第十七話 投影
ゲームと現実は違う。
優奈がここにいたら、きっとそう言っただろう。
でも、――今はいない。
彼女たちが無事脱出できたことを祈りつつ、俺は存分に『ゲーム的な考え方』をしてみようと思った。
この手の場合、『出られない理由』というものがあるはずだ。
とりあえずで思いつくのは……、《封印》されてるというパターン。
世界を羨み、妬み、呪い、大きくなった力を恐れられて封印されたって展開だ。
――ないな。
《顔のない少女》は残念ながら、そもそも世界を知らない可能性が高い。
それはとても、残酷な話だが――。
あとは人柱。
なんらかの儀式の犠牲となり、物凄いパワーを秘めて――ってのも違うだろう。
ここが因習根強い山奥の村ならまだしも、団地でそれはちょっと違う気がする。
と、なると――。
『だして、だしてよおおおお!!』
《少女》が、窓を必死に引っ掻いている。
悲痛な叫びはもとより、どう足掻いても、この先この娘が幸せになることはない。という事実が、俺の胸を苦しめてくる。
鍵は開いている。なのに《少女》は窓を開けようとせず、ひたすらに引っ掻くだけ。
もしかして――窓の開け方を知らない?
まさかとは思う。けど、それくらい――外の世界を知らないのかもしれない。
いや、……そうか――。
「本当は、……出たくないんだ」
『……』
ピタリと、動きが止まる。
周りの空気そのものすら止まったみたいだ。
皮膚に絡むような湿り気も、なんとなく感じていた圧迫感も、その全てが消えた。
そんな錯覚を生むほどの静寂。
『怖い……』
「……だよな。外の世界、知らないんだもんな?」
『うん』
《少女》の頭を、隠すように纏っていた《影》が急速に収縮する。
それでも顔は見えない。
顔があるべき場所には、黒く、暗闇よりも深い黒が覆っている。
「ここから出たいけど、出るのが怖いんだな?」
影の部分が揺れる。
俺はそれを――肯定……と、受け取ろう。
「俺が付き合うよ。……なんの助けにもならないだろうけど」
この子は、俺に似ている。
誰にも見つけてもらえなくて、誰にも触れられなくて。ずっとこの部屋で、世界から閉じ出されていた。
だから、そんな言葉が自然と出た――。
「……とりあえず、そっちの部屋に行ってみねぇか?」
俺は《鬼》の侵入してきた、台所のある部屋の方へと指をさす。
『やめとけ』って全身が叫んでる。
『もう潮時だ』ってわかってる。
『なんの意味がある?』って疑問が浮かぶ。
さあ?なんなんだろうな。
でも、それって俺の人生もそうなんだよ。
なーんの意味もない人生。
誰もいない、1人の人生。
だったら、最期に誰かの――。
窓を越え、ゴミ部屋を進む間、《少女》は黙っていた。黙って、俺の後をついてくる。
頭が《影》なこと、建物を震わすほどの叫び声、それらを除けば普通の、――いやそれはないな。
『あっ』
《鬼》がいた。
扉を開けて、すぐにその血走った目と目が合う。
コイツ、まだ残っていたのか?!
「っ、」
肉食獣を思い出させる牙が、糸を引くのが見え、何かを発声するより早く俺は地面に倒れ込んだ。
『イヤあああああっ!!』
床に寝転びながら、俺は耳を必死に塞ぐ。
「……うる、せえ……」
自分の声すら聞こえない。
《少女》の絶叫。
『――――』
《鬼》が去り際に、なにか言った気がするのだが、絶叫に掻き消されて聞こえなかった。
「……助かったよ」
逃げるように走り去った《鬼》のいなくなった台所で、俺は《少女》に頭を下げる。
『……?』
首が、……いや、《影》が傾いた気がしたが、――お礼も知らないのか?
「……はあ、想像するだけでイヤな気分になる」
『……』
《少女》は、敷居を跨ぐことなく、ジッとコチラを見つめている。
――まぁ、顔も目も見えないのだが。
「……やめとくか?」
『……なにを?』
「ここから出る、ってことだよ。やめたいなら構わないさ。それなら、俺はそっちの部屋に戻って窓から逃げる。ただそれだけ――」
『見捨てるの?』
「……ああ、ちくしょう。効くなぁ……」
全く本当によく刺さる言葉だ。
言われた瞬間、心臓に痛みが走って瞼が痙攣する。
そんな、呪いみたいな言葉。
「はあ、……とりあえずここまで来いよ」
俺は《鬼》よって壊されたままの玄関を跨ぎ、室内に残った《少女》に手招きをする。
『うう……』
その弱々しい呻き声は、顔の潰れた《怪異》とは思えないものだ。
……果たして、《少女》は怪異なのだろうか?
いや、この疑問は間違っている。なぜなら怪異でない要素はないからだ。
……しかし、他のそれらと違い、この子から害意のようなものは微塵も感じないのも事実。
現にこうして、俺は今も無事だ。
「別物、……なのか?」
大きな枠組みに当てはめれば、アチラ側なんだろうけど、ミクロに見れば……、違う存在なのか?
「……ふぅ、わからん。俺1人で考えてもわから――いぐっ?!!」
喉に衝撃、身体が後方へ引っ張られる。
いきなり、不意に、なんだっ!?
「――ぐっおっ、……くっ!はな……、せ……」
毛むくじゃらの細い何かが喉元に巻きつき、俺は廊下の腰壁に体を強く打ち付けた。
呼吸が一瞬止まる。
間違いない。――怪異だ。
『入ろう』『入ろう』『捕まえた』『入ろう』
頭上から不気味な声がいくつも聞こえる。
これはたぶん、ジャングルと化した歩道から聞こえてきたもの。
「つ、……ふ、ふざっ、けんなっっ!!」
首元を掴まれたまま、俺は無理やり体を捻る。
首元を掴んでいた腕?から離れる際、鋭い爪か何かで引っ掛れた。首や耳辺りに、熱と痛み。
「ちっ、……は?……なんで……猿?」
振り返ると、腰壁の上に1匹の猿がいた。
毛深い、ニホンザルみたいな見た目にドス黒い体毛。
その小さな体を丸め、大きな手みたいな足で腰壁の上を掴んでいる。
なんて不気味な――怪異だ。
夢に出てきそうな、邪悪で悪辣な表情。
鋭い歯を見せつけるように嗤い、長い爪についた俺の血を舐めているそれを、俺はただの動物だとは思えない。
ビュンビュンと木々の間を何かが飛び回る。
――1、2、ちっ、……数えても無駄だ。
頭上の樹上を飛び回り、居場所も数もわからない。
『入れなかった』『入れなかった』『入りたかった』
どっかで聞いたような言葉を繰り返す《猿の怪異》。
「……はぁ……、はぁ……」
思いっきり背中を強打したので、未だに呼吸は戻らない。
……たぶん、俺はここで死ぬ。
移動速度は間違いなく向こうのほうが上だし、さっきの感じからして単純な筋力も負けてる。
体躯としては勝ってる相手に負けるのか。
――悔しいな。
《猿の怪異》は、ずっとこちらの様子を窺って、襲いかかってこない。
――なぜ?
……いや、違う。
こいつらの視線の先にあるのは、俺じゃない。
そう確信し、敵を前にしながら背後を振り返った。
『く、……ふー、ふー……』
荒く、振り絞るような声を漏らしながら、壁に手をついた《少女》がゴミ部屋を出て、こちらに向かって歩いている。
『あー、……あーーっ、』
首から上を見ず声だけ聞けえば、今にも泣き出しそうな弱々しい姿、叫び。
しかし、どうやら《猿の怪異》は、それが恐ろしいらしい。
一歩、また一歩と近づくたびに、ヤツらは奇声をあげて去っていく。
『ヴゥー!ヴゥーッ!ヴヴゥーッ!!』
俺の前にいた、腰壁の上を掴んだ《猿の怪異》は、最後まで威嚇するような声をあげていた。
それがプライドなのか、欲求なのか、生態なのかは知らない。けれど、悔しがっているようにも見える。
あと少しだった、そんな悔し紛れの声。
しかし、《少女》が玄関の超えた瞬間、そいつはどこかへと消えていった。
「助かったよ。……ありがとな」
『…………んふー』
《顔のない少女》は、壁から手を離して直立する。
自力で、俺の手助けなんかなく、1人で出てきた。
その顔は見えないけど、たぶん……『どうだ』って顔しているんだろう。
そうであって欲しい、と俺は思った。