい生物が自分たちの仲間を倒したとは信じていないのだろう。
その間に視界に入る牡牛族の数を確認する。魔力をもっと熾せば五分とかからない。その分、『魔王』に感知される可能性は高くなるけど今更だ。
再び全身を巡る魔力を引き熾す。異常に気がついた牡牛族たちが一斉に武器を構える。が──。
「──待って。今度こそ私がやるわ」
振り返ると、僕の後ろにラヴィーナが立っていた。
「ラヴィーナ……?」
「……先に謝るわ。ごめんなさい、シャール」
僕には彼女の謝罪の意味が分からなかった。立ち止まったままでいる僕の隣をラヴィーナが通り過ぎる。
「何だ、こいつも突然変異か」
「魔力の感じから淫魔族ってのは分かる。俺たちとやろうってのか?」
淫魔族が前に出たために牡牛族たちが揃って強者の余裕からくる笑みを浮かべる。
その全てを受けてラヴィーナは尚も立ちはだかっていた。
僕の脳裏に極大のノイズが走る。光の精霊が何かを感知して知らせてきた。けど、魔界で感知能力は殆ど働いていないはずだ。一体何なんだ。
ラヴィーナが深く息を吐き出す。何かを決心するように、何かを諦めるように。
──閃光が、目の前で弾けた。
強烈なマナの輝きが網膜を灼く。咄嗟に腕で視界を覆う。魔力が急激増大したことによる突風が目の前で吹き荒れていた。辛うじて目を開いて輝く視界の中を見る。異変の中心にいたのはラヴィーナだった。
「……そんな、嘘だろ」
言葉が口から勝手に漏れ出した。舌先は事実を否定しようとするけど、脳が完全にそれを拒絶する。
この魔力を僕は知っている。これほど強大な魔力を放つ存在は、僕以外には一つだけ。
これは──『魔王』の魔力だ。
「くっ、これは……!」
「貴様、まさか!!」
光と突風が収まり視界が戻る。ラヴィーナの前で深い青の輝きが煌めく。それを見ていた牡牛族たちの両腕が力なく垂れ下がり、亡霊のようになって一斉に背を向けて歩き始めた。
魅了か何かの、精神に影響を及ぼす魔術だろうか。僕には詳細は分からない。
牡牛族の地鳴りは少しずつ遠ざかっていき、やがて何も聞こえなくなった。
僕は立ち尽くしていた。口は動かず、喉がひりつく。頭の中は真っ白だ。目の前の事実が全く受け入れられない。
ラヴィーナが『魔王』だなんて、信じたくなかった。彼女を、殺さなくてはいけないだなんて。
どうすればいいのか分からない。『魔王』を倒さなければ戦いは終わらず、魔族か人間のどちらかがまた死ぬことになる。また、あの子供が死ぬことになる。
けどそれを防ぐためにはラヴィーナを殺さなくてはいけない。そんなことは、したくなかった。
どちらの選択を取ろうとも、恐らく僕の心は死ぬだろう。
ラヴィーナが振り返る。視線がさまよい、恐る恐るこちらに向けられた。青い瞳は揺れていた。怒りでも恨みでも憎しみでもなく、悲しみに。
悲痛な表情を浮かべたまま、彼女は僕のことを見つめていた。
沈黙が二人の間を流れる。
空白の思考に疑問が浮かぶ。彼女が『魔王』だというのなら、どうして彼女は僕といたのだろうか。僕が『勇者』だということを彼女は知っていたはずだ。
殺すためなら、今までにいつでもそうする機会はあった。普通の魔族では闇討ちさえ意味がないけど、『魔王』なら可能だ。
それでも彼女はそうしなかった。何故。
「……どうして、僕を殺さなかったの?」
僕の声に彼女が肩を震わせる。今にも泣きそうな顔で、口を開く。
「だって……独りは寂しいもの。みんな、私を私としては見ていないから……」
ついに堪えきれずにラヴィーナの瞳から涙がこぼれ落ちた。
もう十分だ。彼女の一言で、僕のすることは決まってしまった。
震えるラヴィーナに歩み寄って、僕は手を差し出す。
「僕たちの家に帰ろう」
「……シャー、ル」
顔を上げる彼女に僕は微笑みかける。上手く笑えているかは分からないけど。こんなときぐらいちゃんと笑えているか不安だけど。
「ほら、二人とも水浸しだしさ。帰って温まろう?」
「え……」
信じられないといった表情をラヴィーナが浮かべる。青玉の瞳が僕をまっすぐに見つめていた。
そうだ。僕は彼女に見ていてほしいんだ。本当は、ずっと。
僕の手をラヴィーナが恐る恐る握りしめる。冷えているはずの手は、何故だかとても暖かかった。
「……うん」
そして彼女は微笑みかけてくれる。涙で濡らした頬、小さな喜びを湛える瞳。その何もかもが綺麗だった。
──良かった。僕たちはちゃんと笑えているみたいだ。




