アルヴァトト
かつかつと靴底で床を鳴らす。その自ら発する音にさえ苛立ちながら、何度目になるかわからない視線を小窓から見える夜空に向けた。時刻はどのくらいだろうか。日が沈んでから既に数時間が経過した。
アルヴェニーナが帰ってこない。
通常であれば神殿など可能な限り居たくない場所だ。しかも、先日アルヴェニーナが誘拐された場所。いくら首謀者が捕らえられたからといえど、他の者全員が関わりがないとはとうてい思えない。たとえ謁見であれ本当はアルヴェニーナを連れてくることさえ拒みたかった。
そんな場所で何時間も帰りを待つこととなれば苛立ちもする。
神への謁見は間違いなく行われている。この道は神の在る間以外に繋がっていない。横入りできるとすれば、人間の使う魔術さえ平然と使いこなす神くらいだろう。それ以前に神官たちは、この謁見を神聖視している。さすがに謁見に際して邪魔してくるとは考えられない。
だから、アルヴェニーナは間違いなく赤の神アンドレンダリヤの元に居る。しかしそれも問題だった。
神の元に居て、なぜ帰ってこない。早くに戻ってくるように言いつけたのは自分だ。アルヴェニーナがその約束を破るとは思えない。たとえ神とアレが気安く話すようなおかしな関係であったとしても、アルヴェニーナは私が困るからという理由で名残惜しくともかの神と離れる子だ。
苛立ちは募る。花の色の髪を揺らしながら控えめに駆け寄ってくる姿が見えないことに、不安になる。
もしもアルヴェニーナが、この世界の人間に愛想をつかしていたらどうしようかと。
ここのところの問題でアルヴェニーナが参っていたのは知っている。王子の冗談や緑の神子の問題で、精神に負荷を掛けられていた。そして、私の存在にも。
あれは、他から感情を向けられることに恐怖しているのだろうか。私からの感情を察して怯えているのだろうか。
アルヴェニーナが私に対して向ける感情が悪感情ではないことは知っている。正の感情を隠すのに長けてはいるが、存外抜けていてわかりやすいところもあると思ったのは、王子の訪れた時だった。そんな選択肢があるのかと、光を見つけたように零したあれの表情は忘れられるものではない。期待さえした。
だが、それさえも重さと感じるのがアルヴェニーナの悪いところだ。
緑の神子と攫われてから不安定だったアルヴェニーナを戻したのは、赤の神だった。話しやすいと漏らしていたのをよく覚えている。持て余すような自身の感情に気付いてから、アルヴェニーナの「ダリア様」という呼称が耳障りで仕方がなかったから。
楽な方を選んだのかもしれない。
そしてその方が、アルヴェニーナのためなのかもしれない。
帰ってこない、アルヴェニーナの通った道を見る。ランタンを持ち進まなければならない道は暗く、奥は見えない。……それでも。
それでもアルヴェニーナが、黙って消えるとは思えない。人一倍他人への迷惑を考えすぎる子だ。私に黙って、赤の神のものとなるはずがない。
椅子から腰を上げる。この先は一本道だ。普通の人間は先へ進んだところで神の元へはたどり着けない。けれど母に神子を持ち、神力と赤の神の称した力のある自分ならば、あるいは通れるかもしれない。
「どうされるおつもりですか?」
けれど気配で察したか、足を一歩踏み出すよりも先に神官が、行く手を阻んだ。細い道に立ち塞がられれば間を縫って進むこともできない。
「神子を迎えに行くだけだ。退け」
「ここから先は神子以外はお通しできません」
「神子が帰ってこない」
「彼女は本物の神子です。きっと赤の神に見初められたのでしょう、緑の神子などという人間と結ばれるよりもはるかに喜ばしいことではありませんか」
これだから、神官は。
舌打ちを零し無理やりにでも進もうとする。足を踏み出し手を出して神官を押しのけようと力を込めれば、神官が懐に手を差し入れた。服の隙間から一瞬見えた光に、体を引く。その瞬間、それまで自分の居た場所を銀の光が薙いだ。
「これ以上進もうとすればあなたを殺します。そしてこの通路を塞ぎましょう。赤の神も神子を手に入れたのですから、きっとお許しくださいます」
その目は本気で、妄信的で、盲目なようだ。戦闘経験などもなければ護身用にさえ武器等持っていない。あちらも同程度であろうとはいえ、無理に通ろうとすればただでは済まないだろう。もしアルヴェニーナの元へたどり着けたとして、自分のせいで私が傷ついたとしれば、あれはきっと深く傷つく。
一度、引くしかないか。
踵を返し今度は神殿の出口へと足を進める。案内などなくとも神殿から帰ることは容易だ。ソドリーに連絡を取り、明朝までに支度をしなければならない。
二度目になる頼みごとを、あの青の神子ならば嫌がることなく受けてくれるだろう。青の神がこちら側についてくれるかどうかは賭けになるが、神は神子の問いには答えなければならない制約があると聞いたことがある。
早足になる歩を進めながら、アルヴェニーナの世界にあったという、赤の神の鏡のような遠くの相手とも連絡の取れる道具とやらがないこの世界を呪った。
明朝、神殿の前に青の神子とソドリーと揃って向かう。まず青の神子が青の神に謁見し、事情を聞き乗り込めるように交渉する。青の神の了承を得て私が向かえればそれが最善で、不可能ならば青の神子に迎えに行ってもらう……若しくは最終手段、強行突破ということになる。最終手段はソドリーや青の神子には話していないから、かなり難しいものになりかねないが。さすがに騎士であるソドリーを相手取るのは不利が過ぎる。
「じゃあ私、いってきますね」
昨晩のうちに使いの話を聞いて、今朝早々に出立の準備を整えてくれた青の神子には感謝する。青の神に会いに行くことはできないので、青の神の間に続く待合でソドリーと二人待機する。
神官は謁見の順番が違うなどと反対しようとしたが、赤の神子であるアルヴェニーナがこのまま神に連れていかれるのならば順番など関係ないだろうと丸め込んだ。神子が神の元へ向かうことについて、神殿側としては基本願っていることのため、反対の声はすぐに止んだ。青の神から、アルヴェニーナが赤の神のものになったという話を聞きたいが故かもしれない。
「面倒をかけてすまない、ソドリー」
「構わない。赤の神子がこのままいなくなるのはこちらとしても、喜ばしいことではないからな」
ソドリーは、私と同じく牧師である以前に王に仕えるものだ。決まりを逸脱した状態と、今後の対策の取りにくいこの状況は望ましいものではないのだろう。
国の神子制度としてもこの状況による損害が発生する。優れた王には優れた神子が現れるとはいうが、赤の神に娶られた神子を持つ王となれば国民や他国のものに、神の嫁となる素晴らしい神子を持つ王と見られるか、神子を神に隠された王と見られるか、わからない。他国に、つけ入る隙を与えられるほどにはこの国にも確立した国力はない。
「それに」
ともあれ情を最優先に動いているものなど私だけであろうから、最終手段を使うことになれば阻まれることは必至だろうと考えていた。しかし私の予想を覆し、ソドリーは言い難そうに顔を逸らし呟いた。
「赤の神子には恩もある」
小さな声で呟かれたそれは、アルヴェニーナが泣きそうになりながら紡いだ言葉の結果で。
一晩経っても帰ってこなかったアルヴェニーナへの心配が増す。あれは、自覚せずに人の心を動かす。それが神にも適応されていたとしたら? そのせいで赤の神がアルヴェニーナを、本気で気に入っていたら?
感情のままに足を運んでいたけれど、アルヴェニーナを迎えに行くことだけを考えていた自分は、考えていなかった。
その方法も、それが正しいかも。
漠然とした不安が襲う。神に反逆するなど、母が辛そうな顔をしていたときでさえ考えたこともなかったというのに。
「アルヴァトト様!」
下手に思考を回しすぎたせいで余計なことを考え掛けていたところに、声がかかる。石の廊下を音を立てて走ってくる青の神子に顔を上げれば、安堵したような顔がこちらに向かってきていた。
「青の神子」
「ルリでいいです。エルドシャ様が、ニーナと赤の神に会わせてくれるって」
「やはり、アルヴェニーナは赤の神の元に居るのか」
それ以外であればむしろ困ったことになっていたが、事実として赤の神の元に居たことに苛立つ。
ただ、青の神子は困ったように俯き言葉を濁す。何か、言い辛いことでもあるのか。困惑していればそのままに、腕を掴まれた。
「とにかく、一緒にエルドシャ様のところへ行きましょう」
そうして青の神子に引っ張られるように、奥の部屋まで足を進める。止める間もなかったのか、青の神子が先導しているからかはしれないが、今度は神官の制止もない。
アルヴェニーナと違い意志の強そうな足の進め方にひどい違和感を覚えながらついて行けば、すぐに廊下の終わりに到着した。そうして、暗い広間に入ればその瞬間、瞬く間に部屋の雰囲気が変わる。
神の間に入ったことなどない。けれどこの変わりようや内装は、アルヴェニーナから以前聞いていたものだった。青の神の間。
「あなたがニーナの牧師ですか」
それまで気配すらしなかったというのに、唐突に、目前に現れたその存在は大きくはないが通る声をこちらに掛けてきた。男のものに思える声を発するその存在は、人と同じ形をしているが人間と同じ扱いをするのは烏滸がましいと思うほどに神々しい。これらと友人のように接しているアルヴェニーナは、神をどう見ているのだろうか。
「……はい。謁見のお許しを頂きありがとうございます。赤の神子が戻らなくなり、青の神子に取次を依頼いたしました」
目を合わせるのも憚られ首を垂れて願えば目の前の存在は小さなため息を吐いた。
「青の神子……ルリより聞きました。今回の件は赤の神、アンドレンダリヤの独断です。あなたを、赤の神の間へ連れて行きましょう」
「……ありがとうございます」
想定以上に簡単に事が運び、困惑しつつも謝礼を伝えれば小さく息を吐くのが聞こえた。人と同じように神も呼吸をしているのだと思うと不思議な気分だ。
青の神はこちらにはあまり興味を示していないような調子で青の神子に向く。目にも感情が籠っていて、少し優し気に、自身の神子へ声を掛ける。
「ルリは先ほどの部屋へ戻りなさい。ここからは赤の神と神子の話になります」
「え……でも、私もニーナが心配で」
「あなたの牧師が困っているようです。戻ってあげなさい」
「あ!」
言われて初めて、ソドリーが一緒に来ていないことに気付く。ソドリーだけが神子の資質を持っていなかったから入口ではじかれたか、先の部屋で神官に止められているのかもしれない。
青の神子は焦ったようにふためきつつも、少し心配そうにこちらを一瞥する。必ず連れて帰る。そう頷いて見せればそれでようやく、彼女は安心したように来た道を引き返した。
青の神子が居なくなっても部屋の様子が変わることはない。変わらぬ青の部屋だ。ここで青の神の姿も見えなくなっては困ったので安堵する。
ただ、ひとつ変わったことがあった。
「さてと。迎えに来てくれて助かったよ。正直、このままだと持て余すことは目に見えてたからね。乙女でもない子のコイバナとか興味もないし」
青の神は、先ほどまでとは人が変わったかのように肩を竦めて呟いた。目を瞠る。アルヴェニーナの言っていた神の様子を思い出そうと脳は必死に回転する。青の神についても、良い方ですよと言っていた気はするが。
ぱちんと音を立て、青の神が指を鳴らす。こちらが身構える間もなく発された音に驚き振り返れば、その瞬く間に部屋の内装が変わっていた。
青を基調としていた部屋は白く変わる。そして大きさを広げた部屋を見回せば、少し離れたところに椅子と、赤の服を纏った者がふたり。
「おー、よく来たな。赤の牧師」
気付いたようにこちらを振り向いた赤く、男の姿をした方。赤の神アンドレンダリヤであろうその方は、アルヴェニーナを攫ったというには軽薄な調子でこちらを見た。
神々しさは赤の神も青の神も変わらない。目を合わせるのが憚られる存在。
アルヴェニーナがこの神に親しみを覚え、この神の前では自然体であれたというのならばこの性格が、あれの望むものだったのか。
拳を握り、不敬を招致で足を進める。罰を落とされようとも構わない。向かうは、赤の神の向かいに座っている花の色の頭だ。こちらを向かない様子は普通であるとは考え難い。あれは、声が聞こえれば必ず立ち上がってこちらを見るのだ。
普通ではないアルヴェニーナの傍に立ち、見下ろす。眠っているわけではない。虚ろな目をし、どこを見ているかわからないで膝を抱えている。ぽそぽそと口を動かしてはいるが、何を口にしているのかは聞こえない。
「……アルヴェニーナ」
なぜアルヴェニーナがこのような状態になっているのかも、この状態のアルヴェニーナを放っておく赤の神の意図も、何もわからない。敵意を向けるつもりはないが、アルヴェニーナが信用し、アルヴェニーナを平常に戻すことのできる存在がこれを安心した顔にさせていないことに腹が立つ。しかし、裏面にはアルヴェニーナが赤の神を求め、人間に……私に嫌気を覚えてここに居るわけではないということに安堵する自分が居ることに気付いていた。
「赤の神よ。アルヴェニーナをお返しいただきたい」
「連れて帰ってどうすんの?」
声を掛けると待ち構えていたような問い返しがくる。人間とは違う精巧な作り物のような顔で薄く笑い、赤の神は問う。
「お前も知ってるだろ? ニーナがいろいろ悩んでたこと。このまま連れ帰って何になる? またニーナを罪悪感と劣等感で苦しめるだけじゃないのか?」
神の問いは、的を射ていた。赤の神はアルヴェニーナの悩みを知っている。私よりもこの子のことを知っている。
「それはあなたと話すことではありません。アルヴェニーナと話すことです」
それがどうしたと、視線を赤の神に合わせて返す。ガラス玉のような赤の目は怖ろしい。
何もかも見透かしそうなそれはじっとこちらを見つめ返し――目を細めた。
「いいね」
それが笑んでいると気付いたのと同時、視界の端で何かが動いた。花の色がふわりと揺れる。
「あ、ルヴァトト、さま……?」
「アルヴェニーナ!?」
徐に振り返ったアルヴェニーナは混乱しているようで、こちらを見、赤の神を見て、更に端の方でこちらを見ていた青の神に向き、何度か視線を彷徨わす。見比べるようにしながら状況を把握しようと努めているらしい。
「なんでアルヴァトト様がここに……ていうか今何時? 私何してたの? だ、ダリア様」
「えっ、えーと、な」
「今は謁見の翌日で、ニーナはダリアによって帰る意志を抜かれてて、それを心配した牧師の彼が僕を頼ってここにきみを迎えに来たところだよ、ニーナ」
説明を求められて目を逸らす赤の神に、青の神が寄ってきてアルヴェニーナに事の真相を伝える。帰る意志を抜かれていたとは初めて聞いたことだが、アルヴェニーナがここに残ったのは本人の意志ではないらしい。こっそり息を吐く。
しかし安堵したのは私だけのようで、アルヴェニーナは立ち上がり詰め寄るように赤の神に向かった。
「ダリア様!? なんてことしてくれたんですか、なんでそんなこと……私がうじうじしてるせいですか? わた、私が泣いたから?」
「別にアルヴェニーナのせいってわけじゃないって。いや、まあ確かにお前が悩んでたからなんだけど」
「理由としては僕んときと同じだよね」
「わたしのせいじゃないですか! 私のせいで、アルヴァトト様に迷惑、また……」
「いやいやいや違うって! 俺がそうしたかったからだから」
慌てるように赤の神も立ち上がり、そばで青の神は面倒くさそうにため息を吐いている。
なんだ、これは。
まるで謁見の最中とは思えない会話。けれどアルヴェニーナがそれを普通に受け入れているということは、これがいつもの様子なのだろう。アルヴェニーナはこうして神と接していたのだ。
動揺と困惑と、少々の嫉妬を自分のうちに感じる。アルヴェニーナの見たことのない顔が他人に向いているのをこれ以上、見ていられなくてアルヴェニーナの視界に入るように移動する。
「アルヴァトト様、ご、ごめんなさい。すみません、私そんなつもりはなくって」
途端私には謝罪ばかりを口に出してくるアルヴェニーナに、苛立ちを感じる。赤の神に向けるような不満の顔をこちらにも向けてくれればいいのに。
私も信頼して、頼ってくれればいいのに。
「アルヴェニーナ。帰るぞ」
それには何が必要か。考えても正しい答えはわからない。けれど言いたいことはあって、アルヴェニーナの手を取る。ここではない、これと私のうちで話したいことがある。
「赤の神、青の神よ。大変失礼ではありますが、これを連れて帰りたいと思います」
「アルヴァトト様……」
そのまま抱き上げ、先に出てきた扉へ向かう。青の神の部屋から繋がる廊下に出られれば、協力してくれた二人にも会えるはずだ。
制止のかからないのをいいことにそそくさと部屋を去ろうと廊下に踏み出そうとする直前、後ろから声がかかった。
「俺はお前の幸せを願ってるよ、アルヴェニーナ」
それはアルヴェニーナに言った言葉で、けれど私に対する圧力のように聞こえた。




