プロローグ
ほんのりとした暖かさに身を包まれたような感覚がして、意識を浮上させる。まるで春先の布団の中に居るときのように重たくて開かない目蓋。その薄い目蓋の向こうが少し明るく光る。まどろみに抗う理由を考えれば、真っ先に出てきたのは「遅刻」という単語で。
「遅刻!」
それをそのまま口に出して、飛び起きた。どうやらうつぶせで眠っていたらしく、目を見開いて腕を立てれば、視界いっぱいに地面が映った。地面が、映った?
「な、なんだ?」
白い地面は打ちっぱなしのコンクリートのような色合いで、自室のベッドの敷布団ではない。ベッドカバーは薄いクリーム色だったはずだ。首を傾げる中に届いた音に、顔を上げた。思考をまだ始めていない脳は、ここが自室ならばなぜ人の声が? なんて考えずに、目をそちらに向けるように信号を送ってくる。
「成功したのだろうな?」
「起き上がっているのです、成功で間違いないでしょう」
視線を上げた先では数メートル向こうに二人の男が立ち、話しているのが見えた。そしてその後ろには、十数名の同じような服を着た人間らしき人々。人間だと断定できないのは、彼らが総じて甲冑を被っているからだ。
被っていないのは、話している二人の男だけ。豪奢な服を着て赤茶色の髪を上げた、三十代後半くらいの男と、黒のローブを全身に纏い、宝飾品をたくさんつけた、顔の見えない男。彼らの発している音の意味は、確実に耳に届いて脳が理解した。けれど、まるで自分の知っている言語ではないかのような不思議な音をしている。まるで外国語を聞いているみたいなのに、意味だけは素直に理解できるのだ。
どこ、ここ。
声には出さなかった。出せなかったと言う方が正しいか。想定外の事態に弱いのは上司に言われて知っている。それに、これほどに緊迫した空気の中、許可も求めずに声を上げるなんてことは、性格上できなかった。生粋の日本人気質なのもある。
呆然と目を瞬いていれば、黒のローブがこちらに向かって歩き始めた。本能的な恐怖を感じて体を後退させようとするが、足が鉛のように重たくて、立ち上がることは叶わなかった。起き上がるときにできた動きは遅刻という恐怖からくる馬鹿力だったようで、今は腕も、足も、ひどく重たくてだるい。
怯える目をローブの男に向けていれば、彼は足で地面をこするようにして何かを消した。見下ろせば、自分を中心に円のような模様が描かれている。地面の白と同化して見えにくいが、石灰のようなもので描かれているそれは、足で払えば簡単に崩れた。
男はそれを認めると、ずんずんと近寄ってきた。逃げることもできないで、せめてもと体を後ろに反らせていれば、脇と、膝の裏に手を入れられた。
一瞬の浮遊感。驚くほど簡単に持ち上げられたことに気付いたのは、ローブの男に完全に抱き上げられたあとだった。思ったよりも高い位置に来た視界に目を白黒させていれば、男に、片腕で抱けるような体勢に持ちかえられた。まるで荷物のような扱いだ。私を持ち替えて空いた片手で、男はローブのフードに手をかける。
ふわりと、フードが落ちるのに引っ張られ、新緑の色をした髪が流れた。顔があらわになったことで気付いたが、男はまだ二十代かそこらの若さだった。きっとイケメンと呼ばれる類の顔をしているのだろう。アイドル系ではなく、堅い外国人俳優の印象だ。他人の顔の造形に興味を覚えずに生きていたのでよくはわからないが。ああ、それで人の顔と名前があまり覚えられなくて怒られたんだ。思い出せば落ち込むこととなってしまった。こんな状況で。
顔に気を取られていたけれど、不思議な髪色をしている。日に当たっていたから最初は新緑のように見えたけれど、落ち着いて見ればその髪色は深緑のような濃い色だ。顔立ちといい、明らかに日本人ではない。薄い唇を開いて、男は視線を遠くに向ける。
「ここに、赤の神子を迎えた!」
想定外の大きな声に、肩が震えた。驚いて男を見上げて、それから男の視線の先を辿る。それと同時に、わあっと、男の声以上の声量の歓声が沸いた。目を瞠って見れば、どうやら何かの壇上だったようで、見えていた甲冑の向こうに大勢の人間が居るのに気付いた。
え、何? みこ? どこの劇場?
まるで学校の演劇のような展開。神子という聞きなれない単語。それが巫女ではないことは言語の違いでわかるのに、意識には同じような「みこ」で取り入れられるから混乱して、わけがわからなくなる。
「なに、これ……」
思わず声に漏れた。理解の範囲を超えてしまった。キャパオーバーだ、と回転しすぎというよりはうまく回転できずに停止した思考で、私はすっと意識を落とした。
目を開いて瞬きする。目が覚めたのは、外の明るい時分だった。
今日何度目かわからない寝起き特有のだるさに、加えて頭痛までして頭を抱える。
「うう……」
唸ってみると、声が出た。はっきりと聞こえたそれは、ちゃんと自分の口から出た声だ。
意識が途切れるまでの記憶はしっかりとあって、自分の死んだ感覚も、おかしな白の部屋もしっかりと覚えている。多分、夢ではない。もし今までの全部が夢で、現在二度寝の後だったりすれば、大事である。それこそ死んだ方がましだ。
夢でないのならば状況の把握が必要になる。重たい腕は今頭を抱えるのに持ち上げたため、ついでに額で支えてグーパーと握ったり開いたりしてみた。ベッドらしきところに寝転がっているのに、それでもなお体が重い。
そして……何か違和感がある。
首を傾げてみれば、視界の端に不思議な色が映った。糸のようだが、自身の動きに合わせて動いているような気がする。髪かもしれない、という想像はすぐにできたが、その色が予測を否定した。光に透ける、細い桜色を自分の髪だと認識できるほど、ファンタジーな脳はしていない。
考えるのをやめて、違和感の正体を探ることにしよう。何がおかしいか? それはその手の雰囲気だ。自分の手は、女性であるため固くて大きな手ではなかったが、こんなにふっくらしていただろうか。こんなに指が短くて、小さな手だっただろうか。
コンプレックスになりそうな手というわけではなく、明らかに未発達の者の形をしている自分の手。再度握って、開いてみれば意志通りに動いてしまって、残念ながら自分のものでないと証明することはできなかった。逆に自分のものである証明はできた。
結論を出したくないと理性が引き止めるのに、脳は正常に回転して答えを口からついて出す。
「子どもの手……?」
言うなよおと止めたところで自分である。想いと行動が一致しないのは何の影響だろうか。生きているときもしばしばあったので、私の自我がおかしいのだろうけれど。
「神子さま?」
不意に、そんな声が聞こえた。認識と発声される音に違和感のあるそれは、けれど少し耳に馴染んでいる。どこの言葉かわからないけれど、日本語でないことは確かだ。
日本語でない言葉を理解できていることは問題だけれど諸々一旦置いておいて、音の聞こえた方向を向けば、そこには薄い膜がかかっていた。レースカーテンのようなそれは、外から光を取り込んでいる。見上げればそれは天井から直接釣り下がっているようだ。レールはない。そういえばあの白い部屋はどうだったか。あれは何だったのか。そこまで考えたところで、カーテンの向こう側の人影が揺れた。
「失礼いたします」
そっと、押し避けられるようにカーテンが避けられて、人が入ってくる。思わず飛びのこうとしたけれど、相変わらず体は重たくて動かなかった。飛びのくどころか起き上がれてさえいない。
「神子さま、お目覚めですか?」
声をかけながら入ってきた相手を警戒しながら見ていると、顔をのぞかせたのは一人の女性だった。じっと見ていたせいでばっちり目が合ってしまって気まずい思いをする。
そして、驚いた。彼女の容姿に。ひとつにまとめられた髪の色は、きれいな緑色をしていた。薄緑の髪は根元からすべてが同色で、染められたものではないと言い切れる。しかと合った目も、同様に綺麗な緑だ。日本人では、まずありえない。そんな色が違和感なく人の姿に定着しているのである。
「え、えっと」
なんとか会話を試みなければ。そう思い口を動かしてみる。からからに乾いた口ではうまく音にならなくて、たまった唾を飲み込む。気付かれないようにしたつもりではあったが、女性はそれに気付いたのだろう。「お待ちくださいませ」と上品に言ってカーテンから出た。次には部屋に入ってきて、水の入ったコップを渡してくれる。カーテンの向こうで何か言っていたから、誰か他にも居るのだろう。口調から、何か指示しているようなものだった気がする。
「どうぞ」
そっと差し出された水をもらって、起き上がって飲む。警戒したところで仕方がない状況だ。水が目の前に出されれば喉が渇いているのにも気づいてしまったので仕方ない。
体を起こすのはめいっぱい頑張らなければならなかったけれど、横になっていては水も飲めないし、何より人に相対するのに寝転がっていては失礼だ。
「何日も目が覚めないので、心配していたのです」
水を飲みほした私を見ながら、余計なことは聞かないで、控えめに微笑む女性に好感を覚える。だが、言葉には驚きを得た。何日も眠っていたと。今日何度も寝起きしていたのではなく、私は何日も眠ったままだったらしい。
軽く咳払いして喉の調子を整え、ようやく私は口を開ける。
「すみません、ありがとうございます」
口をついて出たのは、そんな謝罪とお礼だった。もう口癖みたいなそれは、ただ、見事に違和感を覚えさせた。口から出るその言葉の音が、自分の知っている日本語と違ったからだ。思わず口を押えれば「お気持ちが悪いですか?」と問われた。慌てて首を横に振る。驚いただけで吐き気などはない。
「いえ、すみません」
曖昧な笑顔で返せば不審そうにしながらも女性はにこりと笑った。
多分だが、この音がこちらの言葉なのだろう。そして相手の言葉は自分の中に同時通訳のように意味が入ってきて、自分の口から出る際に同時通訳でこちらの言葉になる。便利なものだが、そもそも「こちら」がどちらなのかわからないので混乱は収まらない。
「あの、ここはどこなんですか? 今、どういう状況なんですか?」
わからないのなら聞くしかない。礼もそこそこに、状況を問う。状況がわかっていなければ、何に対して感謝していいかわからないのだから、それは重要なことだ。意味も気持ちもない謝罪と感謝は相手にとって気持ちのいいものではない。
ただ、質問には誤魔化すような笑顔だけが返ってきた。
「それは、今からいらっしゃる方に伺ってください」
「今からいらっしゃる方……ですか?」
誰が来ると言うのだ。おうむ返しにしながら問えば、彼女は首肯だけして下がった。カーテンが閉じて、再度一人の空間ができる。
「……え?」
え、まじでそれだけ? 目を瞬いても、薄緑の彼女が戻ってくることはない。ただ、カーテンの向こうに居ることは影でわかる。「いやいや待って? ちゃんと教えて?」と言いたくても、さすがに初対面の相手にそこまで無体を働けるほどに図太くはなかった。
一応誰かが来て教えてくれると言うのだ。待つしかないだろう。
仕方ないので状況把握のために周りを見回す。全面レースカーテンで覆われているここは、ベッドのようだ。自分は今白い布団に座った状態のようである。水を飲むため起き上がるのにさえとても苦労したので、体はあまり自由ではない。何が原因かは現在不明だ。
ていうか、天蓋付きベッドってやつじゃないか、これ?
ハッとして見回せば、ベッドボードはシンプルでレースカーテンも質素なものだが、一般的に天蓋付きベッドと言われるもののようである。昔は可愛らしいなあと憧れたものだが、まさかこの年になって使うとは思わなかった。
いや、年齢はわからないけれど。
思うのは先ほどの女性を見たからだ。見た感じ、二十代半ばから後半くらいの女性だった。自分とそう大差ない年齢だ。なのに、視線の位置が、手の大きさが、大きく違ったのだ。導き出される答えはひとつで、自分が、縮んでいるのだという現実を受け入れざるをえなくなってしまった。
そしてもうひとつ、事実として受け入れなければならないこと。そっと、自分の髪を手に取ってみる。元々こんなに髪が長かったことは小学校以来ないので、すぐに意識の中には入っていた。成人式でもここまで伸ばしていない、というほどに長い髪の毛は、どう見てもピンク色だった。大学で、一部の派手な学生がしていた髪の色を思い出すけれど、それとは違う自然な色だ。桜色のような薄いピンクは、染めたものではない、間違いなく自前である。
可愛いけど。可愛いけれども。
日本人的感覚からは少々受け入れがたいその色に頭を抱える。漫画だとかで見たことはあるけれど、さすがに自分がこの色になるのはどうかと思う。派手な色が求められるならばせめて別の色がよかった。ピンクなんて、この年になると可愛い子しか似合わない色じゃないか。
少々偏見を以ってつきつきと痛むこめかみを押さえる。体はたぶん別人のように変わっているけれど、片頭痛は残っているのだろうか。少なくとも不定期の地味な痛みを与えてくる頭痛は残っているようだ。嫌なものだけ引き継がないでほしい。
ぐうっと痛みを堪えて、さて、と息を吐く。思考を止めていい段階にはまだ至らない。
ここまでの考えをまとめると、現在、自分は自分ではない誰かの体をしている。そしてその原因を考えると、あの夢のような白い世界しか思い当たらない。
男は言っていた。
「再度人として生き、魂を精練するのが、あなたに下された命です」
「あなたには別人として再度生を受けてもらいます。少し特殊なことになるかもしれませんが、そこはうまく調整しますので、ご心配なく」
つまり自分は、魂の精錬とやらをするために別人として生まれ変わったのだろう。なぜこのような中途半端な年齢から生まれ変わったのかはわからないけれど、これが少し特殊な状況なのだと思う。これがうまい調整かというのはさておいて。あの男にとっての都合のよさと私にとっての都合のよさは違うのだから。
ただ、なんで記憶があるのかがわからない。記憶がある方が都合いいなんてことあるはずないのだから。
だいたい、記憶が残るなら残りますよと言っておいてほしい。そして選択できるならば、できれば記憶なんて消してほしかった。
何も残さず、一から人生を楽しみたかった。
この記憶を持ったまま昔に戻れれば違う選択肢もあったかもしれないのに、と考えたことがないではない。人生の中で選択を変えれば変わることなんてたくさんあったと思う。しかし、日本人として目の回るような現状がしんどいという点を除いても、記憶なんて必要なかったと思う。覚えていたって、面白いことなんてなかったんだから、何もない方が都合がいいに決まっている。
覚えていなければ子どものようにふるまうことだってできるのに、と前提で理論が壊れるようなことを思っていると、カーテンの向こうからノック音が聞こえた。誰かが来たらしい。扉の開く音がして、カツカツと足音が入ってくる。外には薄緑の女性が居たはずだから、さっき言っていた人が来たのだろう。
そうして、不躾にも突然カーテンが開けば、ひとりの人が覗いた。
突然明かりが差しこんだからだろう、その髪色は新緑の色に見えた。けれど、落ち着けばわかる。彼の色は深緑で、彼は、最初に目を覚ましたときに見たローブの男だと。
現在は黒の衣装を着ているだけで頭まで隠れるフードの付いたローブはないし、宝飾品も少ししかつけていない。やっぱり整った顔立ちをしているけれど、愛想はない。特に求めてもないけれど。それよりも、問題なのはこの男が来たことで嫌なことを思いだしそうなことだった。たくさんの人前に出されて何か重要な宣言をされたような記憶が、ある気がする。あの時は完全に夢見心地だったから、できるだけ夢という方向で自分の記憶を片付けたい。
無愛想な表情の男はカーテンを閉じると、じっとこちらを見下ろした。それが検分されるようで、見極められているようで、とても居心地が悪くて、目が回る。頭痛がひどくなっていくのを感じながら、唯一できる愛想笑いの表情を取り繕った。
「あ、あの、どうも……」
掠れて出た声。言葉はつたないにも程があって、それでも社会人かと問いたくなるようなものだった。そもそも仕事の会話はできても世間話は苦手な類の社会人なのだ。
「大変不躾で申し訳ないのですが、あの、ここ、どこなのでしょう?」
慌てて言葉を続ける。できるだけ丁寧な言葉を、と思っても育ちのいいお嬢さんでもないのだ。簡単に綺麗な言葉を使えるものでもない。
動揺が全面ににじんだ問いに、男は見定めるような目を、ようやく外した。一度軽く目を閉じて、すっと流れるような動作で立ち上がる。そうしてカーテンを少し開くと、小さな声で外に指示を出した。
「お前たちは外に出ていろ。全員だ」
指示というよりは命令だ。外で一瞬動揺したような「しかし」という声が聞こえたが、それ以上の反論はなく、何人かの足音が部屋から出ていくのが聞こえる。
二人きりにされてしまった。
気まずさと怯えを胸に、服の胸のあたりをぎゅっと握る。彼はそれを見ながら、小さくため息を吐いた。そして、先ほど薄緑の女性が座った椅子を引き寄せて座る。目線が近くなったから、より一層気まずい気分になる。見下ろされていた方が楽だった。
「……気分はどうだ?」
緊張する私に、問われたのは体調の心配だった。
先ほどの命令より幾分優しい声色で問われて、どきりとする。こんなに、真正面から心配を受けたのなど子どもの頃以来な気がした。今が子どもだからだろうか。低い位置でひとつに束ねられた深緑がさらりと肩で揺れる。カーテンの中に居ると、より一層深い緑に見える。
「だ、大丈夫です」
「嘘は吐くな。体調がいいはずがないのはわかっている」
反射的に返した答えに、反論を食らった。否定するならば問わないでほしいとも思ったが、言われれば確かに嘘ではある。
「頭が痛いのと……体がだるいです」
「どのように?」
「手足が重たくて、身動きが取りにくいような感じです。体が固まっているというか……」
この人は医者か何かだろうか。夢のはずのローブ姿が脳裏に焼き付いているし、なんだか魔法陣のようなものを消していた幻を見た気もするから、魔法使いのようなイメージがあったけれど。実際はお医者様なのかもしれない。思いながら正直に症状を話せば男は頷く。
「招致前の体の準備の後遺症だ。きみの言うように固まっているだけだから、慣れれば動くようになるはずだ。頭が痛いとは?」
気になることをさらりと言われたが、それに疑問を返す前に次の質問をされた。質問は最後にまとめてした方がいいのだろうか。思いながら首を横に振る。
「これは、自分でわかってるので大丈夫です。頭痛持ちなんです」
「頭痛? どの程度の病状だ? 常にか?」
「あ、いや、病気ってほどでもないんです。ちょっと時々頭が痛くなるだけなんで、大丈夫です」
慌てて大したことないと首を何度か横に振れば、男は納得はいっていないようだが「そうか」と一旦追及をやめてくれた。普段の頭痛は耐えられるものだし、片頭痛の方も何か月かに一度、ホルモンバランスの崩れる時期に吐き気を伴う頭痛がある程度で、大したことはないのだ。あまり問われたくないので助かったと安堵の息を吐く。
「それで、きみはどこまで認識している?」
ただし質問は続くようだ。どこまで認識しているか。とても難しい質問である。
何を以って認識というのかわからないし、もし認識の例として「自分が異世界らしきところに居て別人の体になっています」というようなことを言ったところで、信じてもらえるとは限らないのだ。考えていれば、男は察してくれたようで息を吐いて先に言葉を続けた。
「自分がその体の持ち主ではないという認識があるか?」
「え?」
驚いた。信じるどころか、あちらからの提示がその問いなのだ。どうやら自分がこの世界に来たのも、誰か知らない子どもの体に入っているのも彼にとってはわかっていたことらしい。
「あります……あの、私、多分この世界の人間じゃなくって。この子どもでもないんです。これは何なんですか? ここはどこなんですか?」
「…………ここが、きみの居たのとは違う世界であるということは間違いない。その子どもの体は、きみを招致するために使ったものだ」
「招致って、なんですか? 神子さまって言うのと……関係があるんでしょうか?」
問い始めれば気になることは次々と出てきて、口を付いて次の質問が出た。薄緑色の女性は私を指して神子と呼んでいた。巫女ではなく神子だ。雰囲気から脳内で正確に漢字変換されたそれは、普段使う言葉ではない。おとぎ話や説話で出てきそうな言葉は身近でなくて、現実味を伴わない。
「関係がある。神子とはこの国に於いては神の言葉を告げる助言者のことを言う。そして招致というのは、その神子を人工的に作り出すための儀式だ」
「人工的に……儀式?」
人工的になんていうと、まるでロボットを作るようなイメージがある。それに儀式なんて言葉を合わせてイメージのちぐはぐなことを言う男は、少しばかりバツが悪そうに目を伏せる。
「ああ。これは一部の人間しか知らないことだが、神子の一部は他世界から呼び出した異世界人だ。生まれ持った神子も居るが、そういったものは多く生まれるわけではないし、発見できるわけでもない。その昔は異世界から神の意志で導かれてやってくる神子と、生まれ持つ神子のみだったのだが、数十年前に異世界人をこちらに呼び出す方法が確立された。……今回きみがこちらに来たのも、それが理由だ」
「…………ぅえっと」
一気にされた説明に、理解が及ぶことの方が少なくて思わず「意味がわかりません」という言葉が漏れそうになるのを飲み込んだ。現状の説明をしてほしいレベルのときに、そんな詳しい説明をされたってわかるはずもない。
ただ、ひとつ説明で思ったことは、それ、言っちゃっていいの? ということだった。
一部の人間しか知らないことで、聞いているに、多分その呼び出された神子に知られると都合の悪いことではないだろうか。罪悪感をにじませる男の様子からもそれは窺える。
意味はわからないけれど、彼の言ったことをまとめればこうだ。
この世界では神子が必要で、それがぽんぽん生まれるものではないから、異世界から適当な人を引っ張ってくる術を見つけた。今回実行したら、私がやってきた。
脳内で話を整理すると、なんとなくわかったような気になる。そもそも神というのが理解の及ぶものではないけれど、概ねそんなところだろう。そして、整理してわかったことに、今度はこちらがバツの悪い気分になった。
「あの、お話は少しだけわかったんですけど……失敗してますよ」
言えば彼は驚いたように目を瞠った。何が失敗しているのかわかっていないようだが、見ただけではわからないので当然だろう。
「だって、私神の言葉なんて聞こえないですし、一般人です。せっかく呼んだのに、ご期待に沿えないです。ごめんなさい」
役立たずなのは、先に言ってしまうべきだ。
努力してどうにかなる範囲ならば、申し訳ないから頑張るけれど、努力しようのないものはしょうがない。神様の言葉なんて伝えられないし、そもそも神様の存在を信じていない。実家だって一般的で、熱心でもなんでもない仏教徒なのだ。そう言うのもおこがましいかもしれない。ときどき念仏を唱えに来るお坊さんの宗派がどういうものなのかもいまいちわかっていないのだから。
役に立たないと知られれば殺されてしまうかな、と悲観的に考える。簡単に人を殺す世界なのかもわからないけれど、好待遇は期待できないしする気もない。
嘘は苦手なのだ。取り繕ってバレて、後々役立たずの烙印を押されるならば先に言ってしまうのが良手だ。それで死んだら、まあ、それはそのときである。できるだけ痛くしないでほしいとだけ願っておこう。
「それは構わない」
けれど、彼は平然とそう言った。
「え?」
「そもそも異世界人の招致は神の降臨を目的としていない。自然に発生する神子は神託を聞くが、以前神子として招致された異世界人にも神託を聞かないものは居た。我々がきみに求めているのは、異世界の知識なのだ」
他所の知識を取り入れて文明レベルをどんどん上げていくことが、神子の招致の目的だと彼は言う。神様だ神子だ言っているわりに、ずいぶんと現実的というか、ドライな発想の世界だなあとは、自分の世界しか知らないから思えることだが、合理的には思えた。
「そうなんですか」
ただ、役に立てるかはわからないが。
この世界の文明レベルがわからないけれど、大した知識も知恵もない、無趣味で毎日似たような仕事を延々続けていたのだ。正直彼の求める神子としても役立てる気はしない。ただ、努力できる範囲ならば、しなければならないのだろう。
目の前で、説明をはじめた最初から、理由はわからないけれど申し訳なさそうな顔をしている彼を見て思う。自分を守ってくれていた上司が無茶な仕事を言いつけてくるときにしていた顔と同じような表情だ。
「わかりました。できる限りのことはします」
頷けば男は一瞬目を見開いて、訝しそうに目を細めた。
「こちらの都合で勝手に呼び出されたんだぞ? そう簡単に受け入れるのか?」
「え?」
「普通、もっと嫌がるだとか、怪しむだとか……何かあるだろう」
なぜ、都合よく進んでいるのに訝しまれるのだろう。
簡単に受け入れられると思っていなかったのか、自分たちのしたことだというのにまるで不満だとでも言うように訝しむ彼に困惑する。都合よくいったのだから流せばいいのに、何が気に入らないのかわからない。
「えっと……元々、私あっちの世界で死んじゃったので、別にどういう状況になってもできることならすればいいと思ってるだけなんですが……」
できないことはできないけれど、できることならば別にしたっていい。そもそもここに居る目的が、神様か天使かわからない人曰く魂の精錬なのだ。何かをするべきなのだろうし、する以外に道はない。自殺する勇気なんてないし、殺されるのも痛いのもできることならば避けたい。労働基準がむこうよりも酷くてどうしても死にたくなったら、その時死ねばいい。
神子と言われて、こんな天蓋付きベッドまで用意されるのだからさすがにそれほど酷い扱いは受けないだろうけれど、自決は最終手段である。
男は、しばらく考え込むように眉間に皺を寄せていた。じっと見てくる時もあれば、何を考えているかわからないが視線を逸らすときもある。体感にすればかなり長い時間だが、実際には三分も経っていないだろう。
「受け入れてくれるのならば、話は早い」
あまり早くはなかったけれど。納得がいかなかったのは自分だと言うのに男はそう言うと、表情を戻した。にこりともしない無愛想なものだが、サマになる容姿だ。
「詳しい話は追々しよう。そろそろ思考が追い付かないようだからな」
「あはは……助かります」
ずっと、いまいちよくわかっていなかったのが伝わっていたのだろう。無愛想な顔で茶目っ気のあることを言われれば気まずくて、苦笑いだけ返してみせた。重たいを腕を上げて口元を押さえて笑っていれば、男は居住まいをただす。
「私は、アルヴァトトいう。きみにつくことになる牧師だ」
「は、はい。私は…………」
牧師? と、新しく出てきた言葉に首を傾げつつも、思い出したようにされた今更な自己紹介に応じる。
「……あれ?」
応じようとして気付いた。
「え?」
私は誰だ?
自分の名前が思い出せないことに気付いて、わたしは、ふらりと頭が重たくなるのを感じた。
「おい。どうした?」
「私、私は……」
じくじくと痛む頭を押さえて考える。私は、誰?
記憶はある。嫌だった仕事の記憶も、順当に薄れている学生時代の記憶も、子どもの頃の記憶も、死んだあとの不思議な白い世界の記憶も。なのに、だというのに自分の名前が思い出せなくて、思考は突如正常に働かなくなった。年齢……享年は二十五歳。働いていた職場も、出た大学も、出身地も、自分のことはきちんとわかるはずなのに、名前だけがわからないことですべてがわからないような気分になった。
まるで自分の存在が輪郭を崩すかのようにわからなくなる。あやふやになる。自分のものではないけれど体もある。習性のように進んだ会社までの道のりや死んだときの信号の色の記憶も、くっきりと脳に残っている。なのに、名前以外はわかるのに、わからない。
私は誰?
「私の名前は……?」
「……わからないのか?」
不意に、すぐ近くから聞こえた低めの声に、昏くなり始めていた視界が明るくなる。目を向ければ心配そうな顔が近くにあった。男の手は自分に触れることなく、彷徨うように宙に置かれている。
「わかんない、どうしよう、わたし」
少しだけ落ち着いても名前は戻ってこない。助けを求めるように、男の手を握った。無意識に掴んだそれは、子どもの手には大きい。
「落ち着くんだ」
小さな声が、諭すように言った。
「わからないものは仕方がない。こちらに呼んだ影響かもしれないし、きみの言うことを信じるならば、一度死んだことが理由かもしれない」
「死んだことが……」
「ああ。ただ、名がないのは困る」
白いあの空間を思い出せば、ありえないとも言い切れない。名前だけ忘れさせるのならば、すべて忘れさせてくれればよかったのに。心中悪態を吐けば、少しだけ心が軽くなったのを感じた。
「アルヴェニーナ」
男は、一言そう呟いた。
「へ?」
「きみに名をやろう。本当の名を思い出すまで使えばいい」
そうしていとも簡単に、私に、存在を与えてくれた。
まるで名がないことで存在が不確定になっていたかのようだ。彼の勝手につけた名前だというのに、そんな名前ができたことで、驚くほどに落ち着いた。ドクドクと早くなっていた心臓の音が徐々に正常に戻る。
まったく馴染みもないし、元の名前に近い気もしないのに、その名は自分の中にすとんと受け入れられた。まだ混乱の名残が残っていて、それなのに落ち着いてきていることにまた別の困惑を覚え瞬く私に、男は、アルヴァトトは首を傾げた。
「なんだ、気に入らないか?」
「いえ。ありがとうございます……」
頭を下げる。気に入らないなんてことはない。むしろ、気に入る気に入らないどころではなく、まるでそれが自分の名であったような感覚さえするほどにしっくりときた。おかしな話だけれど、名を忘れたと気付いた瞬間崩れかかっていた輪郭が形を取り戻すような感じさえしたのだ。
「ありがとう、ございます……」
再度礼を言えば、アルヴァトトは少々不審げな顔をする。謝罪とお礼は半分口癖のようなものだから、追及はしないでほしい。
「……えと、お兄さんの名前とちょっと似てますね?」
そして、冷静になれば取り乱していたことに居た堪れない気分になって、愛想笑いを作って話題を逸らした。上手な愛想笑いができている気はしないけれど、それは元からなので許してほしい。じっと見つめられているのも居心地が悪い理由だろう。
アルヴェニーナとアルヴァトト。響きは違うけれど始まりの音が同じで、似た印象を受ける。そこまで考えてハッとした。もし亡くなった妹の名だとか、そういう重たい事情を持った名前だったらどうしようと。
「これから牧師と神子としてきみの面倒を見ることになるんだ。対だとわかった方が便利だろう」
漫画の読みすぎだったようだ。恥ずかしい。考えたことに勝手に恥ずかしくなりながら、そうですかと相槌を打つ。似せようとして似せられていたらしい。パッと自身の名に似た名前を思いつくなんてすごいと思う。
「元の名を思い出す方法も追々考えていけばいいだろう。きみに異論がなければその名で周知するが、構わないか?」
「はい。ありがとうございます」
異論なんてありようもない。少し長い気もするけれど、彼の名に合わせるならば仕方のないことなのだろう。
首肯すると、よろしいというように彼は頷いて再度椅子に座りなおした。先ほどまでは覗き込まれていたらしく、椅子に戻れば少々の距離が空いて、ハッとした。
手をつないだままだった。
ぱっと手を離して作り笑いで照れを誤魔化せば、彼は無愛想に、何も言わずに掴まれていた手をひっこめた。余計なことを言わないでくれるのは助かるけれど、それはそれで居た堪れない。
混乱してわけがわからなくなっていたけれど、本当に、落ち着けばかなり恥ずかしいことをしていた。
名前がわからなくて、動揺して男性の手を掴み、その男性に名前をもらって安心した。
私は果たして、自己抑制のできない動物の類だっただろうか。それとも体と一緒に心まで子ども返りしているのだろうか。
考えなければならないことはたくさんあるというのに、それがすっとんでいきそうなほどである。順を追って出来事を整理しなければ。落ち着いて、醜態を晒した反省会は、今は忘れてあとにしよう。後から思い出して激しく落ち込むだろうけれど。完全に忘れてしまえればいいのに。人の醜態なんて、他人は自分が思うほど気にしていないぞ。
「あの、それで、牧師ってなんですか?」
話を変えるように尋ねる。牧師というと、教会に居る聖職者を思い浮かべる。神父みたいなもので、神父とは宗派的な違いがあるらしいことくらいは知っているが、そもそも教会になど従姉の結婚式でくらいしか訪れたことがないため詳しくは知らない。
問いかける私に、アルヴァトトは不安そうに首を傾げた。
「話が頭に入るか?」
「……入るかどうかはともかく、一応話の流れで知っておきたい気持ちはあります」
そろそろいっぱいいっぱいで頭から煙でも出てくるのでは、と心配されていたらしい。けれど、そんなものはこれから先に教えてもらったところで変わらないはずだ。今流れで聞いて理解しなければ、この先も理解できる日はやってこないだろう。
バカだと思われていることは気にしないようにして、首を縦に振る。新入社員で入社したての頃に「わかってるのか、わかってないのか伝わりにくい」と先輩に失礼な非難をされたことがあるのだ。この程度、心を波立たせる理由にならない。
「牧師というのは、神に仕えるものの内、他の信仰者に教えを説くものだ」
「……はあ」
それは、自分の知っている牧師と多分近いものだと思う。元の世界の常識と照らし合わせれば、意味合いは同じなのだろうなと考えられた。けれど、それはおかしなことではないだろうか。
信仰者に教えを説く者が、なぜ神子について対となるのだろう。
「とはいっても、いろいろな規定ができてかなり職務内容が変わっているがな」
疑問が顔に出ていたのだろう。彼は肩を竦めながら視線を逸らす。
「今の牧師の仕事は、主に神子の世話役だ。神子から神託を引き出し、信仰者という名の神からの利を求めるものに伝える……というのが実際の役目のようなものだな」
「それは……嫌ではないんですか?」
神の教えを説く仕事だというのに、間に神子なんてものをはさんで、かつその神子が神託など聞かないただの異世界人なのだ。たとえば上から押し付けられた仕事にしても、嫌だとか、屈辱だとかいう感情があるのではないだろうか。
「ああ。聖職者共は嫌がった。だから私は牧師として派遣された城の官吏だ」
「えっ」
驚いた。そろそろ混乱してきた頭で冷静に考えるけれど、普通に考えて、そちらの方が嫌ではないのだろうか。国のための助言をする神子の目付け役にしても、官吏の仕事でこそないんじゃないだろうか。
国の政治に携わる業務の一環が、子どもの世話。
「……あの、ごめんなさい」
「なぜ謝る」
実際に口に出してしまってはこれからやりづらいから、黙ってただ一言謝った。端的に返されたそれにどんな感情が含まれているのかは、よくわからなかった。