白い捕鯨船
父が帰ってきたので、母はカレーを作った。
玄関に立つ父は、今年も紺色の作業着を着ていた。右の袖口が擦り切れている。母が何度繕っても、翌年には同じところが破れていた。
「ただいま」
父は私を見て、少し首を傾げた。
「髪、切ったか」
「四月にね」
「似合うじゃないか」
去年も、そう言われた。
父の後ろには港が見えた。倉庫の屋根を越えて、白い捕鯨船の帆柱が伸びていた。
父が死んだのは、私が六歳のときだった。
鯨に舟を壊され、海へ落ちた。遺体は見つからなかった。
翌年の九月、父は帰ってきた。
母は玄関で腰を抜かし、私は父の脚にしがみついた。濡れた服から、知っている煙草の匂いがした。
それから毎年、船は同じ日に港へ入った。
乗組員は家族のもとへ帰り、七日間を過ごす。七日目の日暮れには船に戻り、また沖へ出ていく。
父は三十二歳のままだった。
私は今年、二十六になった。
母がよそったカレーを、父は大きな口で食べた。
「うまいな」
母は笑った。父が帰ってくる一週間だけ、母は口紅をつける。
「仕事はどうだ」
「辞めることにした」
「そうか」
父のスプーンが止まった。
「次は決まってるのか」
「決まってる。東京」
「遠いな」
「電車で四時間だよ」
父は頷き、もう一口食べた。
母は自分の皿を見ていた。
翌朝、父と港を歩いた。
船の横では、乗組員たちが白い塗料を塗っていた。捕鯨が行われなくなって久しい町で、その船だけは毎年きれいになった。
甲板に、船長が立っていた。
片脚がなく、白い義足をつけている。父が死んだときには、もう老人だったという。
「今年こそだぞ」
船長が声をかけた。
父は帽子を取った。
「あいつの泳ぐ場所がわかった。今度は必ず仕留める」
私は沖を見た。防波堤の先には、釣り船が一隻浮かんでいた。
船から離れてから、父に尋ねた。
「まだ同じ鯨を捜してるの」
「ああ」
「二十年も?」
「船長にとっては、もっと長い」
父の話では、その鯨はひどく大きく、全身が白かった。
船長の脚を奪い、何隻もの舟を壊した。父が乗った航海でも、船長はそれを追っていた。
「仕留めたら、どうなるの」
「みんな、船を下りる」
「今、下りちゃ駄目なの」
父は歩くのをやめた。
「下りることはできる」
意外な答えだった。
「だったら」
「ただ、ここでは暮らせないんだ」
父は海に目を向けた。
「俺たちは、もう死んでるからな。あの船に乗っている間だけ、こうして帰ってこられる」
私は父の手を見た。爪の間に、白い塗料が残っていた。
「下りたら、消えるの?」
「ああ。もう帰ってこない」
父は私の顔を見て、困ったように笑った。
「だから、まだ乗ってる」
三日目に、家族で写真を撮った。
母が押し入れから三脚を出し、庭に立てた。父は真ん中に立とうとして、母に端へ押された。
「去年、あなたが真ん中だったでしょう」
写真を見返すと、父だけが同じ顔をしていた。
私の背が伸び、母の髪に白いものが増え、庭の柿の木が切られても、父は同じ服で笑っている。
撮影が終わると、父は庭の物置を直し始めた。
扉の蝶番を替え、傾いた棚を打ち直した。母は縁側に座り、その背中を眺めていた。
夜、父が風呂に入っている間に、母が言った。
「東京、いつから?」
「来月」
「そう」
母は写真を拡大していた。
「お父さん、寂しがるね」
「毎年、帰ってくれば会えるよ」
「無理しなくていいのよ」
私は母を見た。
母は画面から目を離さなかった。
「私も、それを言わなきゃいけないんだけどね」
五日目、港で父を見つけた。
船には乗らず、岸壁に腰を下ろしていた。隣に、年を取った女性がいた。
女性は一人で帰っていった。
「知り合い?」
「船の仲間の奥さん」
父は手にしていた帽子を揉んだ。
「去年、施設に入ったんだ。今年は旦那のことが、わからなかった」
「その人は?」
「船にいる」
甲板で、若い男が手すりを拭いていた。こちらを見ると、軽く頭を下げた。
「最初は、仇を討つつもりだった」
父が言った。
「鯨のせいで死んだんだと思ってた。あいつさえ殺せば、気が済むんだって」
波が岸壁を洗っていた。
「でもな、あのとき鯨は逃げてたんだ。俺たちが追いかけた。船長が舟を出せと言って、俺たちも乗った」
父は帽子を被り直した。
「最近は、見つからなきゃいいと思ってる」
「どうして」
「見つからなければ、来年も帰れる」
父がこちらを見た。
「お前が小さい頃は、帰るたびにできることが増えてた。自転車に乗れて、魚の骨が取れて。それを見るのが楽しみだった」
私は黙って聞いた。
「そのうち、何を聞けばいいのかわからなくなった。仕事も、友達も、俺の知らないことばかりでな」
父は笑おうとした。
「でも、会いたいんだよ」
七日目も、母はカレーを作った。
父は物置に道具を片づけ、庭の蛇口をきつく閉めた。
「ここ、また緩むと思う」
「そのときは業者さん呼ぶよ」
母が言うと、父は少し寂しそうに頷いた。
夕飯のあと、三人で港へ行った。
乗組員の家族が集まっていた。毎年泣く子も、もう泣かなくなった子もいた。去年まで車椅子で来ていた人の姿がなかった。
船長が甲板に現れた。
「乗れ。出すぞ」
乗組員たちが、家族から離れていく。
父も帽子を被った。
母が、その袖をつかんだ。
「ねえ」
父が振り向いた。
母は袖口を撫でた。今年繕ったところに、細い糸が出ていた。
「来年も、同じところが破れてるんでしょうね」
父は何も言わなかった。
「私、毎年これを直すの、好きだった」
母は笑った。けれど、すぐに顔が歪んだ。
「でも、もう寒いところに帰したくない」
船長が、杖で甲板を叩いた。
父は船を見上げた。
「お前たちに会えなくなる」
母は頷いた。
「うん」
私は父の手を握った。
小さい頃は包まれるようだった手が、今は同じくらいの大きさだった。
「私、東京に行くね」
父は私を見た。
「帰ってこない年もあると思う。仕事とか、ほかの予定とかで」
「ああ」
「でも、お父さんが嫌になったからじゃないから」
父は何度も頷いた。
船長が父の名を呼んだ。
父は帽子を脱いだ。
「俺は、ここで下ります」
声は大きくなかった。
船長の杖が止まった。
「あの鯨を忘れたか」
「覚えています」
「なら、乗れ」
父は首を振った。
「もう、追いません」
握っていた手が、冷たくなった。
私は思わず力を込めた。父も握り返した。
母が父の胸に顔を押しつけた。
しばらく、三人でそうしていた。
やがて私の指が閉じ、母の身体が前へ傾いた。私は母の肩を支えた。
父の帽子が、足元に落ちた。
船は日暮れに出ていった。
何人かの船員が、手すりに並んでいた。私は帽子を拾い、船が見えなくなるまで胸に抱えていた。
帰り道、母が言った。
「カレー、ずいぶん残っちゃった」
「明日も食べよう」
「明後日もあるよ」
「じゃあ、冷凍しよう」
家に着くと、母は玄関で靴を脱ぎ、そのまま座り込んで泣いた。
私は隣に座った。
開け放した台所から、カレーの匂いがした。
翌朝、物置の扉を開けた。
いつも引っかかっていた角が、するりと動いた。中には道具が大きさの順に並び、棚の奥に、買い置きの蝶番が二つ残っていた。
私は扉を何度か開け閉めした。
家の中から、母に朝ご飯だと呼ばれた。




