4.道田真穂
小さい頃からおてんばと言われ続けていた真穂と違って、妹の菜穂はおとなしくて思慮深い性格をしていた。「落ち着きを母親の腹に忘れてきたのだろう」と馬鹿にされるたびに真穂は全力で罵り返していたが、菜穂は陰気と言われてもぐっと押し黙ってしまうところがあった。姉妹の父親が寡黙な人であったから、両親を知る人は口を揃えて「菜穂ちゃんはお父さんに似たのね」と笑っていたものだ。
小学校の頃は真穂は妹を連れ回して遊んでいたが、真穂が中学に進学した頃から生活は一変した。地元の中学は、地域ではバレー部の強豪で通っていて、うっかりバレー部に入部した真穂の生活は部活一色になったのだ。朝早くから朝練のために登校し、放課後も中学生としてはかなり遅い時間まで練習に明け暮れた。真穂自身の実力は一般人に毛が生えたようなレベルだったが、同級生にはスポーツ推薦で高校を受験する人もたくさんいた。結局高校も、スポーツ推薦とまではいかないものの、バレー部の強い学校を選んで進学した。中学の頃よりさらに朝から晩まで練習に打ち込んで、家に帰ると電池が切れたように眠る日々が続いた。
今振り返ってみると、あれはきっと逃避だったのだと、真穂は思う。部活に打ち込んで、ほかの何も見ないようにしていた。俯いている菜穂のことさえも。
真穂が中学に入った頃から、両親が不仲になった。理由を真穂は知らない。ただ、離婚寸前まで行ったことだけは聞いている。二人は結局離婚せず、水島家は今も問題なく回っている。なぜ離婚しなかったのかも、真穂は知らない。その頃真穂は学校に逃げ出していたからだ。部活の指導は厳しかったが、家ほど居心地は悪くなかった。だから、真穂は両親の諍いの詳細をよく知らない。
真穂が逃げ出している間、まだ小学生で時間に余裕のあった菜穂がずっと家にいたのだと、その事実に思い至ったのは大学に入った後だ。その時にはもう遅かった。もともとおとなしかった菜穂は、それに輪をかけて寡黙になってしまっていた。黙ったまま伏せられたその瞳が一体何を見ているのか、真穂には皆目見当もつかなかった。
なぜ愛は終わってしまうのだろうと思う。両親は恋愛結婚だったはずだ。一度は永遠を誓い合った二人なのに、一体何が愛を終わらせてしまったのだろう。終わらない愛が欲しかった。おとぎ話で王子様とお姫様は、結ばれた後末長く幸せに暮らすはずなのに。「めでたしめでたし」で終わる愛を見てみたかった。でも、どんなに出会いを求めてさまよっても、終わらない愛を誓ってくれそうな男性は見つからなかった。
真穂が蓮沼和希に出会ったのは、ちょうどその頃だった。彼は真穂の人生に突然に現れた男だった。それも、妹の彼氏として。偶然デートしているところに遭遇して、菜穂が照れながら紹介してくれたのが、当時はまだ大学生だった和希だったのだ。彼の朗らかな笑みがなんとなくチャラチャラして見えて、真穂としてはあまり気に食わなかったのだが、菜穂が幸せそうに笑っていたのでまあいいかと思った。真穂が逃げ出してしまった場所に立ち止まっている菜穂を幸せにしてくれるなら、どんな男でもよかったのだ。菜穂には幸せになってほしかった。菜穂が幸せになってくれたら、真穂も心置きなく永遠の愛を探すことができる気がした。
姉が果敢に合コンに挑戦しては失敗を繰り返す横で、菜穂と和希は順調に交際を続けていた。二人の間には燃え上がるような熱量は感じられなかったが、静かに並んで佇む姿がよく似合うカップルだった。交際が四年目に突入する頃には、真穂は二人の間に永遠の愛が芽生えるのではないかと、半ば期待しながら交際を見守るようになっていた。幸せな二人をずっと見ていたいと思った。
けれど、菜穂は大学を卒業することなく、この世を去った。永遠の愛なんて、どこにもなかった。
菜穂に病気が見つかったのは、真穂が正孝と入籍した翌年の春だった。大学の健康診断など儀式か何かだと思っていたのに、大学の事務が泡を食って連絡をしてきた頃には病魔は菜穂の体をすっかり蝕んでいた。病状説明をしてくれた医師は穏やかに微笑んでいたが、その声色の硬さに病状の厳しさがにじんでいた。拳を握りしめて震える両親に挟まれた菜穂は、ぼんやりと自分のカルテを見下ろしていた。その表情が、ひどく真穂の印象に残った。
真穂と同じ会社で働き出していた和希は、毎日欠かさず見舞いにきた。忙しい時でも絶対に顔を出していくから一体どうしているのかと思ったら、職場の上司には「婚約者が入院している」とまで言って見舞いの時間をもぎ取っていたらしかった。会社の人間が、真穂と和希の仲を疑ったりしないのは、このころの和希が必死だったからだ。菜穂に彼氏がいることを認識していなかったらしい両親は面食らっていたが、真摯に見舞いを続ける和希をだんだんと信用していったようだった。
ある日和希は、小さなジュエリーボックスを手に病室にやってきた。その箱の大きさは、真穂が正孝にもらったものとよく似ていた。けれど、菜穂はそれを受け取らなかった。きらめく指輪を前に、菜穂は静かに微笑み、黙って首を振った。諦めない和希が何度指輪を持参しようとも、菜穂は頑として首を縦に振らなかった。
押し問答に焦れた菜穂が「元気になったら受け取ります」と告げた夜、真穂は一晩中泣き明かした。菜穂は、その言葉がどれほど残酷か、知っていて口にしたのだろうか。動揺したように唇を噛み締めた和希が、それ以降菜穂に指輪を差し出すことはなかった。次に真穂がその指輪を見たのは、菜穂の葬儀の日だ。火葬前の棺に入れることを断られた指輪を、和希は菜穂の骨壺にそっと入れた。最後まで、菜穂は求婚に応えはしなかった。
後悔は後から悔いるから後悔という。あの頃、家から逃げたりしなければよかったのだ。そうすれば菜穂をひとりぼっちにしなくて済んだのに。真穂が受け入れ難かった現実を、菜穂はまだ小さかったあの体でどんな風に受け止めていたのだろう。おとなしくて口の重い菜穂の声に、もっとちゃんと耳を傾けてあげればよかった。でも、真穂がちゃんと謝る前に、菜穂は遠いところへ行ってしまった。
それから真穂は、周りの声によく耳を傾けるようになった。声を拾い損ねることが怖かった。小さな声にまで漏らさず耳を傾けるようになると、新人教育に向いていると会社から評価されるようになった。もともと年下の面倒を見るのが苦ではないたちでもあるから、会社に命じられるままに後輩の育成に力を注ぐ日々が続いた。
でも、もうどれだけ耳を傾けても、菜穂の声は聞こえない。