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美恵のスマホを返しそびれた。休憩時間に返しに行こうと思ったが、美恵と勇樹が一緒に仲睦まじくしているところに声をかけづらく、ずるずると放課後まで伸びてしまった。すでに充電が切れていたピンクのスマホをポケットにしまい、私は帰る二人の背中を校舎から遠巻きに見送ると、図書室で時間をつぶした。
読みかけの海外一般の翻訳書が残り僅かだったのでそれを読みきると、鞄に戻してそこから美恵の家に向かった。二人を見送った時にはまだ明るかった放課後の景色が、そのころには暮色を迎えていた。
丸一日持っていたのにどうして知らせてくれなかったのかと思われるのが嫌だったので、家人が見ればそれとなくわかるところに置いて立ち去ろうと思った。暗くなれば勇樹と鉢合わせることもないし、家の中から顔も見られることもないだろう。
美恵の家に向けて歩き出す。橋を渡りきり、すぐ角を曲がって遊歩道を真っすぐに進む。先ほど橋でわたった大きな川を挟んでその先にある歪な棒グラフさながらの高層群の中に、太陽がしがみつくように黄色い光を幾又にもそこに差し込み、やがて沈んでいく。等間隔に建てられた街灯の光が闇の中に存在を主張しだした。
団地は目の前だった。美恵の済む一画へと足を向ける。
美恵の住む部屋の入り口の前に着いた。ドアの横に、嵌め殺しになったすりガラスの窓と換気扇があり、その真下に、明るい木目で四角い縦長の靴箱が野ざらしで置いてあった。使われているのかいないのか、箱の上にはうっすらと埃が積もっている。
私はティッシュを何枚か取り出すと、その箱の上に重ねて敷き、その上に美恵のスマホを置いた。これで下の埃がつく心配はないだろう。
その場で踵を返して帰ろうとするとき、美恵の部屋の中から女の短い悲鳴が聞こえた。男の怒声がそれに覆いかぶさる。それを追ってさらに別の女の悲痛な声。
母親、おそらく義父、そして美恵の声。
「お前どこかで男と会ってるんだろう」
「違いますっ」
母親が裂けるような悲鳴で応じると、義父の一喝と共に何かがはち切れるような高い音がした。男が女を平手で張り飛ばしたのが分かった。
「お前らみたいな馬鹿な女はどこにも引き取ってくれるところなんてないんだよ。一人でまともに生きていると思ってんのか。お前らは俺がいないと駄目なんだよ」
頬を打つ音がもう一つ。荒々しい物音が玄関近くにまで迫ってきたような気がして、私は逃げるように急いでその場を後にした。