偽りの名前
彼女について歩き、どれぐらい経っただろうか。多分、そんなに経ってないぐらいだ。
灰色の荒野に森林が見えてきた。そう、森林だ。そう形容するしかないものが広がっていた。
葉の色が空のように漆黒色であること以外は人間界のものと変わらない。景色に変化が起こることに僕は驚いていた。
「何をそんなに驚いているの?」
白髪の少女が尋ねてきた。
「あー……いや、森があったんだな、と」
「あるわよ、森ぐらい。記憶喪失だとそんなことまで忘れちゃうのね」
そう言って彼女は小さく笑う。
道中、これまでの経緯を説明するわけにもいかなかった僕は記憶喪失で何も分からないということにしておいた。言い訳にしては定番すぎる。
けど、「そういうこともあるのね」と言って彼女はあっさりと信じてくれた。
良心が少し傷んだけど、彼女に正体を教えず、手荒なこともせず、さらに情報を聞き出すにはこれしかなかった。
それで僕たち二人は今現在、彼女が住んでいるという家に向かっている。
「あなた、名前も覚えていない?」
「…………そう、だね」
覚えていることにしても良かったけど、クリストファーという名前はこちらでも知られているだろうから黙っておくことにした。
「名前がないと不便ね……どうしようかしら」
考えながら歩く彼女の綺麗な横顔を、僕は意味もなく眺めていた。
そんな話をしている間に僕らは森の中に足を踏み入れる。奇妙なことに、空が暗雲に覆われている上に森林の中は黒色の葉が頭上を隠しているというのに、それほど暗くはなかった。
ちゃんと足元が見える程度の明かりがあった。けど、周囲のどこを見ても光源は見当たらない。
「これはマナが光っているのよ」
僕の困惑に気がついた少女が説明を入れてくれた。
マナというのは簡単に言ってしまえば魔力の別名だ。物質態をマナと呼び具体的に作用する力である状態を魔力と呼んで区別するらしい。
詳しいことは僕も分からないので、同じものだと思っている。
「空が暗いのにあたりが見えるでしょう? 同じ理由よ」
「そうなんだ……」
言われてみればこの世界は森林の外も暗くはない。いや、暗いけど視界が塞がるほどじゃない。
納得顔をしている僕にまた少女が笑いかける。
「一個一個、ゆっくり覚えていきましょうね?」
まるで子供に言い聞かせるような言い方だ。
けど、実際のところ今の僕は何も知らない子どものようなものだ。記憶喪失という嘘を抜いたってこの世界について何も知らない。
だから、大人しく教わっておこう。子供扱いはちょっと悔しいけど。
森の中を直進していく。
たまに真上を見上げると、木々には果実のようなものがついているときがあった。
食物があるのかと驚いたけど、考えてみればそれはそうだ。なければ魔族がどうやって生きているのかが分からない。
さらに奥へと進んでいく。
今度は目の前に小さな光点が現れた。一つ、二つ、三つとそれは数を増やしていく。
それぞれの光点は蛇行したり直進したりとバラバラに動いて空中を移動していた。
「これは妖精の幼体よ。妖精族の親戚みたいなものかしら」
少女が指を光点へと差し出すと、妖精の幼体とやらが彼女の指の上で止まる。
目をこらしてよく見てみれば、確かにただの光点じゃなく何かの形を持っていることが分かった。ただ、小さすぎて細かい部分はよく分からない。
「この子たちは大気中のマナを取り込んでいるの。マナが栄養ってことね」
少女が指を振って妖精の幼体を追いやる。
彼女の説明に僕は少し納得のいくところがあった。先ほど見かけた果実から、多量の魔力を感じ取ることができた。
恐らくこの世界の生物は魔力を主な栄養源としているのだろう。それなら魔族の魔力量にも納得がいく。
しばらく森林の中を進むと、木造(魔界の木々が材料という意味で)の小屋にたどり着いた。
「ここが私の家よ」
「ここが……?」
てっきり村ないし街にたどり着くことになると思っていた僕は少し拍子抜けしてしまった。
これが彼女の家だというのなら、細かいことは気にしないで済む。
案内されるままに中に入る。
小屋の中はそれほど広くはなかった。隅にベッドらしきもの、反対側には箱がいくつか。あとは作業台のようなものがあるだけだった。
家というよりは簡易宿泊所というか、山小屋というか、そんな印象だ。
「えっと……広い、のかな、これは」
「普通はもっとちゃんとしたところに住むわね」
そのあたりの感覚はどうやら一緒らしい。
壁には時計があった。読み方がいまいち分からない。少女はそれを見るなり、「もうこんな時間なのね」と呟いた。
「寝る時間、ってこと?」
「そういうことよ。細かい話は明日にしましょう?」
意外と時間が経っていたらしい。僕の感覚は全くついていけていなかった。
それはそれとして、ちょっと考えることになった。
肉体の性質として睡眠は必要としていない。彼女が眠っている間に周囲の探索をするのはありかもしれない。
それにベッドは一つで、寝る先が床しかないというのも眠るのを渋る理由だった。
「どうしたの?」
ベッドに腰かけた少女がこちらを見つめてくる。さて、何と説明したものか。
黙っている僕に少女が「ああ」と声をあげる。
「ベッドが一つしかないのはごめんなさい。今日は私と一緒で我慢してくれる?」
「…………えっ?」
思わず声が出た。
「嫌かしら?」
「あ、嫌ってわけじゃないんだけど、遠慮しちゃうというか……君はいいの?」
初対面の女性と同じベッドで寝るというのはいかがなものか。それぐらいの倫理観は僕の中にまだ残っていた。
いや、もしかすると魔族にはそういう観点がないのだろうか。だとしたら、どうしよう。
「ふふ、そんなことは覚えているのね? 他の常識はみんな忘れてしまっているのに、変なの」
う、と言葉に詰まる。この常識が魔族たちにも通じるのが分かったのは良かったけど、確かに奇妙かもしれない。
とはいえ、今更撤回はできない。どうしよう。
「それとも、そういうことだけは覚えているのかしら」
悪戯めいた微笑みを浮かべる少女に、僕はまた言葉を詰まらせる。
「そ、そういうことって……どういうことでしょうか」
「さぁ、どういうことかしらね?」
これは多分、からかわれているのだろう。相手が魔族だからいまいち分からないけど。
「さっきの質問だけど、私は気にしないわ。何となくだけどあなた、そういう度胸なさそうだし」
「う…………」
「それに、私こう見えて強いもの。だから平気よ」
そう言って少女はベッドに潜り込む。
非常に申し訳ないけど、強いって部分に関しては保証できないと思う。まず間違いなく僕の方が強い。
けど度胸がないって部分は全くもってその通りだった。否定できる材料がない。僕は元々、気が弱いんだ。
「じゃあ、失礼して……」
剣を壁際に立てかけて僕はベッドの中に入った。
ベッドは一人用のようで、ほとんど彼女に密着することになった。これを役得だと思えるほど僕の神経は図太くなかった。というか、女慣れしていなかった。
「そういえば名乗ってなかったわね」
至近距離でこちらを振り向いた少女が言う。青玉の瞳がこちらを見ていた。自分の顔が熱くなるのを感じる。
「私はラヴィーナ。あなたは……シャールというのはどうかしら」
「シャール?」
「そう、シャール。意味はまた今度、教えてあげるわ」
何だか耳慣れない言葉を少女──ラヴィーナは僕の名前とした。
「おやすみ、シャール」
「……おやすみ、ラヴィーナ」
寝るときの挨拶をしてラヴィーナは目を閉じた。
不思議な感覚が胸の中でうずくまっていた。偽名で呼ばれたことせいじゃなかった。
偽名だろうと何だろうと名前で呼ばれたことが僕にとっては嬉しかった。『勇者』という言葉がつく限り、相手がそう認識している限り、クリストファーという名前は名前ではなく称号だったから。
誰かに単なる個人として認識されて眠りにつくなんてのは、一体いつ振りになるんだろう。
そんなことを思い出そうとして、僕はすぐに意識を深い眠りの底へと落としていった。




