表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
卑屈神子の杞憂譚  作者: 今井
1/32

エピローグ

 誰もかれも、ひどく疲れていたのだと思う。

「あなたは守られているでしょう」

 終電を逃して、星明かりよりもまだ、ビルの窓から放たれる光や飲み屋の電気の明かりの方が目につくのに安堵しながら帰路についた道すがら、やけに耳に、脳に残った声がリフレインした。きっと上司は私にそれを聞かせるつもりはなかったのだと思う。だからそれで彼女に悪感情を抱くのは間違いで、そっと気付かなかったふりをして深呼吸した。

 それに、確かに、私は守られていた。上司のような重責があるわけではないし、庇われることもあるのだ。責められることはあっても、それは私が至らないだけで、誰か他の人のせいにできることではない。

弱音なんて吐いてられない。自分よりたいへんな人はたくさんいる。少なくとも、その人たちの前では。

未だ電気の消えないビルの部屋を眺めながら、横断歩道に差し掛かる。歩道の信号は赤で、車は深夜でも途切れることを知らないかのように走っている。赤文字でフロントガラスから「深夜」の文字を表示しているタクシーは、横断歩道の手前でもスピードを緩めることなく走りすぎていく。

 だったら誰の前でならいいのかな。

 横断歩道を渡ろうと足を踏み出して私は、出名朱乃は、車に轢かれて死んだ。




 目を開いて瞬くと、そこは嘘のように白い世界だった。

 電気が付いているわけでもないのに白く明るいその部屋は、小ホールくらいあるだろうかというような広さで、ほとんどまったくと言えるほどにものがなかった。あるのは壁の少し手前で天井から釣り下がり波打っているカーテンだけで、扉も窓も、何もない。

 どこ、ここ?

 私はそう呟いた。呟いた、つもりだった。口を動かしたつもりなのに、その声は自分の耳には届かなかった。それどころか、唇を動かす感覚もなければ、声を発するための動作をひとつとしてできなかった気さえした。

 状況がわからなくて、不安になって周りを見回す。正確には見回すという動作をしてみたのだが、そこで気が付いた。

 視界が、広すぎる。明らかに視野に入らない位置まで見えている。文字通り全方位が今の私の、存在しているのかはわからない目に見えていた。

 なに、これ。

 呟けど声は出ない。自身の体を見ようと思っても、全方位景色は見えても自分を見ようとすることは叶わない。夢かどうかを確認するために頬をつねってみようにも、手も頬も存在していないような感覚である。深呼吸して落ち着くように思っても、息を吐き出す動作はできない。うん。

 さすがにそろそろ、自身の状況に推測が立ってきていた。

 こうなる直前の状況を思い返せば、目に、脳裏に焼き付いている光景は眩しく自身を照らす車のライトと、視界の端で揺れる赤信号。鈍い痛みは一瞬のことで、仕事終わりでひどく重たい目蓋は抗うことをしようともせずに簡単に落ちて閉じた。

 私、死んだのか。

 目を閉じれば人生の幕も閉じていた。驚きである。

 じゃあ明日から仕事に行かなくてもいいのか。ぱっと思いついたのはそれだった。一番に考えるのがそれなのは我ながらどうかと思う。もっと、葬式代のこととか、未返済の奨学金のこととか、いろいろ考えることはあるだろうに。お母さんごめん。

 明日などないというのに悠長な考えではあるが、意識があれば明日を思うくらいはして仕方のないことだろう。

 しかし、今はどういう状況なのだろうか。死んでいるのはほぼ間違いないはずだ。ない感覚がそれを雄弁に語っているし、これで生きていたら、いっそがっかりだ。けれど、ならばなぜ意識がある?

 死んでいるのに意識があるというのなら、自分は今幽霊なのだろうか。だとすればここはどこだ? 天国か。地獄か。どちらにせよイメージと違う。自分の居た世界でないことは火を見るよりも明らかだけれど。浮遊霊になるにしてもここは現代ではないし、地縛霊になるならきっと私はあの会社に縛り付けられると思うから。

 それとも、この何もない空間で意識を持ち続けることが自分にとっての罰なのだろうか。まるで心理実験のようだ。

「残念ながら、我々は人間に罰を与えられる存在ではありません」

 思考を読んだかのような、いや実際に読んだらしい声が発されたのは、カーテンの向こう側だった。すぐに声と共に一人の男が顔を出す。手動のカーテンを手でかき分けながら出てくると、男は重なり合ったカーテンをきちりと締めなおした。向こう側が見えないほどに重なったカーテンはすぐに元の状態に戻り、男は一息吐いて、こちらを見た。

 私と違い肉体のある彼は、柔和な顔立ちをしている優男風の男性だ。空間と同じように真っ白な衣装を着ていて、その頭上には、一本の輪が、浮いていた。

 天使?

 まさか、私は天国に来たんだろうか。考えても天国に行けるような善行を積んだ覚えなどない。毎日毎日自分を責める反面呪詛を吐いてきたような三年を、死ぬ直前まで過ごしていたのだ。とてもではないが、天国に行ける立場ではないだろう。

「あなた、ずいぶん卑屈ですねえ。だからこんなところに呼ばれるんですよ」

 しかし、私のめいっぱいのポジティブな思考は男の言葉で中断された。希望を持たないように気を付けながらも事を良いように考えていた思考を卑屈と一単語で切り捨ててしまった彼は、人好きする顔で微笑む。

「ここは、あなたのような魂を裁定する部署です」

 部署、というこのような幻想的な部屋に似つかわしくない単語に、思わず生前の想いが波立って体もないのに鳥肌の立つような気分になる。しかし、心が読めるのであろうに男は私の波立つ心に構わず、笑みを深めて更に続けて説明する。

「通常、人間世界で死んだ魂は別の部署に送られるのですが、一部の魂はここで選定されることとなっているのです。幼い子どもの魂だとか、純粋が過ぎる魂だとか……自殺者の魂だとか」

 きな臭い話になってきた。魂、魂と連呼する男に眉を顰めたい気分になるけれど、今の状況がそれらの言葉を素直に受け入れざるをえないようにしている。肉体のない、視野もない、感覚の朧な私は現在、彼の言う通り魂だけの存在なのかもしれない。

「ただでさえ自殺者の魂は練度が低い中、あなたの魂の練度の低さは異常です。なので、再度人として生き、魂を精練するのが、あなたに下された命です」

 再度人として――生き返らなければならないのか。

 死んだと思っていたのに、起きてしまえば明日もまた仕事に行かなければならなくなる。明日すぐにではなくとも、きっと復帰できるようになればすぐにでも。そうして周りに心配されたり嫌味を言われたりしながら、また、あそこで。

 考えて吐き気を覚えた。それならば死んだ方がましだ。あんなところに戻りたくない。

 下唇を噛みたくても、拳を握りたくても、腕に爪を立て物理的な痛みで感情を誤魔化したくても、肉体のない現状ではどうにもならない。

「いえ、出名朱乃として生き返るわけではないですよ」

 絶望に打ちひしがれる中、困ったような声がかかった。意識を男に戻せば、彼は困惑したような呆れたような顔でこちらを見ている。

「あなたには別人として再度生を受けてもらいます。少し特殊なことになるかもしれませんが、そこはうまく調整しますので、ご心配なく」

 別人として再度、生を。いまいち意味が分からないけれど、そんな題材の物語が近頃流行っていた。一度寝過ごして以降、二度と眠らないように電車の中で読んでいたWEB小説がそれだった。昔はよく物語を読んでいたけれど、その頃にもあった覚えはある。

 えっと、なんだ。転生ってやつ?

「最近日本人に意識を持たせると必ずそれ言われるんですけど、はやってるんですか?」

 考えると同時に、待っていたようにつっこまれた。気になっていたことを聞こうとしているだけのようだが「何百年か前にもはやってましたけど、意味合いが違うように思えるのですよね」という言葉の方に意識が持っていかれた。多分彼の言っているのは輪廻転生の方だろう。目の前の優男は、見た目にそぐわない年齢をしているらしい。人間ではないのなら、当然かもしれないけれど。人間でないなら何なのだろうか。少なくともお釈迦さまだとかではないと思う。

本気で転生に関して掘り下げたいわけではないのだろう、男は肩を竦めて「まあ名称はどうでもいいのですけど」と自分の出した話題をすげなく流した。そうしてこちらを一瞥する。感情豊かな表情は、ころころと変わって今度は苦笑に色を移す。まるで感情の起伏の激しい子どものようだと思った。

「にしても、自殺者の中には死後後悔して生き返りたいという人間も居る中、あなたはずいぶん悲観的ですね」

 雑談のつもりだろうか。何かを聞くではない、ただの感想を男は私に向けて放った。聞きようによっては悪口だけれど、それよりも気になることがあった。

私は、自殺したつもりはない。

 先ほどから理解したくなかったから流してしまっていたが、私は別に自殺したつもりなどなかった。ただ眠たくて、注意力が欠けていて、ぼうっとした状態で足を踏み出した先が赤信号の横断歩道だったというだけだ。

 自殺だなんてとんでもない。自殺したなどと思われたらいろんな人に迷惑がかかる。それに労災は下りるのか? 生命保険は下りなかった気がする。確か、契約の時にそのような話を聞き流したような、聞いていなかったような。

 意識して考えればそれは彼に筒抜けになる。私の考えを読んで彼はただ、こともなさげに「そうですか」と肩を竦めた。冷たいにも程があるというような返しだったけれど、そんな文句を言う間もなく。

 それが、白の世界での私の最後の記憶になった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ