七日目 1 王と影巫女
春夏秋冬の祭での奉納剣舞は、影巫女が影巫女として勤める唯一の晴れ舞台だ。
影巫女が武術を修めるのはこの奉納剣舞のためでもある。
以前、旭様が私達、逆じゃなくてよかったわね、と笑ったことがあった。――私が影巫女だったら、祭のたびに失敗して巫女守にこっぴどく叱られたに決まっているもの。
その時わたしは何と答えたのだったか。「旭様も練習なされば出来ますよ」? それとも「古の例にならって巫女姫が勤めればよいのでは」?
どちらにせよ、あり得ない仮定だ。
旭様は輝く陽。あの方が影に回ることなどあるものか。
わたしは頭を振った。重く髪を飾るかんざしが軽やかな音を立てる。
いけない、余計なことを考えていては。祭はつつがなく進行している。奉納剣舞はもうすぐだ。
控え室の扉が、拳で叩かれる音がした。
出番の知らせだろうか。立ち上がって扉を開けると――ヴェンツェル様が立っていた。
ヴェンツェル様は祭装姿のわたしを眺め、艶然たる笑みを浮かべる。
「一昨日はお疲れ様でした。やはりあの姿よりそちらの方がよくお似合いで魅力的ですよ、影巫女殿。真昼の月のようだ」
真昼の月。わたしの髪や瞳の色から連想しての比喩だろうが、あまり褒められているようには感じない。
旭様の幻影をまとわない姿でヴェンツェル様にお目にかかるのは初めてだが、わたしが一昨日の『巫女姫によく似た』者だということを一目で見抜いたらしい。
「本当に、慧眼でいらっしゃいますね。ヴェンツェル様、こちらは許された者以外立ち入りを禁じているはずですが」
ヴェンツェル様は軽く両手を広げた。
「堅いことを言わないでください。ここまで何人かとすれ違いましたが、皆見逃してくれましたよ。それに私がここに来たのは巫女姫に頼まれてのことなんですから」
「――巫女姫に?」
「ええ。巫女姫様から影巫女殿にご伝言です」
わざとらしく咳払いし、ヴェンツェル様は表情を引き締める。
「『新月、我慢しないで。閉じこもらないで。目の前のものを否定しないで。あなたはあなた。私の代替品じゃない』……なかなか聞かせる言葉ですね。では、私はこれで」
微笑みを残し、鮮やかなまでにあっさりとヴェンツェル様は去っていった。
わたしは何も我慢などしていない。
どこにも閉じこもっていないし、何の否定もしていない。
旭様は何をおっしゃっているのだろう。
唯一、心当たりがあるとすれば、昨日のリクハルド様の――いや、と急いで記憶に蓋をする。
まさかこのことではないだろう。リクハルド様の失格については巫女守と旭様に報告はしたけれど、あの時の動揺はおくびにも出さなかったはず。
……困る。奉納剣舞に備え、心を静めておかねばならないのに。
今度こそ出番を伝えに来た巫女について歩きながら、忘れようと努めた。忘れさえすれば、きっとこの胸の中の波風は収まるはずだ――きっと。
太鼓の合図で、わたしは舞台に上った。
清冽な神気。一気に心が研ぎ澄まされる感覚。
祭壇に一礼し、わたしは最初の一歩を踏み出した。
奉納剣舞には筋がある。
いまだ神も邪も入り交じって渦巻き、地上に混沌が満ち満ちていた古。
初代の巫女姫たる女性が地上に降り立った。
半神半人ともいわれる初代巫女姫。彼女の神性を表すため、足取りは軽く。
祭装はそれなりの重さがあるが、それを匂わせては決していけない。
双剣は腰の鞘に収めたまま、腕を翻すごと、足を踏み出すごとに柄頭の鈴が鳴る。
神と人とをつなぐ巫女姫。神気の流れが整然と整えられる一方、邪気もまとまって形を持ちつつあった。
邪気を核に死、病、飢え、人の悪意といった諸々をまとい、長大な竜の態をとったそれ。
人々を冒し害することを危惧し、巫女姫は剣を取る。
わたしが冒頭部を一通り舞ったところで太鼓の拍子が変わる――邪竜の登場である。
邪竜役の持つ矛は竜の首であり、時に尾でもある。
奉納剣舞は、ここからが本番だ。
舞台に上がってきた邪竜役を見――わたしは、目を疑った。
邪竜役の祭装である面頬を着けてはいるが、間違いなく。
――リクハルド様。
彼は祭壇に頭を下げ、鮮やかな手つきで矛を構える。わたしも何十何百と繰り返して体に染みついた動きにより双剣を抜いたが――
なんなの。これは一体何なの。
頭も心も混乱しきってぐしゃぐしゃだ。けれど体は型どおりの動きをなぞり、リクハルド様も危なげなく合わせてくる。
旭様、衛士隊長、ヴェンツェル様、そしてリクハルド様。
一体何を考えているの。わたしをどうしようとしているの。
――もう、たくさん。
もうたくさんだ、振り回されるのは!
わたしは強く踏み込んだ。予定の軌道から剣先を外し、リクハルド様の肩口に向かって刺突を放つ。
剣舞用の、刃がない剣とはいえ、まともに当たれば怪我は避けられない。
リクハルド様は面頬の下で目を丸くしていたが、余裕ある動きで矛を操り、わたしの右剣を払った。
わたしは体を返し、左剣で斬り上げる。
リクハルド様は素早く下がって間合いを取り、矛を振り下ろした。
この矛は、その重量のためとっさの動きには向いていない。両の剣で絡め取って穂先を床につくまで落とし、リクハルド様の手から奪おうとその柄を踏み付ける――が、失敗した。
リクハルド様はしっかと矛を握ったまま、わたしごと穂先を持ち上げようと――均衡を失いかけたわたしは自分から後ろに跳んで、何とか転倒を免れた。
やはり元々の体格と得物の長さが違う。遠めの間合いを保たれては勝ち目はない。リクハルド様の懐に潜り込むべく、わたしは床を蹴る。
もはや型も筋の欠片もない。
太鼓も、鳴っているのかどうかさえ分からない。けれど。
――楽しい。
持てる力を振り絞ること。リクハルド様がわたしを見てくれていること。『巫女姫』の幻影ではなく、わたしを。
神気が渦を巻く。わたしが今まで勤めたどの剣舞よりも濃く、澄み渡った神気。
まるで神気が霧のごとく立ちこめたように感じた。
舞台と参列者席とが切り離され、今ここにいるのはわたしとリクハルド様だけのよう。
――ずっとこのままでいられればいいのに。
そうか、と思い当たる。優しいような、わがままなような、苦しいような、温かいような、初めて感じるこの気持ち。
恋――なのかも知れない。
わたしはリクハルド様に恋しているのかも知れない。
矛が、左剣を手からはじき飛ばす。
太鼓の音が高く鳴った。
先程までの感覚が嘘のように、現実感が戻ってくる。
わたしとリクハルド様は動きを止めていた。
双剣の片割れはわたしの手の中。その刃はリクハルド様の首筋を捉えている。
はじき飛ばされ、宙を舞っていた左剣が、舞台の床板に突き刺さった。
リクハルド様は矛を降ろし、ゆっくりと膝をついた。
わたしは右剣を高く掲げる。
太鼓の音が二度。剣舞の終了を告げる。
奉納剣舞には珍しく拍手が湧き、リクハルド様はほんの少しわたしを見上げて、瞳で柔らかく微笑んだ。