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 あの日の帰り道、ふさぎ込んで俯いた美恵の顔を思い出した。

 いつ頃からだったのだろう。引っ越ししてからずっとなのか。

 美恵は戦っていたのだ。あの家の中で。誰にも苦しみを訴えることもせず、一人、生き続けてきたのだ。

 それなのに、私は昨日逃げてしまった。誰か助けを呼べばよかったろうか。誰を? 警察か。でも、彼らは民事不介入のはずだ。聞き入れてくれただろうか。殴り合いならともかく、あの状況はどうだろう。疑わしい。

 何もできずにいたのが悔やまれて仕方なかった。

 私は美恵の教室に向かった。二つ隣のクラスで、美恵は廊下際の一番後ろの席に座っていた。昨日、私がそっと靴箱の上に置いたスマホを両手で握りしめている。

「美恵」

 廊下からそっと声をかけたが、美恵は気づいていないようだった。もう一度、今度は傍にきて呼びかけると、美恵はハッとしたように顔を上げて、私を認めると力なく、しかしどこかひきつったような笑顔で微笑むと、首をうなだれてぼそぼそ声で言葉を返した。

「おはよう、早苗ちゃん。どうしたの」

「もうお昼だよ、美恵……いや、最近私たち、顔をあわせてなかったからさ。元気にしてるかなと思って」

「大丈夫だよ」

 言葉とは裏腹に、美恵の表情には怯えと萎縮が見て取れた。

「早苗ちゃんこそ、大丈夫なの。目が怖いよ」

 言われて私は自分を意識した。我知らず、険しい顔になっていたのに気づいた。

「ごめんね。ちょっと気になることが別にあって。これは美恵とは関係のないことだから」

「早苗ちゃん」

「どうしたの」

 美恵は机の中心の一点に視点を据わらせたまま、そこに自分の両手を組み合わせて力を入れていた。

 もう一度たずねようとしたところで、美恵の手がそこから離れて私の手を掴んだ。その手へ、そして美恵の顔へと視線を順に移した時、顔を上げた彼女と目が合った。

 瞳の黒さが鏡のようにお互いの姿を映し出していたが、美恵の瞳に映る私は、溢れそうな涙の中でちぢれてゆがみ、そして裂けていた。

「何があっても、お友達でいてくれる?」

 その声の健気さに、私もつられて泣きたくなった。

 私が、心無い人間達から美恵を助けなければいけないのだとも思った。

 私の脳裏に、子供のころの風景が浮かび上がってきた。山形にある私の親戚の祖母の家が、初夏の日差しの中で鎮座していた。広い庭に二階建ての和風の母屋と、渡り廊下をはさんでぽつねんとたちつくした一戸建ての離れをひっくるめて、歴史と伝統を外壁のそこかしこに刻んだ数寄屋門が取り囲んでいた。

 美恵が引っ越す数か月前、私たちはそこで数日間遊んだ。

 美恵と同じく私も友達は少ない方だったので、両親や祖母は美恵にも我が子のようにとても優しくしてくれた。 

 私たちは遊び疲れて、一階の広間で涼をとっていた。

 廊下と反対側の障子が開かれ、そこから縁側と庭が広がっていた。通路に少し素足を出した格好で、白いワンピース姿の美恵が眠っている。雲間から斜交いに差し込む午後の陽ざしが、薄暗い広間の影を障子型に切り取っていた。

 私は美恵の横に腰を下ろし、その寝顔を見つめた。ワンピースから突き出た細い手足とお腹から下を、空から注がれた黄金色のたまりが温めている。

 私は顔を近づけた。日向に入りそこねた小顔がほの白く、まるで妖精のようだ。閉じた瞼に長い睫がこまやかな庇を作っている。

 私は――

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