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ひとりぼっちの夢想曲

作者: 04号 専用機

twitterのフォロワー様からタイトルだけ頂戴しました。ありがとうを伝えたいです。

 夢を見た。

 私はその夢の中では普通の女の子だった。

 なんのことはない、人並みの恋をしたがって、ほんの少しだけ悪い男に騙された女の子。

 愛する人と、美しい夜景が臨むマンションの一室で、二人きり。君の瞳に乾杯なんてベタなセリフも気にならなかった。

 だってこんなにも素敵だから。

 ワイングラスが僅かに音を立てて乾杯を知らせた。

 すでにほんの少し酔っているらしい。体の芯が熱く感じる。

 私はグラスの中身を口に含んで、そのまま彼に、口移しで飲ませようとして――


 そこで、夢は終わってしまった。


◆◆◆◆


 目の前には手付かずの楽譜が広げられていた。

 どうやら眠っていたらしい。掛けたままの赤縁メガネを正して、ほんの少し乱れたらしい頭髪を手櫛で直しながら、私は深くため息をつく。

 なんのことはない夢だった。

 この部屋に引きこもっている私にとって、それはなんのこともない夢だった。

 全く出られない訳じゃない。

 出るくらいなら、こうやって目の前の五線譜に世界を落とし込んだ方が有意義だというだけで。

 だからせめて、誰も見たことのないような夢の世界を描いてやろうと思ったのだが。

 私は深いため息を五線譜の上に書いた。

 それから、夢のことを思い出す。

 綺麗な夜景。

 憧れの人。

 高いお酒。

 味のない食事。

 あんなに楽しそうな感情など人に抱いたことがない。

 貧相な胸はそれになんの痛みも憶えなかった。

 私は乾き切った嘲りを口から吐いて、ついでにそれも楽譜の中に落としてやる。

 数時間ほどやっていて、さすがに飽きた。

 備え付けられた小さな机から離れて、またベッドの上に横たわった。

 食欲は無かった。

 できるならば、ただ眠っていたかった。

 自分の現実を忘れたかった。

 それが叶うなら――ずっと眠っていてもいい。


◆◆◆◆


「毎度の御利用ありがとうございます。今宵も不肖夢商人めが、貴方をめくるめく夢の世界に――と。また、アンタか、お嬢ちゃん」

 ふわふわとした、ぬるりと呑まれるような感覚の中、私は低い声を聞いた。

 声の主は男。

 その男は自らを夢商人と名乗った。

「それで、今度はどんな夢をお望みで?」

 夢商人は夢を売る。

 夢を買い、夢を見せる。

 中には「曰く付きの夢」もあるらしく……密かにそれを狙っているのだが。

 ともあれ、今を生きる私にとって、夢見る時間は唯一の楽しみとなっていた。

「普通の夢を」

「またそれかい」

「いいでしょう? それが一番楽しいんだから」

 だから私は夢を見る。

 人がどんな夢を見るのか知りたくて。

「まったく……天才作曲家様々の考えることは、分からんね」

「分かんなくていいよ」

 商人の声を聞きながら、私は冷たい声で言った。



 実際のところ、この夢商人という人物は実在する。

 なぜ断言できるのか? 簡単だ、私の家族は彼に会ったことがあるから。

 彼は何度か私の部屋を訪れていた。

 どうやらそういう、要するに夢の売り買いを職として手に付けている人間は結構な数いるらしく、かの夢商人もその一人らしかった。

 重要なのは、彼は他の誰よりも、今まで会った誰よりも、長く、多くの経験を積んでいるらしいことだ。

「お久しぶり……ってほどでもないか。また会ったなお嬢ちゃん」

「報酬の請求にでも来た?」

「そんなとこだ」

 目を覚ますと、件の夢商人が私のベッドに腰掛けていた。

 黒いジーンズに、白いシャツ。上着には真っ黒な革のジャンパー。

 その顔は眠そうな表情と疲労の色がべったりと塗りたくられたよう。奇妙なくらい濃い目の下の隈が、それをさらに顕著に現していた。

「それじゃあ、その前に話を聞かせて」

「また夢の話か……何がそんなに良いのかね。さっき夢見たばっかだろ?」

「それでも聞きたいの。私好きだな貴方の話。夢の話。まるでこの世の者じゃないみたい。馬鹿な浮世なんかよりよっぽどマシだわ」

 商人は芝居じみた仕草でため息をついた。

 それから、少し考え込んで、

「それじゃ今日は、人を自殺に追い込む夢の話を」

 私が生涯、追いかけることを決めた夢の話をし始めた。

「怖い話?」

「さぁてね。お嬢はこの手の話、好きだと思うけど?」

「好きかも。ううん好きだ。早く聞かせて」

 その日も、窓の外の日が沈むまで、私は夢商人と話し込んでいた。


◆◆◆◆


 オレがその女性に初めて会った時、オレはその人をひどく美しいと思った。

 その邂逅は夢の中でのことだった。

 覚えているのは、その人が空虚な目で何もない空間を見つめていたこと。

 足元には何も書かれていない五線譜が何枚も散らばっていた。

 その人の夢ほど音に溢れた夢に出会ったこともなかった――まったく無かったと言えば嘘になるが――し、その夢ほど、まったく何の色もない夢なんて、今後一切出会わないと思う。

 その子は真っ黒な夢を見ていた。

 真っ黒な中で虚ろな目をしながら、ただ夢が奏でる音を聴いていた。

 オレはそれにふとした興味が湧いて――初めて声をかけたのだ。

 今にして思えば、彼女は生まれながら夢を見ない人間だったのだと思う。

 そういう人間は得てして、天賦の才を持っている。

 その女の子も例外ではなかった。

 自分の家を裕福に変えたことは後になって知ったことだし、「お嬢ちゃん」なんて皮肉な呼び方を思い付いたのも、事実を知ったその時だった。

 お嬢の名は俗に言う「天才作曲家」として広く知られていた。それこそ、知らぬ人のいないほど。

「あんたはなんで曲を書くんだ?」

「私は死にたいけど、でも死んだら誰かが勝手に騒ぐでしょ? だから私は曲を書くの。悔しいからね」

 それが曲を書く理由だと、彼女はそういった。

 彼女はいつも、どこか退屈そうに、曲を書く。


◆◆◆◆


「つまんないや」

「どうして?」

「私はさ、別に理由があるわけじゃないんだよ。ただ怨みだとかを曲にしてるだけ。そりゃあ確かに死にたいけれど、ただ死ぬのは面白くないもの」

 とある夢の話をし終えてから、お嬢ちゃんは最初にそう言った。

「理由のないやつがただ単に死ぬんじゃ、ねぇ?」ベッドに腰掛けて、遠い目で部屋に置かれたピアノを眺める。「それに誰かの夢で死ぬのなんてごめんよ」

 彼女は少し楽しそうに笑った。

「それにしても、死ぬための夢があるなんて、やっぱりこの世はロクでもないわ」

 笑ってから、すぐそばの机に広げられていた真っさらな楽譜に音符を落としていく。

「一曲思い付いた。明日、また聞きに来て」

「今回の報酬はそれがいいな」

「いいよ。あげる。こんな曲一銭にもならないもの」

 それから、僅かばかりの嘲笑を浮かべて、続ける。

「もっとも凡人には書けないけどね、こんな素晴らしい曲。天才だから捨てられるんだよ」

「そうかい」

 なんというか……このお嬢ちゃんは酷く傲慢な女だ。


「いい曲だと思うぜ。だけど、なんつーか変な曲だ。鬼気迫る演奏なくせに、おかしなほど何も感じない。まるで「何も感じないこと」を押し付けられてるみてーだ」

 次の日のことだ。

 俺はお嬢の新曲を聴いて素直な感想を述べていた。

「ふぅん。いい感性じゃん褒めたげるよ」

「そりゃどーも」

 微笑んでそう言ったお嬢に、オレは適当に感謝しておく。

「何も感じない……か。初めてだな伝わったのは」

 当のお嬢本人は俺の感謝など気にする様子もない。

 ピアノから離れて部屋の中をうろうろと、何処か落ち着き払って歩く。

「…………今夜パーティに招待されてるんだ」

 そしてオレから離れたところでそうつぶやいた。

「アンタに伝わったなら……いいかも知れない。この曲をそこで、披露するのも」

「報酬は?」

「夢見心地な浮かれた記憶はアンタのものでしょ?」

 よくわかってらっしゃる。

 このお嬢ちゃんは世渡り上手だ。大した年でもないはずだが。

「でも条件がある」

「俺も出席しろと? いいぜ別に」

「それは大前提だよ。それ以外にあるの」

 お嬢は窓の外を見る。昼過ぎの空を見て。

 それからグッと上に伸びをして、ため息を吐いていった。

「恋人の役をして。年頃の雄に話しかけられたくないの」

 オレはこの女だけは抱かないと心に決めた。


◆◆◆◆


 何事にも例外かあるように、お嬢はずっと引きこもっているわけではない。

 今夜はその例外だ。

 特に化粧もせず、服装だけをやたらと凝ったお嬢の隣を歩きながら、俺は時たま道行く人々を見やった。

 恨めしいことに、化粧もロクにしていないくせしてそこらの女より美しい。

「何見てんの?」

「オレとしちゃあもっと露出があっても良かった」

「はぁ……馬鹿なの? 男の視線なんて気持ち悪いもの集めてどうすんのさ」

 暗にオレの視線すら拒否して、お嬢はさっさと会場に向けて歩き出した。

「言っておくけど」歩きながら、「私の名前を呼ぶ必要はないから」お嬢は言う。

 だから俺も言い返す。「どうして?」

「だって私はアンタの名前知らないもの」名前を呼び合わないカップルも偏屈なものだ。「私はアンタを呼ばないし、アンタも私を呼ばない。簡単でしょ?」

「それで納得するもんかね」

 唇に人差し指を乗せて、お嬢は不意に空を仰ぐ。

「考えてなかった。ま大丈夫でしょ」コケそうになって「圧倒的美男美女の前にはみんなカスみたいなもんだし」オレはやはり、この女の性格の悪さにため息をついた。

「惚れちまいそうだぜお嬢ちゃん」

「やめてよね。獣に好かれるこっちの身にもなってみて」

 自らの体を抱くように腕を巻き付けて、お嬢は軽蔑の目を向けた。

 どうやら俺の発言はそれと同じくらい恐ろしいものだったらしい。

 お嬢はなんの悪びれもなくまた歩き始めた。

「それにしても、お嬢ちゃんが人前で演奏するのは見たことないな」

「まぁ、いつもは部屋にいるしね……どうせ誰が弾いたって同じだし、弾くだけなら私より才能ある人がいっぱいいるでしょ」

 どことなく興味なさげな言葉だった。

 いや、おそらく本当に興味がないのだろう。彼女にとっては自分の書く音楽だけが世界であり、自分の奏でる旋律だけが音楽なのだから。

 真の世界、真なる音楽は彼女の中だけにあって、他の有象無象には理解できない。

 このお嬢ちゃんはそんなことを本気で信じていて、そしてそれが本当に、この世界の真理に思えるほどの才能を秘めていて……。

「まぁ楽しみにしてなよ。凡人との違いを見せてあげるから」

 その言葉には驕りのような自信があった。


◆◆◆◆


 高いホテル。華やかな雰囲気。

 そういう風にセッティングされた会場だった。

「さっきから思ってたけど、そういう服も似合うよね」

「ああ……これか?」

「うん。白いシャツに黒いジャケット。私の目に狂いはない」

「ハハ……」まぁ男ならだいたい似合うけどな。

 オレの隣をピッタリと付いて歩きながら、お嬢はいかにも退屈そうに行き交う男女を眺めていた。

「あー……なんか思い出してきた。たしか今日学校かなんかの同級生に呼ばれたんだ」

 今まで忘れてたのか、なんてことは言わない。

 言い返されると心に刺さるしな。

 そんな俺をよそに、お嬢はほぅと大きくため息を付いた。

「気持ち悪いやつらだ」ひどく嫌悪を剥き出した声で、お嬢はぽつりとこぼす。「何が楽しくて笑えるんだろうね」

 口元には嘲笑が塗られていた。

「そりゃあ楽しいんだろうさ。友達も、恋人もいるだろうし」

「大して面白くない人間と、大して綺麗でもない人間が、友達だとか恋人だって言うの?」

「聞かれちゃマズイぞ?」

「それもそっか」

 こちらに気が付いた女学生をチラリと一瞥して、お嬢は一際大きくため息をついた。

「よそ行きの仮面なんてクソ喰らえ」

 そう呟いてから、お嬢は女学生の方へ歩いていった。

「何か?」

 朗らかな笑みを浮かべながら、第一声がそれである。

 早速表情と言動が噛み合っていない。

「久しぶりだね! 元気に――」

「こちらこそ久しぶりです」相手の言葉を途中で切り。「今日はお招き頂いて、感謝してます」お嬢は微笑んだまま。

「敬語なんて――」

「無理に時間を作って来た甲斐がありますよ、ええ」

 笑顔の鉄仮面を被って、真意の伝わらない嫌悪を示す。

 お嬢は不愉快そうにくしゃりと笑顔のまま表情を歪めて、いやいや喧騒の中に混じっていく。

「――それでは一曲。新曲を披露しても?」

 その中で産まれた一瞬の静寂を縫って、お嬢が声を上げる。まさしく鶴の一声だ。

 実際その声は美しいのだが、どこか何か、降りしきる雨のような重圧感を孕んでいた。

 有無を言わさぬ、優しい声。

 拍手喝采の鳴り止まぬ中で、彼女はスカートの裾を摘んで一礼する。

 用意されたピアノの前で一瞬無表情になってから――

 俺は久しく見ていなかった光景に出会った。



 世界は何の為にあるのだろうと、そこで演奏を聴いていた誰かが思ったそうだ。

 例えばそれはピアノの前で一礼する彼女はあまりに美しかったから。

 肩にかかった、流れるような栗色の髪。

 決して主張の強すぎない体の起伏からは何か、気品さえも感じられる――そんな洗練されたボディーライン。

 ただ佇んでいるだけの少女を見つめずにはいられなかった。

 そして、ピアノに向かい合うその背中を見た時――まるで時が止まったかのように――ああ、彼女こそが神に愛されているのだと、見ていた皆が確信する。そうさせる何かが、彼女にはあった。

 始めの一音が響くと、観衆は一切の喧騒を鎮めた。

 ゆっくりと旋律が刻まれる。

 甘美な音。美麗なる音。

 そこにいる誰もがその独奏を聴かずにはいられなかった。

 そして、誰もが思った。

 彼女は神に最も愛されているのだと。

 誰よりも何よりも愛されているのだと。

 そうでなければこんな――素晴らしい演奏はできないのだからと。

 そこにいる誰もが思った。

 当の本人以外は。



 独奏を終えてもお嬢は何も言わなかった。

 ピアノから立ち上がるや否や巻上がる拍手喝采に適当な礼を返して、お嬢はそこから離れた。

 うまく紛れていたと思う。

 不思議なことに、お嬢が俺の手を取ったのは誰の目にも止まらなかった。

 俺はと言うと、不意に真っ白な指が自分の無骨な手に重ねられたもんだから呆気に取られて――ぐいと引っ張られて初めて、二人きりになりたいのだと悟った。


◆◆◆◆


「やってらんない」

 しばらく歩いてベランダに出ると、お嬢はまずそう言った。

「どうして。素晴らしい演奏だったじゃないか」

「気持ち悪いと思わないの? どいつもこいつも何も考えず手を叩きやがって。罵倒と何ら変わらない」

 ぐしゃぐしゃと髪を掻き乱して、嘔吐となんら変わらない様子でお嬢は言葉を吐いた。

「頭が無いなら無いなりにさぁ! もうちょっと考えて讃えろよ!」

 なぜそこまで激昴できるのか、オレには分からない。

 オレには分からない。

 その怒りがなぜ秋に色付く楓のように美しいのか。

 月夜に浮かぶ枝垂れのようにどこか不気味に、初夏に芽吹く若葉のように鮮明に、枯れ朽ちていく大木のように、彼女の怒りは儚く脆く、それがなぜそんなにも美しいのか。

「アンタは何も思わないの?」お嬢の声は怒号から嘆きに変わっていく。「私は……私は耐えられない。せめてアンタに、アンタと同じ……いや、アンタより凄い人に、この曲を披露すべきだった!」それはまるで懺悔するような言葉だった。

 嗚呼神様、愚かな私をお赦し下さい。それとなんら、変わらない言葉に聞こえた。

「こんな催しぶっ壊れちまえ。凡人なんかクソ喰らえ。来るんじゃなかったこんな場所」

 ベランダに雫が降りた。

「泣くこたないさ」

「泣いてない」

「じゃあ雨降ってんのか?」

「降ってるよ。土砂降り」

「戻ろうか」

「いい。びしょ濡れで行けばみんな引くでしょ」

「あのなぁ……」

 こういう時、少女と言うのは、天才であろうと凡人であろうと、なんであろうが同じものだ。

 そこにはただ年相応に悲しむ女がいた。

「……お嬢ちゃん?」

「なに」

「来賓のようだぜ」

 けれど他人はそんなことを知らないし、天才には苦悩はないものと思い込む。

「追い払っ――いや待って。通して」

 そしてそんな夢に応えてしまうからこそ、天才は初めて天才たり得るのだ。

「いいのか? 今はちょっと――」

「いいのよ。その人とは話したい気分」

 背を向けたままなのがどこか不気味だった。

 たぶん俺が思うに、人は、こういう時に碌でもないことを考え付くんだと思う。

 オレが来賓と呼んだのはお嬢よりも少し身長の低い少女。

 お嬢はその子の方に振り向いて、満面の笑みを振りまいた。そのままゆっくりと近づく。

「ごめんね。ちょっと体が火照っちゃって」そしてオレとのすれ違いざまに「今夜の夢はあの子にする」と言って、心底楽しそうに話し始めた。

「こちらこそすいません! 先輩に……どうしてもさっきの感想を言いたくて!」――どうやらお嬢の後輩らしい。

 お嬢の視線がその小さな体を這った。

「そう。貴方はどう思ったの?」

 言葉は蛇のように絡みつく。

「………………皆が拍手してたのに、疑問を感じてしまって」

 お嬢はそこまで話を進めると嬉しそうな顔をした。

「それで……貴方の感想をまだ聞いてないな」

 お嬢の言葉に。

「……私はあの曲が、どこか虚しいものに聴こえたんです」少女は答え。「でも……私にはとても書けません、あんな曲……やっぱり先輩は神様に、愛されているんだと思います」すぐ様に答えに脚注を加えたが、それは大した意味を成さなかったようだ。

 お嬢は更に笑みを浮かべた。なんて醜悪で可愛らしい笑みだろう。

「いい耳をお持ちなのね。今度貴女に本物のオーケストラを聴かせてあげる……指揮者にも紹介しておくわ」

 そう言って、ただ握手を交わせばいいものを……お嬢ちゃんはどういうわけかその少女を抱きしめて、指で軽く髪を梳いた。

「貴方みたいな人にずっと会いたかった。けどごめんなさい、話している時間がないの……外せない用事を思い出したわ」


◆◆◆◆


「あの子を拷問に掛けたい。夢の中で」

「――期待したオレがバカだった」

 どうやらこの女は本当にどうしようもないらしい。こんなにウキウキした顔をするなど誰が分かるだろう。

 家に帰った途端これだと言うのだから、俺はこのお嬢ちゃんが一体、どっちの世界の住人なのか、時折分からなくなるのだ。

 ため息交じりに二つ返事するのだが。

「……お嬢ちゃん。悪趣味がすぎるぞ」

「かもね。あはは。私はそれを見ていたいの。だからお願いね。私は寝るわ」

「報酬は――」

「今度の曲で入ったお金は貴方にあげるわ」

「どーも」

 本当に、どうしようもなく、胸糞悪い気分だ。


◆◆◆◆


 夢を見た。

 私の目の前で、女の子が椅子に拘束されていた。

 目だけを覆う仮面を付けた私はそのまま彼女を観察する。

 ひどく怯えた表情。どこか興奮して煌々とした瞳。不規則な息遣い。

 今夜見た大人しそうな彼女はどうにも乖離を感じた。

 嫌がらせのように、夢の中で、その子はパーティーに着てきた服装のままだった。

 これが夢だと分かっているのだろうか? その様子を見ると、ひどい混乱を感じた。

 声は出るはずだけど、たぶん今私の耳には届かないだろう。

 癖が強くて私と同じ色をしたその髪を優しく指で梳く。

 それから頬を撫でて。顎に指をかけるフリをして、小さく顎の下をくすぐってやると、ワザとらしく彼女はびくんと体を跳ねた。

 今度はその子の右手に手を置いて。

「御機嫌如何かしら?」私はわざとらしい口調で声をかけて、「まぁいいわけないよね」そして目の前で笑ってやる。

 白い指だ。綺麗で、柔らかそうで、爪が輝いていて――憎たらしいくらい手入れの行き渡った、人間の雄に媚びるためだけの指。

 なんだか愉快になって笑いがこみ上げてきた。

 椅子の傍に置かれた台から目隠しを手にとって少女の視界を奪う。

「分からないだろうから説明してあげる」女の子が小さく、震える声で「やめて」と言った。「今日は貴方を、拷問にかけます」構わない。説明は最後まで続けるべきだ。

 笑いがこみ上げてくるのをこらえる。

 少女の体は震え始める。

 恐れている。怖がっている。その顔がさらに歪むのだと思うと、私自身……どうにかなってしまいそうだ。

「ありとあらゆる手段で……貴方の、骨を」

 どんなに苦しむのだろう。

「一つずつ」

 どんな声をあげるだろう?

「一つずつ……」

 その悲鳴は如何に甘美なのだろう。

「ゆっくり、じっくり」

 さぁ、楽しませておくれ。

「確実に……折って、砕いて、無茶苦茶にしてあげる」

 私の夢よ。

「貴方が私を理解するまで。神に愛されることがどんなに最悪なことか分かるまで。やめてあげないわ」

 この拷問が終わるまでは、せめてもの、覚めないでおくれ。

 その白い頬を、誰よりも綺麗な私の指が撫でる。

 自分のためだけにある私の指が。

「楽しんでね!」

 それだけ言い残して、私は、その少女を中心に、円形に設置された観客席に腰掛けて、仮面を付けた。



 しばらくすると、まるで喘ぐような悲鳴が聞こえた。

 絞り出すような、苦しげな悲鳴。

 背筋にゾクリと、快楽に似た愉悦が走った。

 注目してみると、右手の薬指が第一関節から不自然にねじ曲げられている最中で。

 大きな音はしなかった。

 湿った枝がゆっくり二つに折れるような音がして、その後に嗚咽混じりの悲鳴が上がる。

 今私の頬は紅潮していることだろう。異様な興奮だ。

 続いて中指に鈍器が叩き付けられて、骨がグシャリと音を立てた。

 私はその音の一つ一つを耳にしっかりと記憶させる。

 示指と拇指に器具が設置されていた。どうやら――指締め機の類らしい。

 それがゆっくりと閉まっていく。

 どうやら関節を折ったあとはそれぞれの骨を処理していくらしい。骨の名称には詳しくないのでここでは割愛するが……。

 とにかく指の骨だ。

 それぞれが今まで見たことがないほど丁寧に丁寧に折られていく。

 叩き折られ、締め折られ、捻り折られ、圧し折られ。

 そのたび違った類の痛みが走るのか、悲鳴の音階が違い、調が違い、そこから繰り出される旋律もまた、異なっている。


 これは歴とした音楽だ!


 いい気分だ。今すぐにでも立ち上がってブラボーと叫び割れんばかりの拍手を送りたくなるような。

 誰にも予測できない。誰にも作ることができない音楽。

 それをこうして独り占めに聴き込める自分のなんと恵まれたことか?

 誰にだってこの音楽は、この、少女の悲鳴と骨の音と、それから様々な器具によって織り成される協奏曲を、知る事なんてできはしないのだ。

 今ここにいる、私以外は。

 私は知らず知らず腕を宙に伸ばす。

 それは紛れもなく指揮の動きで。

 それは一夜の夢にしてはもったいないと思うほど、甘美な記憶。

 だから私はそれを耳に焼き付けるのだ。

 女の子がなにか叫んだ。

「もうやめて――!」

 内容は聞き取れない。

 ただなぜか呼ばれた気がしたので、私は席を立って、わざとゆっくり女の子の元に歩み寄る。

 すでに右手は異様な様相を見せていた。あおじんでそれぞれの指が妙に平たくなっている。

 左手の拇指も、普通よりは遥かに長く伸ばされていて、それがすでに無理矢理関節が伸ばされたあとだと悟らざるを得なかった。

 それがなぜだかとても愛おしく思えたのでゆっくりと撫でる。

「どうして! どう、して! なんで、こんな――」

 うるさいなぁ。

「良かったね。これで私と同じように曲が書けるじゃない」

 お前が望んだことだろう。今更好き勝手に後悔するなよ。

 神に愛されるとはこういうことなのだから。

 存分に愛されろ。

 そして一部の隙もなく狂い切れ。

 愛されて、それを恨んで、狂って狂って狂い切って初めて、お前はここに立てるんだ。

 なぜならお前は凡人だから。なんの才能もないのだから。同じ場所に正気で立とうなどと思えるか。

 私は、そういう、烏滸がましい思い上がりをこうして夢の中で無茶苦茶に踏みにじってやるのが大好きだ。

 そして、そいつの前でこう言うのも大好きだ。

「こんなもの、できることならそこらの浮浪者にでも投げ渡してやりたい」

 そうだ。

「碌なことがないんだよ。愛されたって、お前らは何もできやしない」

 お前ら凡人は、私の足元で啜り泣いていろ。

「あはは、泣いた、鳴いた、あははは! もっと泣いてみる? そしたら助けてあげるかもよ?」

 なんてね。

 私はその子の髪を一度撫でてから席に戻り。

 夢の中でその子が正気を失うまで、悪夢と呼ぶべき甘美な記憶を楽しんだ。



◆◆◆◆


「曲を書きたい気分なの」

 この少女はなぜここまで不気味に、可愛らしい笑みを浮かべることが出来るのだろう。

 その笑顔を見た時吐き気がした。

 どうしてあんな残酷な夢を見たあとに、一遍の曇りもなく笑えるのだろうか。

 起きてまず曲を手掛け始めるあたり実に狂っている。

 あんな夢を見たあとに、こんなに美しい曲が書けるところも。

「嗚呼……出来た。出来たよ。まずはあの子に送り付けようか? それともあの子を演奏会に招待しようか? あの子のおかげで書けた曲だ……なんとか聴かせてあげたいな」

「たぶんお嬢ちゃんには会いたくないと思うぜ?」

「当然でしょ? だから無理矢理にでも会いたいんじゃない」

 そう言って、ピアノの前に腰掛ける。

「ホンっトに悪趣味なお嬢ちゃんだ……」

 こんなにいい曲を作るのに、なぜこんなにも、聴いていて息が詰まるのか。

「…………なんだよその曲は」

「? どうしたの」

「奇妙を通り越してもはや不気味だ。どうして人の悲鳴がそんな曲になる?」

 何か言うことが出来たのか、演奏はそこで止まる。

「あんたはさ。例えば、……夕焼けを美しいと思う?」

「思うとも」

「例えば青い空と白い雲があって、どこまでも広がる海原があって、それを雄大だと思う?」

「ああ、思う」

 お嬢の細い指が鍵盤を押す。

「たぶんそういう違いなんだと思う」

 いつになく真剣な声だった。

「例えばそれは私にとって酷く汚い色をしているし、とても窮屈な光景なんだよ。そんなものを見るなら閉じた部屋の蛍光灯の方がよほど美しいし、雄大だと言うんなら、私は金魚でも飼ってる水槽の方が雄大だと思うんだ」

 その指が次々に鍵盤を押した。

 それぞれは連なり旋律となっていく。

「そんなのより、私はくすんだ空気に淀んだ空が好きなんだ。区切られた部屋の天井の方が広大に思えるんだ。延々と続く大海原より、そこらに流れる下水の方が、よほど優雅で雄大に感じるんだ」

 それは紛れもなく真新しい、一曲。

「それと同じなんだ。あなたが誰かの喘ぎに覚えたことを、私は誰かの悲鳴に感じている。誰かに恋するのと同じように、私はズタボロに泣き崩れた顔が愛おしいんだよ。……たぶんね」

 そういって微笑んだその横顔はどこか悲しげで。

「でも結局は分かんないかな。どうせ私のことなんて誰にも分からないよ――うん。じきに報酬を渡せると思う。今回もありがと」そう言って、また五線譜に手を伸ばす。「もうちょっと寛いでて。さっきの曲、ここに書いておくから」

 俺には彼女の考えることが分からない。


◆◆◆◆


 私が書いた曲は協奏曲だった。

 悲鳴と骨と器具によって織り成された――否、折り成されたそれは、今までにないほど美麗で妖艶な曲として仕上がった。

 ピアノの旋律を中心とした、一風変わったその曲は、私の思惑とは裏腹に、大々的な発表を迎える。

 これはそんな、人生最後となる演奏会でのことだ。

 私はそこに、指揮者兼ピアニストとして立っていた――どうしてもこの手で弾きたかったから。

 一礼すると溢れんばかりの拍手が迎えた。

 この曲は、あの夢は、私から始まる。

 だから私が弾かねばならない。あとは皆が……譜面通り、私の後に続けばいいだけ。

 この曲は明確な指揮を必要としない。全ての中心は私とピアノ。だからピアノはピアノであり、同時に指揮者となりうる。

 譜面は全て覚えている。

 どこからどのパートが入ってきて、どう抜けていくのか。

 私の指が鍵盤を押す。

 同時にあの夢が蘇る。

 夢をなぞるように演奏は進む。

 他の音なぞどうでもよかった。

 時はただ無情に過ぎていく。まるでそれに抗うかのように演奏は強く、激しくなって行く。

 嗚呼、時よ、止まれ。

 あの夢をずっと見ていたい。こうしてそれを見ていられるのなら――

 私はその時。ふと、気が付いた。

 これは夢なのだと。

 これが夢なのだと。

 夢商人が夢を見せるように――私は夢を、聞かせていたのだと。

 私の指が身勝手に、新たな旋律を紡ぎ始めた。不思議と不快感が沸かないのは、それこそが今一番弾くべき曲であるからだろう。

 私には分かるのだ。否、私にしか分からないのだ。この旋律の意味が、この音一つ一つの風景が、曲調の写し出す風景が。

 だから私は旋律を紡ぐ。

「………………」

 気付けば一曲を終えていた。


◆◆◆◆


「素晴らしい演奏でした!」

 さっさと帰りたいという思いとは裏腹に、私はなぜかそのままパーティーのなかにいた。

 喧騒は嫌いなのに。

 これはその帰り道で、男に絡まれたという話。

「通していただけませんか?」

「これはこれは叶様。どうです?」――叶と言うのは私の名前だ。「この後メンバー限定の演奏会を開こうと思うのですが」

 目の前にやたらと長い車が止まっていて通れない。

「通していただけますか?」

「そう急くこともないでしょう? 家に帰ってもあとは就寝なされるだけでしょうに」

「おっしゃる通りですが」その就寝が重要なんだ。「少し疲れてしまって」

 しまった。

「疲れたのなら、部屋を用意いたしましょう」

 男はこういうところを見逃さない。

「できればそこで――お聞かせ願いたいですな、あの新曲はいつから用意していたのか、とか」

 ああ本当に、嫌になる。

 私は人間のこういうところが特に嫌いだ。全ては私が美しいからいけないのだが……

 それでも。

「用意なんてしませんよ。それとも貴方はあの程度の曲も作れないとおっしゃるの?」

「な――」

「残念だけれど、貴方のようなハイエナには興味がないの。ゴミの臭いがするし……何より不快だわ、その気色悪い視線が」

 それでも、私の足元に及ばない連中と話す趣味は、私にはない。

「そんなに欲求不満なら適当に見繕えばいいと思うけど? 私にその趣味はないから」

 全く以て理解できない。

 他人とまぐわることに、なんの価値があるというのか。


◆◆◆◆


「それで断ったと?」

「当たり前。ホント、何回見てもあの手の男は気持ち悪い……」

「ふーむ……やはりお嬢ちゃんは何か違うな」

「何がよ」

「俺の知り合いにシューマンってやつがいた。そいつも作曲家だったが、お嬢ちゃんとは違って大層遊び呆けてたぜ」

「いやあんた、シューマンって……」

「ああ……なんか最近よく見るな、テレビやら教科書やらで。アイツそんなに有名なのか?」

「当たり前でしょ……なんで知らないのあんた」

「あまりにも近くにいたからな……最期は逃げるように自害を頼まれたし」

 次の日。俺は彼女の愚痴を聞きながら、また二人きりでお嬢のピアノに耳を傾けていた。

「……ふと見失うことがあるんだ」演奏を続けながら、お嬢は言う。「死にたいって気持ちをさ」

 それは何に触発された言葉なのだろう。

「あんなに強く思ってたのに。ちょっと忘れて、すぐ思い出すの」お嬢ははたりと指を止める。「そういえば、生きていたくないから死にたいんだって」

 鍵盤を閉じて、その上に体を預けながら、お嬢はふと――しかし今まで聞いたことのないような様子で――こんなことを口にした。

「もう嫌だよ。……どうして誰も私のことを醜いと言ってくれないの?」

 それは自信の現れ……では、なかった。

「誰も分かってないくせに。それなのに皆手を叩くんだ。私の書いた曲が素晴らしいと。本当は忌むべき光景を曲にしているのに」それはただの嘆きのように思えた。「皆……ただ、素晴らしいと口にして、私の狂想曲を踏み躙っていく」

 たぶんずっと抱え続けてきたことなんだと思う。

 お嬢はしばらく動かずにいた。

 もしかすると、今までの自分を思い返していたのかもしれない。

「私を殺して。疲れちゃったから」

 だからある程度――その言葉が来ると分かっていた気がする。

「それはつまり?」

「人を殺す夢……前に話してくれたよね」

 用意されていた椅子に腰掛けて、俺は徐に、口を開いた。

「その夢を見ると人は一生目を覚まさない」

 一度じゃないんだ、売ってくれとせがまれたのは。

「死んでいるんじゃない。ただ眠ったまま……目を覚まさなくなる」

 みんな口を揃えてきっと起きるからと言って。

 そんなこと、売った本人である俺がさせるはずもないのに。

「あんたも同じだ。その夢から起きて、曲を作るなんてことはできない」

「珍しい。あなたが夢の中身を教えてくれるなんて」

 我ながら、なぜこんなことを言うのか分からない。

 いつもなら適当なことを言ってさっさと眠らせる。なのにどうして――

「……別に、もう起きようとは思ってない」

――ああそうか。

「あんたは他の奴らとは違う」

「今更」

「違う。たぶん、お嬢ちゃんの言っている意味とは、違うんだよ」

 彼女は違うのだ。

「お嬢ちゃんは考え続けた。諦めなかった。どんなに自分を醜悪だと嘲笑しても、それに甘えずお嬢ちゃんは……この世界に立ち向かい続けた」

 お嬢のような……こんな人間には会ったことがなかった。

「お嬢には言い訳したくないのさ」

「何それ、まるで惚れてるみたいなこと言うね」

「お嬢ちゃんは魅力的だからな」

「………………ありがと」

「もう少し、生きてみる気はないか」

「無いね。あんたとなら、夢の中で会えるでしょう?」

 強い人だ。だがそれと同じくらい脆い。

 それを隠すために高慢さが必要になって、そのまま板についてしまっただけ。

 お嬢は確かに天才だけど、それでも確かに人間だ。人間的だからこそ、悩んで、苦しんで、その末に夢を見て、ただそれを知って欲しかっただけだ。

 お嬢の曲は答えだから。

 必死に苦しんだことに対する、答えだから。

 だからきっと、……お嬢がもし起きることが出来たなら、それは素晴らしい曲になるだろう。

 でも、それは、ダメだ。

 例え相手がどんな人間でも、夢は、その尽くが平等でなくてはならないから。

「教えてもらっていい?」

「何を」

 ピアノから立ち上がって、お嬢はまるでいつもと変わらない調子で歩いた。

 そうやってベッドまで歩くと、極近くにいる俺に視線を向けて、まさしく興味津々な様子でこう聞いた。

「今まで何人、その夢を買ったの?」

「自殺した作曲家を調べればいい。それが答えさ」

 俺の答えはどうやら呆れたものだったらしい。お嬢はため息混じりに笑ってみせた。

「やっぱりロクデナシだな」

「褒め言葉だな」

「うん。……ねぇ、最期のお願い。いいかな?」

 分厚く羽織っていた上着を脱いで、お嬢は真っ白なシャツを羽織るのみとなった。

 ぐったりとした様子でベッドに横たわると、その目は隣にいる俺へと向かう。

 その目は……今から死ぬ人間の目とは思えなくて。

「お話を聞かせて。夢の話を。私好きだなあなたの話」

 もう二度と出逢えないであろう。この少女のことを、俺はどうにも、忘れられそうにない。

「全く以て分からんね、天才様の考えることは」


◆◆◆◆


 夢を見ている。

 オーケストラの夢を。

 かれこれもう随分と長いこと、その演奏に聞き入っていると思う。

 たったそれだけだ。

 ただそれだけの夢。

 たったそれだけで私は目を覚まさなくなる。

 その演奏が誰にとって素晴らしいかなんてもう関係のないことだ。これは私だけに用意された音楽なのだから。

 私だけの協奏曲。

 それを聴くのは私だけ。

 私だけの演奏会。

 夢の中で、ただ独り想うのだ。

 ずっとこの時が続けばいいと。ずっとこの時に身を寄せていたいと。

 嗚呼、私は――だから夢から覚められない。

 だってこれは私がずっと求めた曲だから。私が追い求め続けた夢だから。

 私だけの、独りぼっちの夢想曲。

 碌でもない世界で、碌でもない私には、あまりにも眩しく感じられて。

 嗚呼そのために。私は死んでしまうのだ。

 それもいいな。

「ざまぁみろ」

 もう何も見なくていいのなら、喜んで死んでやる。これでさよならできるなら――それ以上のことは望まない。

 そんな時。演奏がハタと止まったかと思うと、指揮者が私に手招きした。

 その隣にはピアノが置かれている。

 思わず微笑んで、私はピアノの元まで歩く。

 見覚えがあるピアノ。私の部屋に置いていたピアノ。最期の最期まで一緒だなんて笑ってしまう。

 こんなに優しい気持ちになったことがあっただろうかと思いながら――私はピアノに手を伸ばした。

 何を弾いたのか誰も知らない、独りぼっちの夢想曲。


 この曲のためならば、私はずっと眠っていよう。

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― 新着の感想 ―
[一言] こんにちは。お世話になっております、縹です。ご作品、最後まで読ませて頂きました。 偏屈かつ傲慢な天才作曲家とそれに振り回される夢商人のコンビがとても魅力的でした。あんなに閉鎖的だったお嬢も…
[一言] 天才作曲家のキャラクターにすごく惹かれました。 天才ではあるけど、同時に普通の人間らしさも持ち合わせている感じが夢売りの男の視点から書かれていたのがすごく良かったです。 評価に代えさせてい…
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