イカ墨トマトラーメンの真価
「イカ墨トマトラーメンお待たせしましたッ!」
ラーメンをブースで受け取った客はフードコートのように並んだ座席に向かう。
水は完全セルフサービス、所定の場所から自分で取って来る。
それらを準備して、ようやく実食。ここで初めて客は落ち着いて自分のラーメンと対面することとなる。
「……スゴイ」
外見からして、かなり異質。
イカスミ由来の真っ黒なスープ。上に乗るのは鮮やかなフルーツトマト、バジル、チャーシュー。ラーメンらしいトッピングなどチャーシューしかないではないか。
香りもまた独特。
しっかり揚げられた焦がしニンニクとオリーブオイルの匂い。それだけを嗅ぐと目の前にあるものがラーメンではなく、パスタのようにしか思えない。
おそるおそるレンゲでスープを一口。
「――――っっ!!?」
衝撃。
言葉にならない。それほどまでに濃厚で鮮烈だ。
スープのダシは主にトンコツと煮干し。
焦がしニンニクやイカスミが味の表面で暴れまわる中、この二つが確かにスープの骨格となって支えている。
「アレ? おいしい!?」
たった一口で虜にされた。
堪らず麺をすすり始める。
「!?」
ウマい。これはもう止まらない。
壊れたからくり人形のごとく、ひたすら麺をすすり続ける。
その麺は特殊でトマトを練り込んだ赤い色をしていた。
そこに含まれるトマトの優しい酸味が、ボディの強いトンコツやイカスミのスープと自然に親和させる。
そう、実はトマトという食材が、このラーメンの真の支配者となっていたのだ。
が、麺に仕込まれた仕掛けはそれだけではない。
なんとこの麺、トマトの赤に紛れて、トウガラシが混ぜ込まれている。
口に入れた時には静かにしているそいつは、一口噛んだ瞬間からその力を発揮。
ピリリと後退く刺激を食べる者に与えていた。
それが、このラーメンを食べだしたら止まらない謎の現象の理由である。
また、麺のトウガラシは、イカスミ、トンコツ、煮干し、ニンニク、オリーブオイルと好き勝手に自己主張する食材たちの旨みのまとめ役をトマトと共に担ってもいる。
――ズゾゾゾッ! ズゾゾゾゾッッ!!
いつしか、その客も志織と同じ道をたどっていた。
止まらない。食べるのが止まらない!
美味しい。美味し過ぎるぞ!?
顔を上げた時、周りの客がみんな自分を見ていた。
「ハハッ……」
恥ずかしげに笑う。
だって、ウマかったんだもの。
彼はしがない会社勤めのサラリーマンだった。
趣味といえるようなものは特になく、世にいう『会社と家を往復する人生』という奴だった。
いつも気にするのは上司からの評価、周りの視線。
ため息をつかない日はなかった。
そんな彼が今日ここに来たのは、ラーメン好きの同僚が急な都合で来られなくなったため、その代打としてやってきただけだった。
ただの気まぐれ、大して期待はしていない。タダでメシを食える機会ぐらいにしか思っていなかった。
だが、この瞬間、今より彼は宗旨替えすることになる。
真っ黒なそいつは濃厚なのにさわやかな味わいだった。
イカスミ、トマト、ニンニク、オリーブオイル。まるでパスタにしか思えないような組み合わせ。
しかし、トンコツと煮干しのボディの効いたスープが確かにコレをラーメンとして成立させている。
いやいや、成立させているどころの騒ぎではない。一度食べてしまえば、この組合せしかあり得ない。それくらい、このラーメンは調和していた。
なんで今まで誰もコレを創らなかったんだろうとすら思う。自分ですら知っている食材なのに、誰も気がつかなかった組合せ。
間違いなくウマイ!
このラーメンは間違いなく特殊な味の構成なのに、なぜか不思議とコレが王道にすら思えてしまう。
奇妙な体験をしたと思う。
そこでハタと気づく。
自分はいつの間にか笑っていた。
サラリーマンの生活において、笑う機会など一日の中でも僅かな時間しかない。
一日で、正味15分くらいがせいぜいだろう。パーセンテージにして一日の1.04%だ。
自分はその1%で生きていた。
でも、今の自分は心の底から笑っていた。
それは一日の中でもさらに希少。出会えるかどうか分からない時間だ。
まやかしの1%ではない。これは人生の時に残る時間。
ああ、なんと安上がりな喜びの人生か。
再び、彼は自嘲気味に笑う。
いいさ。安くて結構。
懐石だ、フルコースだ、とそれを至高とする食通どもには出会えぬ幸せがここにはある!
「これがラーメンか……」
一人呟く。
彼はこれよりラーメンを、それにとどまらず食べるという行為そのものを見直すことになる。
ラーメンオタク誕生の瞬間である。
願わくは、彼のものに良きラードとチーユの導きがあらんことを。
幸せな時間は普段の生活の中では希少だと思う。
だから、御飯の時間くらいは幸せでいたい。