第十五話 私室
何ら飾り気のない、空虚な部屋。
その床に、いくつものペットボトルとコンビニ弁当の残骸みたいなものが散乱している。
「……あれ?《鬼》が……」
と、ミリカが呟いた。
そうだ、そういえば――。
後ろ手に締めた扉の向こうから、『あけてぇ、あけてぇ』という声だけが聞こえる。
「なにアイツ、この部屋に入ってこれないってこと?」
「かもしれませんけど、……安心するのは危険ですよ」
アイドルとしては、後輩なはずのミリカによって嗜められる優奈。
助け船を出してやろう。
「玄関扉をぶち破ったくせに入ってこないってことは、こっちには入れないんだろうな」
「それよりさ――」
優奈は俺の気遣いを無視して部屋の中を探索し、散乱したゴミを軽く蹴飛ばす。
「――これ、今は売ってないジュースだよね?」
コロコロと足元を転がるペットボトルは、確かに何年も前に廃盤となったものだった。
「マチダの言ってた、『ここに住んでた人はいない』って説、崩れたね」
「この感じはどっちかって言うと住んでたって言うより――」
「――不法滞在とかのそれに見えますね……」
ミリカが部屋の片隅に転がる、布の塊を見つめながらそう言った。
《核心》なんてものがあるなら、この部屋にそのヒントが多くありそうだが、――それは俺の役割じゃない。
ライトを頭に装着し、ドラムバッグを肩に掛ける。
散乱するゴミを踏みながら部屋の中を進むと、どれも乾燥しているのか、パキパキと音を立てて崩れていく。
窓の外は、玄関側と違い月の光が遮られておらず、久しぶりに優しい光を見た気がする。
「さあ出よう」
ここを出て、左に進めばフェンスまで辿り着くはずだ。
そう考えて鍵を開けようとするが、どうにも動かない。
「……なにしてんの?さっさと開けてよ」
「いや、動かねぇんだ……」
壊れているのか?と疑いたくなるほどだ。
「あれ?……ここ、なにか挟まってますよ」
ミリカが指をさし、俺はそれを追う。
「は?」
内側から木の棒で鍵が降りないようになってる。
――なんだこれ?……子供騙しか?
こんな簡単な仕掛け、ふ……。
『普通の大人になら、何の意味もない』。そう考えて――俺はとてもイヤな気分になった。
「……なに?どうしたの?……頭痛いの?」
木の仕掛けを外し、頭を窓につけて溜息をつく俺に、優奈が窓を超えながら訊ねてくる。
「まぁ、そんな感じだ……」
「……帰ったら病院行った方がいいよ?頭痛って侮ってると――」
これはあくまでも俺の想像の域を出ない。
妄想……いや、被害妄想って言ってもいいかもしらない。
『子どもがここに閉じ込められてた』、なんて言っても、ドラマの見過ぎかゲームのやり過ぎって結論に落ち着くだろう。
誰だって、俺だってそう考えるさ。
優奈に続いてミリカが窓を超え、俺も後に続く。
『見捨てるの?』
何度目かは忘れたが、そんな声が聞こえる。
2人はベランダを乗り越え、外へと完全に出た。
足場はないし、2人はもう戻れないだろう。
つまり、部屋に戻れるのは今、俺だけだ。
「……なにしてんの?」
「えっと、その部屋が本当に安全かなんて……」
『見捨てるの?』
ああムカつく。
本当に心の底からムカつく声だ。
――ピンポイントで俺のトラウマを刺激してきやがって。俺のなにを知ってるってんだ。
『見捨てるの?』
「ちょっと、マチダ!マジでなにしてんの?!さっさと逃げようよ!」
「もしかして、動けないんですか?!……優奈先輩、向こうに戻る方法を考えましょう!」
「戻る……ええ?!」
優奈たちの声がうるさい。
……俺のことはどうでもいい。
さっさと2人で逃げろ。
そう伝えたいのに、声が出ない。
『見捨てるの?』
「……うるせえ」
「えっ!?なんか言った?!」
「優奈先輩、今はとにかく登る方法を……」
少しだけ、2人の声が離れた気がする。
気配も、匂いも、どこか別の世界みたいだ――。
『……わたしも連れて行って』
『無理つってんじゃん!マジで何回言えばわかるのっ!!』
怒鳴り声。
聞き覚えがないはずなのに、どこか懐かしい金切り声。
『もう、ひとりはイヤだよ……。怖いの……。暗くなるとね、変な声――』
『――知らない!やめて!私を悪者扱いしないで!!私は望んでなんかなかったんだから!!勝手に生まれてきといて私を責めるなッッ!!!』
ああ、そうか。
全く聞き覚えのない声だけど、どこか懐かしいのは、俺の母に似ているからだ。
『アンタのせいで私がどれだけ苦しんだと、私がどれだけのことを諦めたと思ってんだ!!……寂しい?!知らないよそんなのっ!!私だって……私だって……』
いつの間にか、真っ白な部屋にいた。
ベランダに居たはずなのに、あのゴミだらけの部屋に戻ったみたいだ。
窓から明るい光が差し込み、部屋の中が鮮明に浮かび上がる。
少し古臭い服装の女と、……小さな子ども。
『アイツが……、アイツが悪いんだ!私は悪くない!!私はなにも――』
これは俺の記憶か?
そう錯覚してしまうほどに、聞き慣れたセリフ。
しかし、今この部屋で泣いているのは、見たこともない少女。
部屋の隅で小さくなり、声を殺して泣いている。
体育座りで頭を膝につけて肩を揺らす、まだまだ小さな少女。
その声に、俺は聞き覚えがある。
たぶん、あの拾った電話の――。
『あああっ!もう!ほんとイヤ!アンタなんか産まなきゃ――』
――この子は俺と違う。
俺は『あの頃』、もっと歳を重ねていた。
俺はまだ、多少は愛されていた期間があった。
母がおかしくなったのは、親父が――。
『見捨てるの?』
少女が、顔を上げた。
顔だけを上げて俺を見ている――らしい。
黒く、塗りつぶされた顔をこちらに向ける。
影を顔に纏っているのか、そういう《怪異》なのか知らないが、――気が狂いそうだ。
そもそも、『見捨てるの?』ってなんだよ?
勘弁してくれ。
それじゃまるで、……俺が『誰かを救う役』として、選ばれたみたいじゃないか。
『見捨てるの?』
それは俺の役割じゃない。
俺は、俺の役割は……、描かれなくていい。
ただ偶然生き残って、なんの味もないキャラクター。それで満足だ。
『見捨てるの?』
確かに俺は、誰も見捨てないなんて高尚なことを考えてた。
いや、今も多分そういう考えを捨れていない。
それは認める。
だけど、それは主人公に憧れてたからじゃない。
ただ、……誰からも助けてもらえなかった過去の自分が、そうしろって煩いから――。
『見捨てるの?』
親からも、仲間からも見捨てられた俺が、誰かを見捨てるなんて選択、選べない。
『見捨てるの?』
呪いだよ、これは。
逃げていいって風潮だろ?
無理すんなってよく聞くだろ?
それが悪いことなんて、もう誰も言ってねぇじゃねぇか。
『助け……て』
あーあ。
聞こえちゃった。
聴こえちゃった。
……届いてしまった。
それだけは言われたくなかった。
それだけは聞きたくなかった。
だって、それを言われて見捨てたら――「俺が俺を許せなくなるじゃねぇか」
ジワっとした、纏わりつくような熱気に襲われる。
「……なに?!なんか言った?!」
息も絶え絶えと言った様子の優奈。
「優奈先輩!雨樋を使って登れませんか!?」
「はぁ?!んーなの、無理に決まってんじゃん!もっとほら、台になるもんとか探そうよ!」
「……2人とも、悪いんだけど――」
「マチダ、アンタ平気なの!?」
「よかった、無事だったんですね!」
「――先に行っててくんねぇか?ちょっと忘れ物したみたいなんだ」
俺はそう言い残し、頭のライトとドラムバッグを投げた。
「バカ!忘れもんな――」
窓を閉める直前、優奈の叫び声が聞こえた気がする。