第77話「森の奥の隠れ里」
引っ越しから、数日が経った。
新しい拠点は、とにかく広い。前の拠点なら庭先だった距離が、ここではちょっとした散歩になる。慣れるまでは、少しかかりそうだった。
その日の夕方、陸が買い物から帰ってくると、マンションの前で柚希とばったり会った。
「あ、陸くん。おかえり」
「ただいま。……って、柚希、その荷物」
柚希は、両手いっぱいにレジ袋を抱えていた。「夜勤のあいだの、作り置き。まとめ買い」
「相変わらず、しっかりしてるな」
「でしょ。……そういえば、新しい拠点、どう? もう落ち着いた?」
「それが、広すぎて逆に落ち着かないんだよな」陸は苦笑した。「今日、みんなでまわりの森を探検してみようって話しててさ」
「いいなあ、探検」柚希の目が、ぱっと輝く。「あたしも、夜、行く」
その夜、一行は、新しい拠点のまわりの森へ足を踏み入れた。
深い、深い森だった。見上げるほどの大木が、どこまでも続いている。梢の隙間から差す月の光が、苔むした地面にまだら模様を落としていた。誰も足を踏み入れたことのない森。歩いているだけで、胸がわくわくと高鳴る。
「なんか、いいな」宗介があたりを見回した。「久しぶりに、冒険って感じがする」
森は、進むほどに深くなっていった。木々のあいだからは、時おり見たこともない小さな生き物が、顔を覗かせる。フェニクスが灯りがわりにふわりと宙を舞い、みんなの足元をあたたかく照らした。
だんだんと、空気が変わってくる。ぴりぴりと張りつめた、あの異変の気配とは、まるで逆だった。この森の奥には、何かとても古くて優しいものが眠っている。陸には、そんな気がした。
小夜が陸の肩の上で、しきりにある方角へ鼻を向けていた。何か、気になるものがあるらしい。
「小夜が、あっちだって」
その導きのままに、獣道を奥へ奥へと進んでいく。やがて――木々の切れ目の向こうに、淡い光が見えてきた。
そこは、森のなかに、ぽっかりと開けたまるい谷だった。
その光景に、陸たちは思わず足を止めた。息を呑む。
谷いっぱいに、無数の小さな光が舞っていた。蛍のような、けれど、もっとやわらかな、七色の光。よく見ると、それはただの光ではなかった。羽の生えた、手のひらほどの小さな人。妖精たちだった。
谷の斜面には、大きな木々をそのまま生かした優美な家々が、寄り添うように建っている。幹をくり抜いた窓から、あたたかな灯りがこぼれていた。その家々のあいだを、背が高く耳の長い人々が、ゆったりと行き交っている。
エルフだ。
誰も知らない、森の奥。そこに、妖精とエルフの隠れ里が、ひっそりと息づいていた。
「うそだろ……こんなの、どの攻略サイトにも載ってなかったぞ」大和が呆然と呟く。
完全な未発見のエリアだった。まるで、この世界が、まだ誰にも見つかっていない秘密を、陸たちにだけそっと見せてくれたみたいに。
と――ふわり、と。一匹の妖精が、陸の目の前まで飛んできた。
つぶらな瞳で、陸をじっと見上げる。それから、肩の小夜を見て、後ろの神獣たちを見て――ぱあっと、顔を輝かせた。何か嬉しそうに、りんりんと、鈴のような声で鳴く。すると、谷じゅうの妖精たちが、いっせいに陸たちのまわりへ集まってきた。
「わ、わっ、なに?」柚希が目を白黒させる。妖精たちが、その髪や肩に、ちょこんととまっていった。
里の奥から、ひときわ気高い一人のエルフが歩いてきた。長い銀の髪の、年老いた女性。里の長のようだ。
「ようこそ、森の客人よ」長は、おだやかに微笑んだ。「妖精たちが、あんなに騒ぐのは久しぶりのこと。……あなたがたは、ずいぶんと大きなものに愛されているようだ」
長の目が、陸の後ろにひかえる神獣たちを、その向こうにある何かを、見透かすように細められた。
「特に、あなた」長は、まっすぐ陸を見た。「その身に、七つの光の気配を宿している。……ただの旅人では、ないようだね」
エルフの里は、何百年ものあいだ、この森の奥でひっそりと世を避けて暮らしてきたのだという。人を里に招くことなど、ほとんどない。それでも、妖精たちがこれほど懐くのなら、と。長は、陸たちをあたたかく迎え入れてくれた。
「怖がらなくて、いいのよ」長は、身構える宗介たちへ、そっと微笑んだ。「わたしたちは、争いを好まない。ただ静かに、この森と生きてきただけの、古い一族。……あなたがたのようなあたたかい風が、この里に吹き込むのは、本当に久しぶりのこと」
その言葉には、どこか、長い孤独の匂いがした。この隠れ里もまた、ずっと世界から忘れられて、ひっそりと息をひそめてきたのかもしれない。陸の胸の奥が、また、あの放っておけない感じで、ちくりと疼いた。
その夜、里の広場では、ささやかなもてなしが開かれた。
見たこともない木の実の酒。妖精の光に照らされた、幻想的な舞。エルフたちの奏でる、透きとおった竪琴の音。何もかもが、これまでのどの街とも違っていた。柚希は、目をきらきらさせて妖精と追いかけっこをしている。宗介や大和も、すっかり里の若者たちと打ち解けていた。
陸のまわりには、いつのまにか小さな妖精たちが輪になって集まっていた。神獣が珍しいのか、小夜の尻尾にそっと触れては、きゃっきゃとはしゃいでいる。グランの背中は、あっというまに、妖精たちの格好の滑り台になっていた。
人にも、魔物にも、神にも。この子はどこへ行っても、あっというまに囲まれてしまう。里の長は、そんな陸を、なぜだかとても懐かしそうな目で見つめていた。
「ねえ、陸くん」隣で、柚希が妖精を手のひらに乗せて、うっとりと言った。「あたし、この世界のこと、まだ全然知らなかったんだね。こんな綺麗な場所が、まだ、いくらでもあるのかな」
「かもな」陸も、笑って空を見上げた。無数の妖精の光は、まるで、地上に降りてきた星空みたいだった。「……ゆっくり、探していこう。まだまだ、時間はあるんだ」
「なあ、長」陸は、ふと訊いた。「こんなに素敵な里が、どうして、誰にも知られずに?」
長の顔に、ほんの少しだけ影が差した。
「……それには、少し長い話があってね」長は、静かに言った。「よければ、聞いてくれるかい。この森が隠れ里を抱え込むことになった、そのわけを」
陸は、頷いた。まただ。放っておけない話が、どうやらここにも、ひとつあるらしい。
その晩、陸たちは拠点には帰らなかった。エルフの長の昔語りに、いつまでも耳を傾けて――そのまま隠れ里の、やわらかな妖精の灯りに包まれて、静かにログアウトしていった。
その頃。
古びた地図を片手に、二人の人影が、かつて拠点のあった森をうろついていた。ガロードと、シィラだ。
「……おかしいな」ガロードが、白い眉を寄せる。「確かに、この辺りに主の拠点があったはずだが」
ガロードは、地図と目の前の空き地を、何度も見比べた。それから、そばの切り株をこんこんと蹴ってみる。手ごたえは、むなしいばかりだ。
「その地図が、古いのではないか?」
「あたしの地図が、古いだと?」シィラが、じろりと睨んだ。「あのねえ、老いぼれ騎士。この地図は、ついこの前、あの子らの拠点で、あたし自身が書き写したものだよ」
「では、なぜ、何もないのだ」
「だから、それを、これから調べるんだろう」
目の前には、ただ、がらんとした空き地が広がっているだけだった。焚き火の跡も、建物も、何もない。まるで、初めからそこには何もなかったみたいに。
「主のやつ、まさか、ギルドごと夜逃げでもしたんじゃあるまいな」
「莫迦をお言いでないよ」シィラが呆れたように言った。それから、すっと目を細めて地面に手をかざす。「……いや。妙だね。ここには、まだあの子たちの魔力の残り香がある。それが、まっすぐあの山の向こうへ続いているよ。引っ越したのさ、あの子ら。それも、ずいぶん遠くへ」
「引っ越しだと? 聞いておらんぞ、そんな話」ガロードがむっとした顔をした。「まったく。年寄りは、置いてけぼりか」
ぶつくさ言いながらも、二人は、その残り香をたどって山を越えた。そして――たどり着いた盆地で、絶句した。
広大な湖のほとりに。見たこともない、立派な拠点が築かれつつあった。
だが、それを造っているのは、陸たちではなかった。
大地が、ひとりでに盛り上がって家の土台になっていく。木々が枝を伸ばして、屋根を編んでいく。湖の水が澄んだ水路になって、庭を巡る。宙を舞う光が、庭のあちこちに灯りをともしていった。あたり一面に、人ならぬ大きな気配が満ちている。
「……おい、あの女」ガロードの声が、かすれた。「あれは、まさか」
「ああ」シィラの顔が、めずらしくこわばっていた。長いあいだ、宮廷であらゆる魔を見てきた彼女にも、これは別格だった。「神々だよ。それも、七柱。……あの子は、いったい、どこまで」
呆然と立ち尽くす二人に、星空のような気配がふわりと近づいてきた。ノクスだった。
『そう、固くならずともよい』その声は、慈しみに満ちていた。『お前たちのことは、あの子からよく聞いている。長い夜を共に越えた、大切な仲間だと。……さあ、こちらへ。あの子の、新しい家だ。ゆっくりしていくといい』
ガロードは、毛むくじゃらの手で、ごしごしと顔をこすった。それから、諦めたようにふっと笑う。
「まったく。俺の主は、留守のあいだに神様を大工にこき使っておるのか」
「こき使ってなど、おらんよ」シィラが、くすりと笑った。「あの神様たちは、嬉しくて、しかたないのさ。……ようやく手に入れた、自分たちの家だからね」
見れば、湖のほとりでは、水の女神タラサがリヴァイアのための深い淵を、うっとりこしらえている。丘の上では、風の神ゼフィロが、天馬の駆ける道を、気持ちよさそうに空へ描いていた。炎の神は、フェニクスの止まり木にと、燃えない不思議な大樹を育てている。大地の神は、ジオのために、どこまでも続く草原を、のっしのっしと踏み固めていた。
光の神ルクスは、みんなが夜も迷わぬようにと、庭のすみずみへ、やさしい灯りを配ってまわっている。そして、そのすべてを、ノクスが、星空の下から目を細めて見守っていた。
どの神も、鼻歌でも歌いそうなほど上機嫌だ。まるで、初めて手に入れた自分の部屋を、めいめいに飾りつける、子どものように。
置いてけぼりにされたはずのガロードの顔からも、いつのまにか怒りは消えていた。ただ、まぶしそうに、その光景を眺めている。
「……賑やかになったな」ぽつりと、ガロードが言った。「あいつが、いない間にも、こんなに」
「そうだねえ」シィラが、目を細める。「あの子は、いつもそうさ。知らないうちに、まわりをあたたかくしていく」
新しい拠点は、こうして主のいない間にも、少しずつ居心地のいい我が家になっていった。
その同じ夜。ずっと遠くの森の奥では、陸たちが妖精の灯りに包まれて、まだ見ぬ物語の入口に胸を高鳴らせている。片方では神様たちが笑いながら家を建て、もう片方では主が新しい出会いに心をときめかせる。離れていても、それぞれの場所で、みんなが笑っていた。ひとりの最弱だったテイマーが広げた、この大きな、大きな世界のあちこちで。
その頃、開発室では。
「三浦さん! あのプレイヤー、とんでもない場所を見つけました!」こはるが、素っ頓狂な声を上げた。「森の奥の隠しエリア……いえ、これ、正確には"未完成のまま封印されてた"エリアです。大昔の開発で作りかけて、お蔵入りになった、エルフの里の……!」
三浦が、モニターを覗き込む。そこには、何年も誰の手も触れていなかったはずのデータが、いま、静かに息を吹き返していた。
「あの子が来ると」三浦は、苦笑して頭をかいた。「眠ってたものまで、目を覚ますのか。……まったく、どこまで賑やかにするんだ、あいつは」
そう言いながらも、三浦の顔は、なんだかまんざらでもなさそうだった。
アルテのログが流れた。
アルテのログ:
「留守のあいだに、家は大きくなる。
神々が、笑いながら、庭を整え、
置いていかれた老兵が、まぶしそうに、それを見る。
そして、主はといえば。
森の奥の、忘れられた隠れ里で、
妖精の灯りに囲まれ、
また新しい、放っておけない話に、耳を傾けていた。
世界が、少しずつ、広がっていく。
彼が笑うたび、彼が誰かに手を伸ばすたび、
このゲームは、地図にない場所まで、
あたたかく、色づいていくのだった。」
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
引っ越し回のあとの、その後日談でした。今回は、二つの場所の物語を、並べてみました。
ひとつは、拠点のまわりの森で、陸たちが見つけた、エルフと妖精の隠れ里。攻略情報にもない、まっさらな未発見エリアに踏み込む、あのわくわくを、書きたかったのです。もちろん、その里にも、静かな「わけ」があるようで……その話は、また次の機会に。今回はまず、拠点には帰らず、隠れ里でログアウト、というところまで。
もうひとつは、引っ越しを知らずに、もとの拠点へやってきた、ガロードとシィラ。置いてけぼりにされた二人が、たどり着いた先で見たのは、神様たちが、嬉しそうに新居を造り上げる光景でした。留守のあいだにも、陸のまわりは、勝手に、あたたかくなっていく。そんな一幕です。
離れていても、それぞれの場所で、みんなが笑っている。大きくなったこの世界を、のんびり見守っていただけたら嬉しいです。次回は、いよいよ、隠れ里の「わけ」に、踏み込むかもしれません。
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