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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

溺れる街 ―見えない水位―

作者: 葛西 

第一章 床の水


篠崎悠しのざき・ゆうは、その朝、湿った匂いで目を覚ました。

鼻腔の奥にこびりつくような、じめついたカビと鉄臭さの混ざった匂い。

「……雨?」

寝ぼけた頭でそう思い、耳を澄ませた。

だが、外からは雨の音はしない。鳥の鳴き声すらもない。

カーテンを開けると、曇天。

道路も乾いている。濡れた気配はどこにもない。

ベッドから降りたとき、それに気づいた。


足裏にぬるりとまとわりつく感触。

「は?」と声を漏らしながら足を持ち上げた。

床に、数ミリほどの水膜が広がっている。

水たまりと呼ぶには浅すぎる、しかし、床一面に途切れなく満ちていた。

ぱしゃり、と足跡が残る。

それがすぐに溶けて消え、床はまた均一な水の膜に戻った。

(なんだこれ……漏水?)

慌ててシンクを見に行くが、蛇口は閉じている。

浴室も、トイレも、異常はない。

戻ってみると、部屋の隅に溜まった水が、かすかに揺れていた。

震えるように。

風はない。家は閉め切られている。

なのに、水面が、誰かの呼吸に反応するかのように脈打っていた。

ぞわり、と背中を冷たい指でなぞられたような感覚。


(……見られてる?)

外を確認する。

道路のアスファルトに小さな水たまりが点々とある。

その水たまりたちが、一斉に同じ方向へ揺れていた。

揺れの中心にあるのは、この二階の窓。

つまり、自分。

息が詰まる。

思考が追いつかない。

ただひとつ分かるのは、水が——こちらを見ているということだった。


第二章 学校


「おはよー……って、どうしたん悠?」

昇降口で靴を履き替えていると、友人の佐久間が怪訝そうに声をかけてきた。


悠は無言で首を振り、なんとか笑顔を作った。

だが、心臓はずっと早鐘を打っている。

理由は靴箱の前の小さな水たまりだった。

誰かが傘を畳んだときに落ちた雫かもしれない。

けれど、その水が——自分の上履きを履いた瞬間、ぴくりと震えたのだ。

「なに?」佐久間が首をかしげる。

「いや……なんでもない」


教室に入っても安心なんかできなかった。

それは、黒板横の手洗い場。蛇口をひねった覚えはないのに、水滴が一粒、落ちたからだ。その雫がシンクで弾けるとき、まるで視線を投げられたかのように背中が粟立った。


授業中。

隣の席の女子がペットボトルを開ける。

透明な水が喉を滑っていく光景を見ただけで、悠の舌の奥に異物感が走った。

(……入ってくる……)

そう直感した。

水が、彼女の身体に取り込まれていく瞬間。

飲み干された水の全てが「こちらを見ている」ように思えて、視線を逸らさざるを得なかった。


「悠? 顔色悪いよ」

先生の声に教室の視線が集まる。

悠は咄嗟に「大丈夫です」と答えたが、心の奥ではずっと叫んでいた。

——大丈夫じゃない。

——水が、俺を見ている。


昼休み。

食堂に行けば、トレーに並んだ味噌汁が、誰のものでもなく「悠の椀」だけがぐるりと渦を巻いた。

「おまえさ、具だけ食べてんのかよ」

向かいに座る松田が笑って言う。

悠は慌てて箸を動かす。

だが汁の底で、豆腐の欠片が沈んでいくとき、明らかにそれは下ではなく俺の腕へと吸い寄せられていた。

見えない流れがある。

「なんだよ!これ!離れろ、」俺は味噌汁から出てきた謎の黒い水を取っ払った。

「お、おい!なんだよ お前おかしいぞ」と松田が言う。

「そんな俺と飯食いたくないのか?」

「い、いやそうじゃない。一緒に食べよう。」

俺は信じてはもらえない病。

異常気象に怖くなって早退することにした。その時本当の理由を話しても信じてもらえないだろうと思い頭痛という事で返させてもらった。


家に帰ると、喉が渇いていた。

極度の緊張と恐怖で、体内の水分が蒸発したかのように口が乾く。

蛇口を捻る。

だが流れ落ちる水は、ただの透明な液体ではなかった。

——黒い。


流れる途中で、ほんのわずかに「顔の形」を作った。

目でも鼻でもない。

だが、人間の意志に似た何かが、そこにあった。

悠は吐き気を堪えながらも、コップに水を満たす。

飲まなければ死ぬ。

しかし、飲んでしまえば——。

コップを唇に当てた瞬間、冷たさが歯茎を貫いた。

水が舌を通り過ぎ、喉を滑っていく。

「……っ」

ただ飲んでいるだけなのに、胃の奥で水がざわめいた。


内臓を撫でるように、内側から壁を叩くように。俺が飲んでいるんじゃない。こいつらが

——入ってきてる。

自分の体が、もう「外」ではなく「中」から侵され始めていた。

夜。

布団に横たわっても、瞼の裏に黒い波紋が浮かんで消えない。

耳の奥で、絶えず水音がする。

それは鼓動と同じリズムで打ち寄せてくる。


「やめろ……」

呻き声を上げても、返事はない。

だが、身体の奥底。

肺に染み込む空気の代わりに、水が満ちてくる感覚があった。

息を吸えば吸うほど、肺は水で重くなる。

呼吸を止めても、その流入は止まらない。

視界が滲む。

部屋の壁が波打ち、天井がゆっくりと揺れる。

最後に見えたのは、床に広がる薄い水膜だった。

それが小さく揺れて、まるで——笑ったように見えた。


第三章 水の匂い


翌朝、悠はコンビニで買ったペットボトルのコーラを開けた。

本当は天然水を飲みたい気分だが、ペットボトルの水は黒く気になってしまうからコーラにした。

キャップをひねる瞬間、プシュッという音がした。炭酸水だ。

けれど嫌な予感がした。それでも口に含む。

――ぬるい。

それだけではなかった。舌の奥にまとわりつくような鉄の味。井戸水のようでもあり、腐った血のようでもあった。


吐き出そうとした瞬間、水が喉を勝手に滑り落ちた。

「……っ!」

思わず咳き込むが、咽頭にまとわりつく感覚は消えない。

すぐトイレに駆け寄り鏡を見ると、舌の奥が赤黒く染まっていた。

(買ったばかりの飲み物が……?)


信じられずにパッケージを確認する。

製造元も消費期限も普通。やはりおかしい。この世界は狂っている。

そしてペットボトルの中から覗き込むように、ゆっくりと形を変えて笑った。

悠は手を滑らせ、ボトルを床に落とした。

転がったボトルからコーラが流れ出し、じわじわと床に広がる。

だが、広がったはずのコーラは一定の形を保ち、悠の足の方へと伸びてきた。

「……っ、ふざけるな!」


店員からタオルをもらい拭こうとするが、タオルの繊維が水に沈んでいくように吸い込まれていき、ただ湿って重くなるだけだった。

まるでコーラの方が拭う手を飲み込んでいるようだった。


第四章 浸食


その日から、悠は水を避けるようになった。

シャワーは浴びない。歯も磨かず、喉が渇いた時ははちみつを飲んでいた。少し違和感があったものの、問題はなかった。


けれど、水はやって来る。

洗濯機の排水口からあふれる濁流。

マンションの階段にできた水たまりが、自分の足音に合わせて波紋を広げる。

部屋の窓に打ちつける雨粒が、一瞬、すべて同じ位置に静止する。

気づけば、水道の蛇口をひねっていなくても、部屋のシンクに水が溜まっていた。


しかもその表面は鏡のように滑らかで、自分の顔ではなく別の顔が映っていた。

それは、口を大きく開けて笑っている自分だった。

鏡に映る自分よりも歯が多く、目は黒く沈んでいた。

悠は慌ててシンクを叩き割ろうとした。

だが拳を下ろすより早く、水が波紋を広げて立ち上がり、顔の形のままこちらを覗き込んだ。


第五章 逃げ場なし

「水を避けるしかない」

悠はそう思い、旅行鞄を抱えてビジネスホテルに泊まった。

部屋を選ぶときも「バス・トイレ共用」の古いホテルを選んだ。

部屋には水場がない。これで安心できるはずだった。


夜。

廊下の奥から、ぽたり、ぽたり、と音が響いた。

天井からの雨漏りかと思ったが、見上げても乾いている。

しかし、よく聴くと誰かが歩いてる音だった。


――靴底だ。

誰かが濡れた靴で歩いている音。

やがてその音は消えた。安心したのも束の間、誰かがドアからノックをしてきた。

「だ、だれだ?」俺は怖くなり、それを無視した。

そして、ゆっくりとドアを見ると下の隙間から、透明なものが滲み出している。

それは一筋の細い流れで、まるで鍵穴を探る指のように部屋の中に伸びてきた。

悠は慌てて鞄を押し付けて塞ごうとしたが、

水は鞄の底を通り抜け、じわじわとベッドの下に広がっていった。


ベッドに逃げ上がった。

「な、なんだよ!」

だがすぐに足首を冷たさが掴んだ。

見下ろすと、布団の隙間から水の腕のようなものが伸びてきている。

「やめろっ……!」

必死に蹴り上げるが、腕は砕けず、ただ水飛沫を散らすだけ。

その飛沫が壁に張り付き、人の顔の輪郭を形作った。

壁一面が、無数の顔でこちらを見ている。

どの顔も、水に溺れる瞬間の顔だった。


最終章 「溺れる街」


深夜。

篠崎悠はベッドの上で目を覚ました。

……音がする。

規則正しい、途切れない音。

「ごぼ、ごぼ、ごぼ、ごぼ」

呼吸のようでもあり、何かが咀嚼しているようでもある。

耳元からではなく、床下から響いていた。

恐る恐る足を床に下ろす。

――ぬるり。

もう驚きはしなかった。そして先ほどのことを思い出す。

俺はあの後恐怖で気絶したんだなと。


そしてまわりを見渡して見ると、部屋はすでに膝下まで水に沈んでいる。だが窓の外は乾いていた。

自分の部屋だけが沈んでいる。

俺は自分だけの恐怖に怖くなって

「やめろ……やめろよ……」と口にした。

震える声で呟いても、水は返事のように波紋を広げ、足を撫でる。

温かい。まるで体温のある生き物のようだ。


ドアを開け、階段を駆け下りた。

だが一階のラウンジに足を踏み入れた瞬間、腰までの深さに沈んだ。

水の中に家具が浮いている。食卓の椅子がゆっくりと横倒しになり、窓にぶつかって止まる。

「助けて……!」

声は水に吸い込まれ、すぐに溶けた。俺はその水から抜け出そうと必死に暴れた。けれどそれはあり地獄で抜け出そうと、もがけばもがくほど水の中へと沈んだ。


俺は外に逃げようと思い、ゆっくりと外の玄関に向かった、けれどさっきまで何もなかったはずなのにドアの隙間から――大量の水が逆流してきた。

それは行かせないという強い意志を感じた、

けれど俺は必死に全身の筋肉に力を入れてドアのレバーハンドルを握った。力を込めてドアを開け放ったが反対側からなにかに押されていてどんなに力を込めても開かなかった。


……だが。急に黒い水がドアの隙間から戻っていった。でもその勢いはすごく、ドアの近くにいた俺は打ち付けられた。けれど脅威から去った俺は安堵した。

そしてある程度の水が戻っていった時、俺はレバーハンドルを握ろうとした。でもそのハンドルを見ると黒い水が目を作り、笑っていた。

「……っつ!」俺は咄嗟にその水を振り払った。そして同時に背筋が凍りついた。


恐怖で目が回っておかしくなりそうだった。けれど、それでも!俺はハンドルを握りドアを開けた。それはさっきまでの重たいハンドルではなく、簡単な力でそれは開いた。


そしてすぐ外を見るとそれは、乾いた夜の住宅街ではなく黒い住宅街だった。

街灯も道路も、すべてが黒い水の底に沈んでいた。

遠くに立ち並ぶマンションの窓も、信号機も、まるで水槽に沈められたミニチュアのように静かに揺れている。

空は見えない。

頭上まで満たされた暗い水の層が、月も星も飲み込んでいた。

世界ごと、沈んでいる。


悠は本能的に後ずさった。

だが背中にも、水。

壁などなかった。

モーセの奇跡みたいに俺がいる場所だけを避けていた。

けれどそれは溶けてすごい勢いで俺を飲み込んだ。自分の後ろも、左右も、足元も、すべてが水に溶けていった。


呼吸が苦しい。

肺の奥に冷たい圧が押し寄せる。

「……いやだ……」

手を伸ばす。

だが水は指の隙間をすり抜け、掴めない。

それどころか、水はその手をやさしく包み込み、ゆっくりと引き寄せる。

抵抗はできない。

足首を掴まれ、腰を撫でられ、胸にまとわりつく。

ぬるいのに、氷のように冷たい。

心臓の鼓動さえ、水のリズムに同調していく。


最後に見えたのは――

街のビル群の窓という窓に、黒い人影のような揺らぎが立ち尽くしてこちらを見ている姿だった。

それは水に映る自分の影ではなかった。

数えきれない目が、水越しに悠を見つめていた。

次の瞬間、視界が崩れ落ちる。

音も光も、すべて水の中に吸い込まれた。


――もう、境界はなかった。


(終)


読んでくださり、ありがとうございます。


この物語は、目に見えるものだけが現実ではないという考えと水恐怖症を具体的に表してみようと思いから出来上がりました。

街は普段と変わらず動いているのに、悠だけが感じる水の異常――それは誰にも理解されない孤立感と恐怖です。


この水というテーマで自分は日常に潜む不安や圧迫感、水恐怖症の人達がどう感じるのかを書きたいと思いました。それは自分がなったは事ないので深くまでは分かりませんが、

黒い水、それは確かに迫ってくる……そんな「見えない恐怖」を読者の皆さんにも感じてほしいと思いました。


この作品の恐怖は、霊や怪物ではなく、心理的な感覚と環境そのものから生まれるものです。

ですので、誰かが襲われるという直接的な描写は控え、あえて悠の視点だけで世界が変化する感覚を追体験してもらう構成にしました。


最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

皆さんの心の片隅に、ほんの少しでもこの「水の重み」が残れば嬉しいです。

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