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美恵が息をのむ気配がした。絶句。そりゃそうだろうな。
「ごめんね、おかしいよね。変な女だよね。でも、勘違いしないで。私はただ、美恵が勇樹の気まぐれで傷ついて欲しくなかった。美恵には幸せでいてほしかったから!」
美恵が私の名前を呼んだ気がした。おしまいだ。軽蔑される。心が悲鳴を上げて、全身がこわばる。頭でも胸でもない、心は私のそこかしこに存在しているのだとその時思った。それならば、私のどこか一つくらいに、悲しさも苦しさも感じない聖域があってもよさそうなものではないか。
「許してっ」
私は背中を向けて走り出した。どこへ行くというのか。どこへ行けば救われるのか。すでに空には夜の帳が下りている。その闇の中に消えたかった。もう一度朝を迎えたら、太陽の眩しさに心ごと焼き尽くされるだろう。
その手を強く引っ張られて、私の足が止まった。広場の遥か向こうまで過ぎ去っていた私の意識が一瞬にして引き戻された気がした。
振り返る。美恵が、目の縁に涙を浮かべて首を横に振っていた。
「行かないで」
「美恵」
「私、分からなくなっちゃった。今、早苗ちゃんに告白されて。勇樹君のことは好きだよ。でも、・・・・・・早苗ちゃんの事も好きなんだ、って心のどこかで思ってる自分に今、気づいたの。私、二人とも失いたくない。これって、変なのかな。私、我がままなのかな」
「人間って、みんな我がままなんだよ。勇樹だって、私だってそうだもの」
「早苗ちゃんは我がままじゃないよ。私を守ろうとしてくれてただけだもの。でも大丈夫。勇樹君の事なら。どういう人かっていうのは知ってるの。でも、私は勇樹君が最後にここに帰って来てくれればいいと思ってるの。男の子って、寄り道が好きだから」
「何で美恵がそこまでしないといけないの。どうしてそこまで男の都合に振り回されないといけないの。勇樹がそのままいなくなったらどうするの」
「分からない。でも、それって、私が早苗ちゃんの気持ちを知って、いなくなってしまうかも、と早苗ちゃんが思ってることとあまり違わない事のように思える。私がどんな答えを持っていたとしても、早苗ちゃんが私を愛したように、私も勇樹君を愛して、・・・・・・そして、早苗ちゃんも」
言い切った美恵の頬に涙が二筋流れた。ごめんなさい、と呟いて美恵は手で顔を覆う。
「私の方こそ悪い子だよね。わがままばかりいって早苗ちゃんを弄んで・・・・・・。ごめんね、もう帰らなくちゃ」
「駄目だよっ」
今度は私が、美恵の手を掴んで引き留める番だった。
「あの家にもう戻っちゃ駄目だ」
「でも、帰らないとお義父さんが怒るから」
「あんな奴のところになんて戻る必要はないよ。私、知ってるんだよ。あの家で、美恵がどれだけ苦しんできたか」
美恵の表情が驚愕と恐怖にゆがむ。言葉を失った彼女の目をじっと見つめたまま、私は言葉をつづけた。
「美恵はずっと、ずっと戦ってきたんでしょ。戦って、それでも理不尽に傷つけられて。もういいんだよ、一人で耐えなくても。私がいる。あの時、貴方が私を守ってくれたように、今度は私が美恵を守ってあげる」
美恵の頬を伝っていた涙が、あごから落ちて日陰のスカートの膝先のところに保護色の染みを作っていった。空いた片手の掌が、美恵の腕をつかむ私の手の上に置かれた。その手は、温かく、だが震えていた。
「早苗ちゃん、私、頑張ったんだ。何度も、この地獄を終わらせてやろうと思って。でも、結局出来なかった。お母さんも私も、ずっとずっとぶたれて、お前らは俺がいないと何も出来ない駄目な女だ、って言われて……そしたら、学校で噂になってて。友達だった子がみんな離れてしまって」
言葉の続きは嗚咽になって消えた。私の頭頂部に美恵の額が乗せられる。ほのかな温みに前を押された気がして、私は涙声のまま、言いたかったことを口にした。
「誰がどうなろうと、美恵がどんな姿でいようと、私は美恵と一緒にいるよ。貴方は駄目な子じゃない。だから私の家に来なよ。小さい頃、美恵の事、自分の子供みたいに優しくしてくれたでしょ、私の親。卒業して自立できるまで、私のとこにいていいようにするから。私が言えば大丈夫だから、遠慮しないで」
美恵は首を横に振った。
「そこまで早苗ちゃんに迷惑かけられないよ」
「私を我がままじゃないと言ってくれるなら、私にわがままを通して申し訳ないなんて思ってるなら、私にもわがままを言わせてよ。美恵を安全な場所に置いておきたい。勇樹とはそこで待合せれば、義父と出くわす心配もないし、安全でしょ?」
「早苗ちゃん。――ありがとう」
「うん。・・・・・・じゃあ、かえろっか。外もだいぶ寒くなってきたし」
お互いの涙のあとを夜の闇に隠して、私たちは家路についた。――私の家へと。




