3.道田正孝
着信を告げた携帯に表示されていたのは、蓮沼和希の名前だった。そんなことだろうと思って今日はビールを口にしないようにしていたが、正孝の想像した通りになったわけだ。電話越しに申し訳なさそうな和希に応じながら、泥酔したらしい妻を迎えに行くため、車のキーを手に取った。この時期に和希と二人で飲むと聞いて、おそらく酔いつぶれるだろうとは思ったのだ。真穂本人にも自覚があるのか、翌日動けなくても問題ないよう、きっちり金曜日を狙って飲みに行っているのがさすがとも言える。
近くのコインパーキングに車を止め、指定された居酒屋に顔を出すと、真穂はすっかり眠り込んでいた。向かいで申し訳なさそうに頭を下げる和希も、めったに見ないほど顔を赤くしている。
「いつもすみません、正孝さん」
「いやいや、いいよ」
「一応止めはしたんですけど、水島止まらなくて」
「そんなことだろうと思った」
そっと抱え上げた妻のまぶたは、赤く腫れていた。いつもきっちり欠かさないアイメイクも、すっかり崩れてしまっている。きっと明日鏡を見て絶叫することになるだろう。前に一度、気の毒に思って、拭き取るクレンジングとやらで顔を綺麗にしてあげようと試みたことがあったが、どうも正孝の手さばきは器用ではないらしく、翌朝真穂はすっかりヘソを曲げてしまった。それ以来、翌日絶叫が響き渡ろうが何をしようが、正孝は下手に手を出さないと決めている。
「車で来てるけど、蓮沼くん、乗ってく?」
「いえ、一人で帰ります」
「そうか。ずいぶん酔っ払ってるみたいだから、気をつけて帰りなさい」
立ち上がった和希は、なるほど一人で帰れるくらいにはしゃんとしていた。泥酔した真穂を迎えに来たことは何度もあるが、和希が一人で帰れなくなるほど酔っ払っているのを、正孝は見たことがない。厄介なタチだ、と内心で嘆息する。そっと振り返った和希は目を伏せて立ち尽くしていた。その左手がゆっくりと持ち上げられるのを見て、正孝はそっと前に向き直った。これ以上眺めているのは、不躾というものだ。
「道田さんの奥さん、また蓮沼さんと飲みに行ったんですか?」
「そうだね。翌日顔がむくんだって大騒ぎしてたよ」
いつも通りの表情で返事をすると、声をかけてきた後輩は不満げに唇を尖らせた。彼女はずいぶん社内の噂に通じているようだから、正孝が動揺もしていないことが不満なのかもしれない。
蓮沼和希も道田真穂も、その性格と仕事の実績で周囲に概ね好意を持って受け取られている社員だが、ある一点に関しては、主に若手社員から反感を買うことが多かった。否、反感を買っているのは真穂だけかもしれない。
「道田さん、気にしないんですか?」
「何を?」
「蓮沼さんと飲みに行くなんて」
「んー、別に気にしてないよ。蓮沼くんのことは俺も好きだしね」
この子はずいぶん突っ込んでくるな、と思う。それだけ気になって我慢がならなかったのかもしれないが、そうやって他人の事情に首を突っ込んでいると反感も買うぞ、と老婆心ながら考えた。まあ、少々事情が込み入りすぎていることは、正孝も承知の上だが。
蓮沼和希と、道田真穂、旧姓水島真穂は、同期入社の間ながら、入社当初から同期以上に仲のいい二人だった。出身大学は違うはずなのに、ふと気づけば二人で盛り上がっているのだから、付き合っているという噂が駆け巡るのも時間の問題だった。その噂は当時まだ若手だった正孝の耳にも当然届いていて、カップルで揃って入社とはやるな、だなんて思ったこともある。そんな真穂が入社後最初に配属されたのが、正孝のいる人事部だった。真穂は、一番歳の近い先輩として正孝によくなついたし、正孝も初めてできた後輩を可愛がった。そうして接するうち、真穂と和希が付き合っていないという事実を正孝は知ることになったのだ。
水島真穂という女性は、威勢が良くて、やる気に満ち溢れていて、とにかくたくましいという印象だった。その一方で、酒が入ると「運命の人と巡り会いたい」だなんて夢見がちなことを口にする、ロマンチストのような部分もあった。そんなギャップが面白くて構ううち、映画だとか、食べ物だとか、なんとなく趣味が合うことがわかった。それでも二の足を踏む正孝に、真穂はタックルのような告白をしてくれて、交際がスタートした。
本音を言うと、正孝自身、真穂と和希が付き合っていないのは嘘なんじゃないかと思っていた。真穂に告白されてからは、和希が真穂に片思いをしているんじゃないか、と思っていた。全ての疑問が氷解したのは、ついに婚約に至った真穂が、正孝を連れて浮かれたまま和希に報告しに行った時だ。出迎えてくれた和希の目に、恋情は微塵もなかった。和希が真穂を女として見ていないと、正孝の男の勘が告げていた。そこにいたのは、婚約に至って浮かれきった愛する女性と、その慶事をただひたすらに祝う友人でしかなかった。
正孝は決して二人の仲を疑わない。友達同士、飲みに行きたければ好きに飲みに行けばいいのだ。きっと、正孝がいては話せない話題が尽きないのだろう。そこに艶事は絶対にない。そもそも、旦那公認の浮気なんてあるわけがないのだ。
顔を上げれば、上司が苦笑まじりにこちらを見ていた。ある世代以上の社員たちは、事情を酌んでくれて、決して真穂と和希を糾弾したりしない。いつもお騒がせしてすみません、と、小さく頭を下げておいた。
定時を過ぎ、真穂と待ち合わせして帰宅の途につこうとしたとき、ふと真穂が足を止めた。何気なくその視線を追って、おや、と思う。数人の若い女性社員が集まっていて、その中に沖本香奈の姿があった。そして、昼間正孝に色々と尋ねてきた噂好きの後輩も見かけて、なんとなく嫌な予感を覚える。その予感は間違っていないのか、隣にいる真穂の表情も硬かった。真穂が香奈を可愛がっているのは有名な話だ。何を尋ねても暖簾に腕押しな正孝を諦めて、真穂に近しい香奈にターゲットを変えたとしても不思議ではなかった。
「ごめん正孝、ちょっと」
香奈を猫可愛がりしている真穂が、異様な雰囲気を捨て置けるわけがないのはわかりきっていた。勢い込んで踏み出そうとしたその腕を、正孝はそっと掴む。
「真穂さん」
「何よ」
早く行かせて、と言わんばかりに睨みつけてくる真穂をじっと見つめる。本当はこれは口にしたら残酷な言葉かもしれないけれど、きっと言わなければならなかったことを、そっと口にする。
「沖本さんは、沖本さんだからね」
「……!」
案の定、真穂は大きく目を見開いて、唇を引き結んだ。
「……わかってるわよ」
「そう、それならいいんだ」
そっと腕を放すと、真穂は今度こそ香奈たちの元へと歩いて行った。香奈は落ち着かないのか、見ていて少しかわいそうなくらい俯いてしまっている。
彼女によく似た、引っ込み思案でおとなしい女の子を、正孝は一人だけ知っていた。




