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白い捕鯨船

掲載日:2026/10/20

 父が帰ってきたので、母はカレーを作った。


 玄関に立つ父は、今年も紺色の作業着を着ていた。右の袖口が擦り切れている。母が何度繕っても、翌年には同じところが破れていた。


「ただいま」


 父は私を見て、少し首を傾げた。


「髪、切ったか」

「四月にね」

「似合うじゃないか」


 去年も、そう言われた。


 父の後ろには港が見えた。倉庫の屋根を越えて、白い捕鯨船の帆柱が伸びていた。




 父が死んだのは、私が六歳のときだった。


 鯨に舟を壊され、海へ落ちた。遺体は見つからなかった。


 翌年の九月、父は帰ってきた。


 母は玄関で腰を抜かし、私は父の脚にしがみついた。濡れた服から、知っている煙草の匂いがした。


 それから毎年、船は同じ日に港へ入った。


 乗組員は家族のもとへ帰り、七日間を過ごす。七日目の日暮れには船に戻り、また沖へ出ていく。


 父は三十二歳のままだった。


 私は今年、二十六になった。


 母がよそったカレーを、父は大きな口で食べた。


「うまいな」


 母は笑った。父が帰ってくる一週間だけ、母は口紅をつける。


「仕事はどうだ」

「辞めることにした」

「そうか」


 父のスプーンが止まった。


「次は決まってるのか」

「決まってる。東京」

「遠いな」

「電車で四時間だよ」


 父は頷き、もう一口食べた。


 母は自分の皿を見ていた。


     


 翌朝、父と港を歩いた。


 船の横では、乗組員たちが白い塗料を塗っていた。捕鯨が行われなくなって久しい町で、その船だけは毎年きれいになった。


 甲板に、船長が立っていた。


 片脚がなく、白い義足をつけている。父が死んだときには、もう老人だったという。


「今年こそだぞ」


 船長が声をかけた。


 父は帽子を取った。


「あいつの泳ぐ場所がわかった。今度は必ず仕留める」


 私は沖を見た。防波堤の先には、釣り船が一隻浮かんでいた。


 船から離れてから、父に尋ねた。


「まだ同じ鯨を捜してるの」

「ああ」

「二十年も?」

「船長にとっては、もっと長い」


 父の話では、その鯨はひどく大きく、全身が白かった。


 船長の脚を奪い、何隻もの舟を壊した。父が乗った航海でも、船長はそれを追っていた。


「仕留めたら、どうなるの」

「みんな、船を下りる」

「今、下りちゃ駄目なの」


 父は歩くのをやめた。


「下りることはできる」


 意外な答えだった。


「だったら」

「ただ、ここでは暮らせないんだ」


 父は海に目を向けた。


「俺たちは、もう死んでるからな。あの船に乗っている間だけ、こうして帰ってこられる」


 私は父の手を見た。爪の間に、白い塗料が残っていた。


「下りたら、消えるの?」

「ああ。もう帰ってこない」


 父は私の顔を見て、困ったように笑った。


「だから、まだ乗ってる」


     


 三日目に、家族で写真を撮った。


 母が押し入れから三脚を出し、庭に立てた。父は真ん中に立とうとして、母に端へ押された。


「去年、あなたが真ん中だったでしょう」


 写真を見返すと、父だけが同じ顔をしていた。


 私の背が伸び、母の髪に白いものが増え、庭の柿の木が切られても、父は同じ服で笑っている。


 撮影が終わると、父は庭の物置を直し始めた。


 扉の蝶番を替え、傾いた棚を打ち直した。母は縁側に座り、その背中を眺めていた。


 夜、父が風呂に入っている間に、母が言った。


「東京、いつから?」

「来月」

「そう」


 母は写真を拡大していた。


「お父さん、寂しがるね」

「毎年、帰ってくれば会えるよ」

「無理しなくていいのよ」


 私は母を見た。


 母は画面から目を離さなかった。


「私も、それを言わなきゃいけないんだけどね」


     


 五日目、港で父を見つけた。


 船には乗らず、岸壁に腰を下ろしていた。隣に、年を取った女性がいた。


 女性は一人で帰っていった。


「知り合い?」

「船の仲間の奥さん」


 父は手にしていた帽子を揉んだ。


「去年、施設に入ったんだ。今年は旦那のことが、わからなかった」

「その人は?」

「船にいる」


 甲板で、若い男が手すりを拭いていた。こちらを見ると、軽く頭を下げた。


「最初は、仇を討つつもりだった」


 父が言った。


「鯨のせいで死んだんだと思ってた。あいつさえ殺せば、気が済むんだって」


 波が岸壁を洗っていた。


「でもな、あのとき鯨は逃げてたんだ。俺たちが追いかけた。船長が舟を出せと言って、俺たちも乗った」


 父は帽子を被り直した。


「最近は、見つからなきゃいいと思ってる」

「どうして」

「見つからなければ、来年も帰れる」


 父がこちらを見た。


「お前が小さい頃は、帰るたびにできることが増えてた。自転車に乗れて、魚の骨が取れて。それを見るのが楽しみだった」


 私は黙って聞いた。


「そのうち、何を聞けばいいのかわからなくなった。仕事も、友達も、俺の知らないことばかりでな」


 父は笑おうとした。


「でも、会いたいんだよ」


     


 七日目も、母はカレーを作った。


 父は物置に道具を片づけ、庭の蛇口をきつく閉めた。


「ここ、また緩むと思う」

「そのときは業者さん呼ぶよ」


 母が言うと、父は少し寂しそうに頷いた。


 夕飯のあと、三人で港へ行った。


 乗組員の家族が集まっていた。毎年泣く子も、もう泣かなくなった子もいた。去年まで車椅子で来ていた人の姿がなかった。


 船長が甲板に現れた。


「乗れ。出すぞ」


 乗組員たちが、家族から離れていく。


 父も帽子を被った。


 母が、その袖をつかんだ。


「ねえ」


 父が振り向いた。


 母は袖口を撫でた。今年繕ったところに、細い糸が出ていた。


「来年も、同じところが破れてるんでしょうね」


 父は何も言わなかった。


「私、毎年これを直すの、好きだった」


 母は笑った。けれど、すぐに顔が歪んだ。


「でも、もう寒いところに帰したくない」


 船長が、杖で甲板を叩いた。


 父は船を見上げた。


「お前たちに会えなくなる」


 母は頷いた。


「うん」


 私は父の手を握った。


 小さい頃は包まれるようだった手が、今は同じくらいの大きさだった。


「私、東京に行くね」


 父は私を見た。


「帰ってこない年もあると思う。仕事とか、ほかの予定とかで」

「ああ」

「でも、お父さんが嫌になったからじゃないから」


 父は何度も頷いた。


 船長が父の名を呼んだ。


 父は帽子を脱いだ。


「俺は、ここで下ります」


 声は大きくなかった。


 船長の杖が止まった。


「あの鯨を忘れたか」

「覚えています」

「なら、乗れ」


 父は首を振った。


「もう、追いません」


 握っていた手が、冷たくなった。


 私は思わず力を込めた。父も握り返した。


 母が父の胸に顔を押しつけた。


 しばらく、三人でそうしていた。


 やがて私の指が閉じ、母の身体が前へ傾いた。私は母の肩を支えた。


 父の帽子が、足元に落ちた。


     


 船は日暮れに出ていった。


 何人かの船員が、手すりに並んでいた。私は帽子を拾い、船が見えなくなるまで胸に抱えていた。


 帰り道、母が言った。


「カレー、ずいぶん残っちゃった」

「明日も食べよう」

「明後日もあるよ」

「じゃあ、冷凍しよう」


 家に着くと、母は玄関で靴を脱ぎ、そのまま座り込んで泣いた。


 私は隣に座った。


 開け放した台所から、カレーの匂いがした。


 翌朝、物置の扉を開けた。


 いつも引っかかっていた角が、するりと動いた。中には道具が大きさの順に並び、棚の奥に、買い置きの蝶番が二つ残っていた。


 私は扉を何度か開け閉めした。


 家の中から、母に朝ご飯だと呼ばれた。

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