第十六話 非業
「……なあ、いるか?」
誰もいるはずのない、ゴミに満たされた部屋で俺は1人声をあげる。
…………。
……。
当然ながら、返事なんてない。
窓から入る月の明かりを頼りにし、部屋の中を探索する。
「ちっ、……足の踏み場もろくにねぇ……」
カビだのなんだのすら死滅して、どこもかしこも乾燥しているらしい。何年も、何十年も人が入らないとこうなるのかと恐ろしくなるくらいだ。
「……昭和?」
何年かは読めない。
落ちていた缶詰の賞味期限がそれってことは、食われたのはもっと前だろう。
こんな部屋で1人、子どもが閉じ込められていたなんて、――想像もしたくない。
虫すら湧かなくなった部屋の中、俺は1人打ちひしがれるような思いで探索と思考を続ける。
「なあ、お前は、……私生児ってやつなのか?」
返事が来ないことを想定しつつ、思いついたことを声に出してみる。
…………。
……。
なーんの音もない。
窓側、ベランダの向こうから優奈がなにかを投げて、窓に石かなんかの当たる音がした。
直接見たわけじゃないけど、アイツの考えることはなんとなく分かる。
カツンっ!という音が何発も聞こえて、次第に聞こえなくなった。
「……なぁ、俺はなにをしたらいい?お前は俺になにをしてほしいんだ?」
少し、問い詰めるような語調で独り言を繰り返す。
向きを変え、テンポを変え、声色を変え、暖簾に腕を押し続ける。
「はあぁ……、完全に無駄足だったな」
俺は窓の外を見てため息をつく。
どれくらいの時間そうしていたかは分からないが、少なくとも優奈が諦めて立ち去るくらいには時間が経ったらしい。
――もう帰ろうか。
無事に帰れるかは知らないが、幸いなことに優奈やミリカの叫び声は未だに聞こえないし、窓から見える範囲に《怪異》の姿も、《異常》な光景も見当たらない。
――今になって思うと、ここは『それっぽいもの』の集合体だったのかもしれない。
詳しくないから元ネタがあるのかは分からないが、ここで起きた《怪異》はどれもこれも《ディティール》が甘かったような気がする。
物語に出てくる《怪異》っていうのはもっと……、こちらの命を狙うとか、生態や目的が見えるものだ。
人を恨んだり、呪ったり、そういう傾向が見えてくるはず。
だというのに、ここのヤツらからはそんな気配、しなかった。
ただ脅かし、誘導するようなものばかり。
本当に、誰か被害に遭ったりしたのだろうか。
ミリカはコートの下に青あざや擦り傷を作っていたが、あれも逃げた際に転んでできたものと言っていた。
『――』
ふいに聴こえた《声》で、俺は振り返る。
小さな子ども。
細く、皮と骨以外の全てを削ぎ落としたような子どもが、こちらを向いて立っている。
顔は黒く塗りつぶされて、男が女かも分からない。
ワンピースのようなシルエットの服で、かろうじて女の子なのだろうと分かった。
「……おまえ、いや、……キミは俺になにをしてほしいんだ?」
自分の口から出たとは思えないくらい、情けのない震え声で訊ねる。
『ここから出してほしい』
聞き覚えのある声。
拾ったスマホから聞こえてきた声に聞こえる。
――そういえば、あのスマホは誰のものだったのだろう。
なんて、場違いなことを考える。
『出して、出して出して出してッ!!!!』
その大声に反応するように、頭があるはずの位置に浮かぶ《影》が大きく揺れた。
狭く、密閉された部屋の中に反響する絶叫に近い大声。俺は思わず耳を塞ぐ。
『私を、ここから出してッ!!』
手のひらで耳を押さえるくらいじゃ防ぎきれないほどの絶叫で、脳が揺れて吐き気を催す。
「……たのむ、頼むから騒がないでくれ」
俺は懇願するように手を前に出し、縋るように頼んでしまう。
『わたしは、ここから出たいだけ。ママに会いたいだけなの――』
声のトーンが、ほんの少し下がった。
つまり、――会話が、……できるのか?
俺はいざという時を考え、窓を開けてから話しかけることにした。
「……なぁ、俺に何を望んでいるんだ?」
返事はない。
肩付近にまで広がった《影》が、沸騰した水のように跳ねているだけ。
「名前、……キミの名前は?」
傍聴し、湧き上がるような様だった《影》が収縮していく。
「……教えてもらえるか?」
『……なにを?』
ようやく返事が来た。
「俺がキミをなんて呼べばいいか」
『っ、わかんない!意味がわかんない!知らないよ!わかんないよっ!!!!』
音の壁、といえばいいのだろうか。
それに押されて俺は宙を舞った。
俺が飛ぶと同時に、爆発するような音を立てて砕けた窓を越え、俺はベランダに叩きつけられる。
味わったことのない痛み、衝撃、身体の至る所が痺れて感覚が遮断された。
「はっ……はあっ……ぐっ、」
倒れたまま、身体を動かすこともできない。
『わたしを、ここから出してっ!!もうイヤ!こんな場所にいたくないっ!!』
叫ぶ声が近づいてくる。
『もういや!クサイ!きたない!あつい!さむい!ここはダメっ!!誰かたすけてよっ!!』
すぐそこ。
外と中を繋ぐ窓の縁で、少女は喚いている。
「……越えられないのか?」
あの部屋から出られない?
《鬼》のようなやつは、あそこへ入れなかった。
《少女》はあの部屋に閉じ込められている。
『出してよッ!!』
いつの間にか再生していた窓が揺れる。
「……いっ、てえな……」
何本の骨が折れたのだろう。
もしかしたら、ただの打撲かもしれない。
満身創痍の身体に鞭を打ち、俺は立ち上がる。
新品同様となった窓に触れ、その向こうに佇む《少女》に声をかけた。
ここまで来たらもう、意地みたいなもんだ。
「……俺になにができる?何をしてほしい?」
『わたしをここから出して!』
「どうやって?」
『……。』
「……わからないってことか?」
『わからない!わからない!……わたしはここしか知らない!この部屋しか知らない!』
少女は……、その頭の影を大きく震わせながら叫び続ける。
『ママは出るなって言った!だから、わたしは約束をずっと守った!守ったのに!守ったら――出してくれるって言ってたのに!!』
聞いているだけで心が荒み、誰かを呪いたくなるような話だ。
同情なんて、共感なんて、しなければよかった。
俺なんかよりもずっと、この少女は苦しんでいる。
たぶん、死んだ今も――ずっと。