1.沖本香奈
臆病な香奈にとって、職場は意外なほどに居心地のいい場所だった。右も左も分からない就活中、飛び交う噂は様々で、香奈はただ怯える日々を送っていた。体育会系と呼ばれるような縦社会に飲み込まれたらどうしよう、仕事ができないからといじめられたらどうしよう、都市伝説のように囁かれる御局様とやらに目をつけられたらどうしよう。香奈は決して器用に立ち回れるほうではなかったし、どちらかといえば鈍臭いことも自覚していた。けれど蓋を開けてみれば、職場の先輩方は優しいし、新人教育も丁寧にしてくれたから、鈍臭い香奈でも大きなミスをすることなく働くことができていた。大好きな先輩もできた。同じ部署の中堅の道田真穂だ。彼女は香奈とは正反対のしゃきしゃきと働くデキる女性だったが、見た目に怯えた香奈の予想に反して、おぼつかない香奈の説明を辛抱強く聞いてくれる人だった。よく話を聞いてくれて、香奈が間違っているポイントをきっちりと探り当てて、正しく指導してくれる。真穂が見捨てないでいてくれたから、香奈はいまだに働けていると言っても過言ではないかもしれない。そんな真穂に香奈が懐くのは当然だったし、真穂のほうも香奈を可愛がってくれていた。
そんな真穂とのランチに出ようとしたところで、会社のエントランスで香奈は営業部の蓮沼和希を見かけた。彼は、噂に疎い香奈さえ知っているほどの有名人だ。中堅どころの年齢ながら、新卒にも負けないほどのバイタリティを誇る男で、営業成績は常に上位にいるらしい。しかし決してその実力を奢ることはなく、上司や先輩の顔はきっちりと立てるし、気さくに後輩の面倒を見て後進を育て上げていく指導力もある。朗らかな笑みをその端正な顔に浮かべて話しかけられて、落ちない社員はいない、というのがもっぱらの噂だ。香奈も入社直後の研修の頃に何度か世話になる機会があったが、いっそ恐縮してしまうほど丁寧に指導されてひたすら感服した記憶がある。
「あ、蓮沼! あんた今夜暇でしょ、飲みに行くわよ!」
ぼけっと和希を眺めていた香奈は、隣から上がった声に仰天した。真穂は輝かしい笑顔で手を振って、外回りから帰社したばかりらしい和希を呼び寄せる。彼は珍しく呆れた顔をしつつも、拒むことなく近寄ってきた。
「お前、俺の予定を聞く気がないのはどうにかならないのか」
「何よ、予定でも入ってるの?」
「……いや、ないけどさ」
「じゃあいいじゃないの」
苦々しい表情で飲みに行くのを了承する和希を、真穂は満面の笑みで見上げていた。笑顔が標準装備の和希がこんな表情をすることはあまりないが、同期である真穂相手には気安い態度を取るのを、香奈は何度か見ていた。対照的な表情を浮かべる二人を、香奈はぼんやりと見上げる。
「それよりもお前、俺を飲みに誘うのはいいけど、こんな目立つところで大声出すなよ」
「別にいいじゃない」
「お前が良くても、お前のかわいがってる後輩がびっくりしてるだろ」
「うえっ」
突然話を振られて、香奈はカエルが潰れたような声を上げた。噂の的たる蓮沼和希と尊敬する先輩の道田真穂は、なんだかあまりにも高みにいる二人だから、まるで別世界の会話を見ているかのような気がしていたのだ。急に舞台に引っ張り上げられて目を白黒させる香奈に、和希は小さく笑みをこぼした。
「ごめんな、沖本さん。こんなやつが先輩で苦労するだろ」
「ちょっとどういう意味よ蓮沼ァ!」
和希に噛み付く真穂を見ながら、香奈は改めて感服した。彼との接触は本当に新人研修の時だけで、それ以外は「道田真穂の後輩」という立場でしかなかったはずだが、彼はその程度の香奈の名前すらきっちり記憶しているらしい。それが天賦の才なのかはたまた営業で鍛え上げられたスキルなのかはわからないが、嫌味なく人をたらしこんでいくその技術はさすがの一言に尽きる。
彼はふくれっ面の真穂を笑うと、軽く手を上げてエレベーターのほうへと歩み去っていった。隣に立つ真穂は憤懣遣る方無いといった表情だが、それがじゃれ合いでしかないことは香奈にもよくわかっている。なんだかんだ仲がいい同期二人なのだ。
香奈はそうっと首を巡らせて、エレベーターの到着を待つ和希を顧みた。姿勢良く立っている彼の左手が、ふと持ち上がる。腕時計を確認するようなさりげなさで上げられた手は、香奈の見間違いでなければ、彼の口元まで持ち上がったように見えた。なんだかいけないものを見たような気がして、香奈は首をすくめて前に向き直った。
人事部に書類を届けるよう言われて、香奈は足早に歩いていた。こういう小さな使いっ走りが下っ端の役目であることくらい、いくらぼけぼけな香奈でも知っている。間違っても書類をぶちまけたりしないように、封筒ごと胸に抱え込んで廊下を進んでいくと、前から歩いてきた社員がふと香奈に気づいて足を止めた。
「あれ、沖本さん」
「あ、道田さん」
眼鏡の奥で目を柔和に細めた男は、道田正孝。人事部の社員で、香奈の尊敬する真穂の夫でもある人だ。真穂が香奈を可愛がってどこにでも連れ出すから、直接交流したことのない正孝とも香奈は知り合いだった。
「人事にお使い?」
「はい、書類を届けに」
「お疲れ様」
「ありがとうございます」
バイタリティの塊のような真穂とは対照的に、その夫である正孝は非常に温和で、物静かな男だった。夫婦で歩いている様は、あまりの熱量の差から「親子」などと揶揄されることも多く、その度に怒り出す真穂をなだめる正孝の姿が何度も目撃されていた。それほどまでに対照的な二人だが、相性は悪くないようで、少なくとも香奈は二人が喧嘩しているのを見たことはなかった。
「うちの奥さん、迷惑かけてない?」
「迷惑だなんてそんな、いつもお世話になってます」
「真穂さんはいい後輩を持ったよね」
「いえ、そんな」
恐縮して身を縮める香奈を、正孝は穏やかな目で見下ろした。正孝は和希のように目立つ社員ではないが、彼の父親か兄を思わせる穏やかさは、いつも香奈を安心させてくれた。
「またうちの奥さん、営業の蓮沼くんに噛みついたんだって?」
「あ、いえ、それは、噛みついたというか」
二人のじゃれあいは正孝もよく知るところなのだろう、くつくつと心底面白そうに笑い出す。
「そういえば、真穂先輩、今日蓮沼さんと飲みにいくって」
「ああ、メールが来てたよ。真穂さんは本当に蓮沼くんが好きだね」
「道田さんも行かれるんですか?」
「ああ……いや」
ふと気づいたように正孝は腕時計に目を落として、それから静かに微笑んだ。
「そうだな、今日は俺は要らないんじゃないかな」
引き止めてごめんね、と笑って歩き出した正孝を、香奈はそっと見送った。中肉中背の背中は、きっちりと伸ばされていた。