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昼休みから勇樹のラインに既読がつかない。暇があればスマホを触る勇樹がラインに反応しないのは十中八九未読スルーだ。人がラインで未読スルーをするのは色々な理由があると思うが、勇樹がそれをするときはたいてい、私に後ろめたいことをしている時だ。
帰りのホームルームを終え、ざわめきの収まらぬ胸の内を抱えたまま昇降口に向かった私の視線が、違和感を感じてそれとなく美恵の靴箱の方へ吸い寄せられた。淡いピンクのスマートフォンが暗い木目と影に囲われた中でひっそりと浮かび上がっている。
忘れ物だろうか。それにしてもスマホを忘れるとは不用心な、と思いつつ手に取ってまわりに美恵がまだ近くにいないか見回すと、果たして美恵は外にいた。
勇樹と一緒に。
二人はとても親し気に話しかけていた。開かれた昇降口のテラス戸の先から、美恵の屈託のない笑い声が聞こえてくる。私は二人の笑顔を遠目に、美恵のスマホを手に持ったまま足がすくんで動けずにいた。声をかけることも出来ず、二人が校門の方へ去ってゆくその背中をしばらく見つめていた。
「ごめん、早苗。充電が切れてたわ」
翌日の昼休みに勇樹はやってきた。食堂に行っている隣のクラスメイトの席を借り、何事もなかったかのように私に向かって頭を下げる。もし私が電話をしていたら、彼の返答が「気づかなかったわ」に変わるだけだった。そういう男なのだ。
私は両手を組んでそこに顔をうずめるようにして、机の上のスマホの画面を見つめていた。
勇樹の気安い言葉遣いに、私は自分の肩が総毛立ち、首筋が熱を持ったのを感じた。
拳を握りしめる。今ここでぶちまけてやろうかとも考えた。
だが、私はそうしなかった。この事で私は美恵との仲を壊したくなかった。美恵が勇樹を好きでいることには気づいていた。勇樹の浮気な気質に対する諦めにも似た自分の感情も自覚していた。そして、私は分かっていたのだ。自分の心が勇樹から離れていたことを。勇樹の心が私から離れていたことも。
あるべくしてあった結末であり、私の怒りによって勇樹が傷つくのは勝手だが、そこに美恵を巻き込みたくはなかった。
かといって美恵と勇樹が付き合うことになったら、勇樹の浮薄さに美恵が苦しむことは確かだった。勇樹にとっては自分以外のものは全て浮薄なのだ。自身における痛みや苦しみは一切拒否する。楽しくて、気持ちよければそれでいい。相手の気持ちなど、四の五の次の搾りかすだ。
今日こうして勇樹がヘラヘラと笑いを浮かべながら私に調子のいい言葉を紡いでいくのがその証拠だ。見られていたともつゆ知らず。私はささくれだった気持ちを抑圧して押し黙っていた。彼の取り繕った愛情はフルイに水を流すように意味を持たずどこかへ流れていく。
「おい」
不意に背中から声をかけられた。振り向くと、設楽の立ち姿があった。彼の視線は私を――越えて、その先の勇樹に向けられていた。弾かれるように勇樹の方へ首を向けると、恐怖と卑屈でこわばった笑みを見せた顔がそこにあった。
「や、やあ。設楽くん。どうしたの」
「横田くん、最近冷たくね」
「そんなことないよ、ここんところ忙しくて」
「お前あれだろ? 最近澄川とは別の女と――」
「やめろって」
勇樹が語調を荒げて遮ったが設楽の言葉の続きははっきりと聞こえた。私は机の方に向き直り、無言でうつむいたまま嵐が過ぎ去るのを待った。
「何だお前その口の利き方俺に向かって。おい」
横で設楽が素早く動く気配がした。勇樹の短い悲鳴が聞こえ、複数の気配がそのまま向こう側に流れていく。視線をそっとやると、両手で胸倉をつかまれて高く持ち上げられた勇樹が子犬のような目で私を見つめていた。そのまま二人は教室から廊下へ、そのまま近くの引き戸を開けて教棟から中庭の方へ姿を消した。
私の手が動いた。
賭けのようなものだった。
自分がどんなに愚かしいことをしているか、心では実感しつつも、身体は別の何かに操られるように、チャックの開いた勇樹のバッグに手がのびていた。
勇樹のスマホを取り出す。手元に寄せる。心臓が罪悪感からか、キュッと引き締まったように一瞬痛んだ。
昔、お揃いで買ったスマホだった。操作には問題ない。頭の中にあった目的を指で素早く再現させていった。
いくつかの操作の後、私の指先が最終地点にたどり着く。ライン、トーク、みーえ――美恵のアカウントネームだ。
指の腹がそこをタップしようとしたが、そこで動きが止まった。その言葉を探す必要はなかった。
俺も美恵を愛してるよ。
一覧に表示される最後の言葉がそれだった。
こんなものを探し当てても何の意味もない。自分で分かっていたはずだ。しかし、私の心の奥底が、勇樹のスマホに手を伸ばさざる得ぬようにしむけた。
ホーム画面に戻すと、電源ボタンを一押ししてスマホをバッグの中に無造作に放る。
私がチャックを閉じきるのと、二人が教室に戻るのが同時だった。設楽の暗く湿った笑顔と、勇樹の粟立って貼り付いた笑顔。二つの対照的なそれに目を背け、私は机の上に腕を組んでそこに突っ伏した。
私はつくづく、自分の愚かさと愛するということの残酷さを呪った。