第八話 声
「助けてもらっておいて、こんなこと言いたくないんだけど……」
「……向こう側に行くべきだったっていいたいんだろ?か、わかってる。でも、急いでたから頭が回らなかったんだ、しょうがないだろ?」
「まぁ、責めるつもりはないんだけどね」
俺と優奈は短い話し合いの末、『バイトを中断してここから立ち去る』という結論に至った。
建物の上にいた時、聞こえた『悲鳴と化け物のような声』。『洗脳状態みたいになる、突如現れた《鳥居》』。『そこに吊るされた《死体のようなもの》』。あと一応、いきなり壊れた電灯も含めて、――ここは異常だからだ。
何が原因とかどうでもいいから生きて出る。
俺たちは、残念ながら特別な人間なんかじゃない。
物語なら、描かれることなく死んでいく程度の人間だ。
悲しくも、そう自覚しているからこそ、さっさと逃げるという結論にお互い異論はない。
俺たちの前に、道は2つ。
一階の廊下、もしくは歩道。
そのどちらかを走り抜けるというもの。
道路は、《鳥居》があるのでやめておこう、ということになった。
向こう側までライトの光が届かない。
月の光も、はみ出した街路樹や雑草の山で隠れてしまっている。
逃げ隠れる側としてはありがたい遮蔽が、今は邪魔になっていた。
「草木に邪魔された歩道より、廊下の方が多少走りやすいか?」
「え?でも……いきなりドアとか開いたら、私心臓止まる自身あんだけど」
優奈のせいで、俺は嫌な想像をしてしまいゾッとする。
「そういうのはやめてくれ、扉が開いて――いきなり引き摺り込まれる姿を想像しちまったじゃねぇか」
「は?……最悪!こっちも想像しちゃったじゃん!」
優奈は感情的になり、大きな声を出した。
「しっ!」「やばっ……」
俺たちはすぐに走れるよう、腰を落として建物の方を見る。
しかし、意外なことになんの反応もない。
「なんかさ、さっきから異様に静かだよね?」
確かにそうだ。
《建物の化け物》の声は、上の階で聞いて以降一度も聞こえてこない。
「だとして、もういないとか消えたって考えるのは楽観的すぎるだろ」
「そんなこと言ってないじゃん。……まぁだったら良いなとは思っ――ひいっっ?!」
「うおっ?!なんだいきなり!?」
《ヴィヴィヴィ》。
という無機質な音に、優奈が驚き飛び跳ねる。
俺はその突拍子もない動きに驚き、――心臓が飛び出るかと思った。
「……なに?まじで嫌、……何今の?」
「……スマホが鳴っただけだろ」
ポケットから自分のスマホを取り出す。
「は?嘘だろ?」
「え、なに……どうしたの?」
「……電源がつかねぇ」
俺がスマホの電源ボタンを押しながら呟くと、優奈もコートから自分のスマホを取り出して――「はぁ?私もなんだけど……」
じゃあ、今の音はどこから?
「なにこれ、壊れた……とかじゃないよね?」
優奈が怯えた様子で俺の腕に抱きついてくる。
二人のスマホが同時に壊れたと考えるより、《ここ》の異常性がそうさせたと考える方がしっくりくる。
《ヴィヴィヴィ》。
「まただ。……どこだ?近くで鳴ってるな」
「絶対ヤバいって、わざわざ探さなくていいよ!無視しよう!」
一階の廊下と歩道の間。
草木生い茂る中から、バイブレーションの音が響き続けているようだ。
「……あった」
月明りを遮るほどの鬱蒼さの中、スマホの画面が怪しく光を放っている。
まるで『ここだ』と自己主張するように。
「マチダ、いいよ!やめとこう?触らぬ神になんとやらって言うじゃん!放置が正解だって」
肩が抜けるくらいの力で、優奈が俺を引っ張って止めようとしてくる。
「……好奇心は猫をも殺す。って言うくらいだからな。やめとくか」
「は?なんで猫が死ぬの?意味わかんない」
「……。まぁいいや、やめて――」
『見捨てるの?』
頭の中に声が響いた。
「――優奈、今なんて?」
「は?私?……なんも言ってないけど」
団地の中でも聞こえた、子どものような声。
見捨てる?今?誰を?
なんのことを言ってるんだ?
「もし私のことを怖がらせたいなら、もうやめて!マジで漏らしてないだけ偉いくらいビビってんだから!」
可愛げなく、全力で俺の腕を掴んでいる優奈。
やっぱり、あの声は――俺だけに聞こえているらしい。
なにか条件を満たしたのか?
ゲーム脳的な思考が働く。
普通、こういうのは『元々適性のある人間=霊感があるやつ』に起きるのが定番だ。
それか、なにか呪われたアイテム的なものを拾っちゃうとか、親族から受け継ぐなんてのもありがちだな。
俺はどれにも当てはまらない。
おかしな現象なんて、この団地に来るまで一度も経験したことなかった。
ここに来てから何も拾ってないし、親が残してくれたのは、――多額の借金だけだ。
「なんでこの状況で呆けてんだよ!」
優奈が俺の腕を力強く振り回す。
「いっ……てーよ。わかった。悪かった」
「さっさと逃げようって言ってんのに、なに考えてんの?!ここに残りたいならライト頂戴!私1人で帰るから!」
「……マジで悪かったっ――」
『見捨てるの?』
「っ、」
再度、声が脳内で響いて、俺は辺りを見渡す。
「マジでさぁ……演技ならもういいよ。撮影もしてないんだからさあ……」
怖がるような、怯えるような声色の優奈。
そのすぐ後ろで、地面に置かれたスマホが光っている。
《ヴィヴィヴィヴィヴィ……ッ》
「なんで?!さっきまでこんな場所になかったのにっ!?」
「出ろ……ってことなんだろうな」
「は?!いやいや、絶対やめた方がいいでしょ!さっき自分で言ってたじゃん!好奇心は――」
俺は優奈の手を振り解いて、歩道の真ん中へ移動してきたスマホに近寄る。
「……なんなのそのクソ度胸、マジで意味わかんないってぇ……」
優奈が地面を踏みつける音が聞こえた。
「……出るぞ?」
「はぁ……。一応言っとくけど、私はマジで嫌なんだけど」
「でも、コイツ、多分ずっとついてくるタイプの怪異だぞ?」
ついてくる、憑いてくる。
……考えすぎか?
「……それなに?ゲームの知識?」
「さあな。ホラー系ならわりとあるあるじゃね?」
地面にしゃがみ込み、手に取らず観察する。
画面が粉々に割れて、あちこちに傷がついてる。
まるで高いところから落としたみたいだ。
亀裂が多すぎて誰からの着信かは分からない。
外部から操作できる状態には見えないが、多分出来るんだろうな。
使えないはずのものが使えるっていうのも、ホラーあるあるだ。
――なんだが、少しこの状況に慣れた俺がいるな。
決して良いことじゃないんだろうな、と思いつつも自分を俯瞰視する余裕ができたことで、俺は気が楽になった。
「私、やばかったらアンタ置いて逃げるから」
「……ああ、そうだな。それでいいさ」
俺そう言って頭につけたライトを外し、肩に掛けていたバッグに入れて優奈に投げる。
「え?……まじ?」
いざとなったら1人で逃げてくれ。
そんな想いを込めて投げ――。
そして、スマホを手に取る。
《ヴィヴィヴィ――》
画面に触れていないのに、バイブレーションが止まった。
『――ザザッ――』
どこからどう見ても壊れたそれから、なにかが繋がったような音。
『ねぇ――、わたし、もうここに居たくないよ。――、おねがい。わたしもここから連れ――』
ブチッ!
という、何かが切れるような音と共に、スマホは光を失った。
どこを触ってもなんの反応もない。
今の聞こえてきた声は、こちらに話しているというよりも――誰か、向こうにいる人間へ話しかけるような。
だとしたら――誰が、誰に話しかけていた?
「えっと……今のって、子どもの声……だよね?」
俺は、優奈の言葉に返事をするよりも早く、歩道の端まで這うようにして移動する。
膝に手をつき、上半身を丸めて、――盛大に吐いた。
「あっ……うう、ぐっ、……はあ、はあ。――う、うえっ……く、……お、おえ……」
胃の内容物が、いや、体内に入っていた全てが逆流するような、嫌な感覚。
全身を支配する嫌悪感。
喉が焼け、涙も止まらない。
「ちょっ……なに?なんなの?!」
慌てふためく優奈の声に、俺は何も返せない。
それほどまでに、少女の『悲痛な叫び』が、俺には痛く刺さったのだった。